四宮河原(読み)しのみやかわら

精選版 日本国語大辞典 「四宮河原」の意味・読み・例文・類語

しのみやかわらシのみやかはら【四宮河原】

  1. ( 「しのみやがわら」とも ) 京都市山科四ノ宮川原町にあたる場所平安時代仁明天皇第四皇子の人康親王の館が置かれていた。逢坂山西側のふもとにある。

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日本歴史地名大系 「四宮河原」の解説

四宮河原
しのみやがわら

[現在地名]山科区四ノ宮

京都から東へ向かう三条街道(東海道)が四ノ宮川を渡る四ノ宮辺りは古くから交通の要衝で、とくに四宮河原として文献に登場する。平安末期には、河原で市が開かれたらしく、「宇治拾遺物語」巻五(四宮河原地蔵事)に、「是も今は昔、山科の道づらに、四の宮河原と云所にて、袖くらべといふ、あき人あつまる所あり」と記される。このゆえか近世の「山城志」四宮渓の項は「曰四宮河原、一名袖河原」と別称を伝えている。またこの地蔵が、今は徳林とくりん庵の前に立つめぐり地蔵の前身との説もある。また軍記物にも散見され、「平家物語」巻九は木曾義仲の京都脱出を述べて「けふ四の宮河原をすぐるには、主従七騎になりにけり」、「太平記」巻九の光厳天皇の六波羅脱出では「竜駕遥ニ四宮河原ヲ過サセ給フ処ニ」、巻一四の新田義貞軍の動向を記した個所に「後陣ハ未ダ相坂ノ関、四宮河原ニ支タリ」とあり、交通・軍事上の要地であったことが明らかである。

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改訂新版 世界大百科事典 「四宮河原」の意味・わかりやすい解説

四宮河原 (しのみやがわら)

京都市山科区四ノ宮付近において四ノ宮川の川沿いに広がっていた河原。古くから京より東国へ向かう交通の要衝にあり,《平家物語》や《太平記》などにもその名が見える。中世に京都を中心に諸国を遍歴した琵琶法師たちはこの地で石を積み,道祖神をまつる姿で彼らの座の神事を行ったと伝えられる(《当道要集》《雍州府志》)。《宇治拾遺物語》には〈今は昔,山科の道づらに,四の宮川原と云所にて,袖くらべといふ,あき人あつまる所あり〉と見え,市も開かれていた。四宮の名の由来は仁明天皇の第4皇子人康(さねやす)親王が営んだ山荘が付近にあったからとも,近在の郷社諸羽(もろは)神社を通称四の宮と称したことによるともいわれている。南北朝期には後白河院御影堂(みえいどう)領としてその名が見え,応仁の乱ごろは山科七郷の一つとして,竹内門跡曼殊院)の支配下にあった。また,交通の要地であったところから,中世には内蔵(くら)寮の支配する率分関(そつぶんせき)が設けられ,1333年(元弘3)の〈内蔵寮領目録〉に〈東口四宮川原率分沙汰人等初任見参料三貫文,毎月御公事一貫五百文,御薪三百把〉とあり,園城寺がその沙汰人職にあたっていた。《師守記(もろもりき)》に〈小関〉と見えるのはこの率分関のことである。江戸時代になると,〈四宮河原,河原今無シ,件ノ社(諸羽神社)ノ辺古ハ河原ナリ〉(《山州名跡志》)と記されているように河原は消滅していたようである。
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百科事典マイペディア 「四宮河原」の意味・わかりやすい解説

四宮河原【しのみやがわら】

山城国宇治郡山科郷(現京都市山科区)を南流する四宮川と東西に走る東海道が交差するあたりに広がっていた河原。交通の要所で,平安時代末期にはが立ち,地蔵が祀られていた(《宇治拾遺物語》)。また軍事上の要衝でもあり,《平家物語》や《太平記》に散見する。これらの記述によると,ことあるときの入京・出京の成否は,この河原を無事通過できるかどうかにかかっていた。中世には山科七郷の1郷を安祥寺(あんしょうじ),上野(うえの)とともに構成する領域名となっており,率分(りつぶん)所(関所)が置かれていた。江戸時代には河原は姿を消し,一帯は四宮村とよばれた。

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