京都から東へ向かう三条街道(東海道)が四ノ宮川を渡る四ノ宮辺りは古くから交通の要衝で、とくに四宮河原として文献に登場する。平安末期には、河原で市が開かれたらしく、「宇治拾遺物語」巻五(四宮河原地蔵事)に、「是も今は昔、山科の道づらに、四の宮河原と云所にて、袖くらべといふ、あき人あつまる所あり」と記される。このゆえか近世の「山城志」四宮渓の項は「曰四宮河原、一名袖河原」と別称を伝えている。またこの地蔵が、今は
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
京都市山科区四ノ宮付近において四ノ宮川の川沿いに広がっていた河原。古くから京より東国へ向かう交通の要衝にあり,《平家物語》や《太平記》などにもその名が見える。中世に京都を中心に諸国を遍歴した琵琶法師たちはこの地で石を積み,道祖神をまつる姿で彼らの座の神事を行ったと伝えられる(《当道要集》《雍州府志》)。《宇治拾遺物語》には〈今は昔,山科の道づらに,四の宮川原と云所にて,袖くらべといふ,あき人あつまる所あり〉と見え,市も開かれていた。四宮の名の由来は仁明天皇の第4皇子人康(さねやす)親王が営んだ山荘が付近にあったからとも,近在の郷社諸羽(もろは)神社を通称四の宮と称したことによるともいわれている。南北朝期には後白河院御影堂(みえいどう)領としてその名が見え,応仁の乱ごろは山科七郷の一つとして,竹内門跡(曼殊院)の支配下にあった。また,交通の要地であったところから,中世には内蔵(くら)寮の支配する率分関(そつぶんせき)が設けられ,1333年(元弘3)の〈内蔵寮領目録〉に〈東口四宮川原率分沙汰人等初任見参料三貫文,毎月御公事一貫五百文,御薪三百把〉とあり,園城寺がその沙汰人職にあたっていた。《師守記(もろもりき)》に〈小関〉と見えるのはこの率分関のことである。江戸時代になると,〈四宮河原,河原今無シ,件ノ社(諸羽神社)ノ辺古ハ河原ナリ〉(《山州名跡志》)と記されているように河原は消滅していたようである。
執筆者:小林 保夫
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