平安中期の女流文学者で『更級(さらしな)日記』の作者。実名は不明。父孝標は右大臣菅原道真(みちざね)5世の孫で、代々学問の家柄であったが、彼のみは大学頭(だいがくのかみ)、文章博士(もんじょうはかせ)の顕職から除かれ、わずかに受領(ずりょう)として上総介(かずさのすけ)、常陸(ひたち)介を歴任するにとどまった。母は藤原倫寧女(ともやすのむすめ)、『蜻蛉(かげろう)日記』作者(藤原道綱母)の異母妹にあたる。少女期を父の任国上総(千葉県中央部)で過ごし、物語世界への憧憬(しょうけい)を培われた。13歳のおりに上京、以後、夢見がちな文学少女として成長していく。32歳で後朱雀(ごすざく)天皇の皇女祐子(ゆうし)内親王家に出仕したが、翌年橘俊通(たちばなのとしみち)と結婚、一子仲俊をもうけた。34歳のおり、夫の下野(しもつけ)国(栃木県)赴任に同行せず、再出仕、源資通(すけみち)との交流も生まれた。結婚生活を経るなかで、しだいに現実に目覚めたが、一方、物詣(ものもう)でに熱中するなど生活上の安定は得ていたらしい。その夫とも死別し、晩年は子供とも離れて孤独の生活を送ったらしい。『更級日記』のほか、『夜の寝覚(ねざめ)』『浜松中納言(ちゅうなごん)物語』などが彼女の作として伝えられる。
[多田一臣]
『津本信博著『更級日記の研究』(1982・早稲田大学出版部)』
(山本登朗)
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平安時代の女流文学者。父孝標は菅原道真の5世孫。母は藤原倫寧(ともやす)の娘で,《蜻蛉(かげろう)日記》の作者道綱母の異母妹。10歳の1017年(寛仁1)父の上総介赴任に伴われて下国,1020年帰京,その後《源氏物語》を耽読して夢多き娘時代を過ごした。32歳の39年(長暦3)祐子内親王家に出仕したが,宮仕え生活になじまずときおり出仕する程度であった。33歳,橘俊通と結婚して長男仲俊ほか女子をもうけ,地道に家庭生活の安穏を願ってしばしば社寺に参詣したが,51歳の58年(康平1)夫と死別し,孤独な晩年であった。《更級日記》は13歳から51歳までの人生の推移を回想した日記であり,夢と信仰との相克を哀切に語る。《夜半の寝覚》《浜松中納言物語》ほかの物語の作者とも伝えられる。
執筆者:秋山 虔
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1008~?
平安時代の日記文学作者・歌人。「更級(さらしな)日記」の作者。父孝標は道真5世の嫡孫。母は藤原倫寧(ともやす)の女で,藤原道綱の母の異母妹。10歳から13歳まで父の任地上総国で育つ。姉や継母上総大輔の影響で物語に関心をもつ。上京後「源氏物語」を耽読し,光源氏のような貴公子との出会いを願う。32歳で祐子(ゆうし)内親王家に出仕。33歳で橘俊通(としみち)と結婚。子は仲俊のほかにもいたらしい。51歳で夫と死別し,以後日記を書きはじめる。「浜松中納言物語」「夜の寝覚(ねざめ)」の作者とも伝えられる(「更級日記」定家本勘物)。「新古今集」以下勅撰集に14首ほど入集。
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…1巻。作者は菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)。作者は上総介であった父孝標とともに東国に過ごし,1020年(寛仁4),任期満ちた父とともに帰京の途につくが,その年から起筆し,59年(康平2)ころまでのことを記しているので,その年以後まもなく成立したと考えられる。…
…平安後期の物語。作者は菅原孝標女(たかすえのむすめ)か。原名は《御津の浜松》で5巻現存,首巻散逸。…
…現存本の題名は《寝覚》または《夜の寝覚》。作者は菅原孝標女(たかすえのむすめ)と伝えるが,確かでない。現存本は5巻または3巻に分かつが,中間および巻尾(続編)に欠巻がある。…
※「菅原孝標女」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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