北野村(読み)きたのむら

日本歴史地名大系 「北野村」の解説

北野村
きたのむら

[現在地名]所沢市北野・小手指町こてさしちよう一―四丁目・青葉台あおばだい北中きたなか若狭わかさじま榎町えのきちよう

上新井かみあらい村の西、狭山丘陵の北にあり、北に小手指原が広がる。天正一八年(一五九〇)四月日には「北野」など五ヵ村に宛て豊臣秀吉から禁制(中氷川神社文書)が下されている。翌五月日の前田利家禁制写(武州文書)には「北野村」とみえ、同一九年一一月の徳川家康朱印状(北野天神社文書)では「武蔵国多東郡北野之郷内八石」が北野宮(現北野天神社)に与えられている。江戸期には入間いるま山口やまぐち領に属した(風土記稿)。田園簿では田二七九石余・畑四二〇石余、旗本小林領・花井領、ほかに天神領八石がある。小林氏は慶長年間(一五九六―一六一五)入間いるま・多摩両郡内で知行を宛行われ、明暦二年(一六五六)勝之助正等が弟伝十郎正弘に一部を分知。分知分は享保二〇年(一七三五)蔵米に替えられたため幕府領となる(「寛政重修諸家譜」・享保二〇年「知行地上知につき名主役儀願書」大舘家文書など)。花井氏は初代吉高が慶長八年知行地を宛行われており(慶応二年「花井氏系図写」大舘家文書)、以後幕末まで当村を知行した。国立史料館本元禄郷帳では小林領・花井領、幕末の改革組合取調書では小林領・花井領・幕府領。なお「狭山の栞」によれば、当村は初め青木五左衛門領・青木杢右衛門領の二給で、杢右衛門領は慶長年間に花井領となり、五左衛門領はのち伊丹権阿弥から幕府領、さらに井上主計から内藤外記へと変わり、再び幕府領となってのち小林領となると記している。


北野村
きたのむら

[現在地名]山添村大字北野

神野こうの山北方、布目ぬのめ川の東にある。喜多野とも書く(桐山村観音寺の天和年間・貞享年間修理銘)。貞和三年(一三四七)の興福寺造営段米并田数帳(春日神社文書)に「北野庄 五町反米一石五斗 号六方衆御免令抑留之」とあり、桐山きりやま庄とともに南朝宮方に通じて段米抑留の挙に出、南朝方勢力圏の最北端地に位置する。

文禄検地の奉行は増田長盛。村高は四七二・三八石。高持一四五人、持高合計三九〇石。屋敷四八戸。入作は杉原すぎはら村一一人、切山きりやま村七人、峯寺みねでら村六人、きたやま村三人、つき村二人、ももがね村二六人、合計五六人、八一・六石。おく津越つごし腰越こしごえうしみねの四集落があり、奥は北野奥きたのおく、津越・腰越・牛ヶ峯は北野西と称し、それぞれ庄屋が置かれていた。


北野村
きたのむら

[現在地名]奈義町滝本たきもと

上町川かみまちがわ村の北東に位置。たき山を水源として南流する滝川沿いに立地。文明一四年(一四八二)八月一〇日の広峯ひろみね神社(現兵庫県姫路市)の社家と考えられる林家長の檀那村書(肥塚家文書)に、美作国のうちとして「北野村之内有なかの刑部」とみえ、年未詳であるが同じく林氏の檀那村書(同文書)に「きたの村 宿ハ 井上太郎ひやうへ殿」とある。正保郷帳に田五七六石余・畑四九石余とある。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳では改出高一四二石余・開高五七石余、村位は上。美作国郡村高并戸数里程事(武家聞伝記)によれば、延宝(一六七三―八一)頃と考えられる戸数五二(うち大ミと八・かそ山一〇・さこ谷一など)、延宝四年からは津山藩主の弟森長俊領。森氏断絶後の領主の変遷は上町川村とほぼ同じであるが、寛政四年(一七九二)の旱魃のとき勝南しようなん西吉田にしよしだ(現津山市)へ年貢の破免・検見を願出ていることから(「願書」二宮文書)、下総佐倉藩支配もあったと考えられる。


北野村
きたのむら

[現在地名]北区万歳ばんざい町・堂山どうやま町・神山かみやま町・野崎のざき町・兎我野とがの町・太融寺たいゆうじ町・小松原こまつばら町・角田かくだ町・茶屋ちやや町・芝田しばた一―二丁目・大深おおふか町など

西成にしなり郡に属し、川崎かわさき村の西にある。南東部から南部にかけては大坂三郷天満てんま郷に接するが、かつて村域であったと考えられる地域に天満西寺てんまにしてら町が成立したこともあって、川崎・曾根崎そねさき両村や天満郷・寺町と入組んでいる。古くは菟餓野とがのとよばれたといわれ、また古刹太融寺があり、平安時代の由緒を伝える綱敷つなしき天神社が鎮座するなど、早くから開けていたと思われる。寛正二年(一四六一)一二月二六日の中島崇禅寺領目録(崇禅寺文書)に「福島村 平田分」として「北野」「北野村」などとみえるのは当地と考えられる。


北野村
きたのむら

[現在地名]城端町北野

山田やまだ川右岸に位置し、東は井口いのくち村・井口中村(現井口村)、南は理休りきゆう村・蓑谷みのだに村・細野ほその村・西明さいみよう村。村内で利波となみ川・細谷ほそたに川・小谷谷おたにだに川などが合流して山田川に注ぐ。村域の字名に北野のほか菊賀きくが吉松よしまつ次郎丸じろうまる長楽寺ちようらくじ二日町ふつかまちなどがあるが、北野・次郎丸・長楽寺の三つに統合され北野三ヶ村と称し、元禄一二年(一六九九)から北野村となる(北野郷土史)。元和五年(一六一九)の家高新帳では蓑谷与に属し、役屋数は「二郎嶋」一三・長楽寺七・北野一三。正保郷帳でも北野村・二郎丸村・長楽寺村が併記され、高三千一〇五石余、田方一九九町四反余・畑方七町五反余。


北野村
きたのむら

[現在地名]土居町北野

現土居町の西部に位置する農村。せき川が村の南西から北東に流れる。東は天満てんま・土居両村、南は上野うえの村、西から北にかけては山嶺を境に阿島あしま(現新居浜市)や天満村に接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の宇摩郡の項に「北野村 日損所、松林有」と村名がみえる。

「和名抄」にみえる宇摩郡近井ちかい郷に属したとされ、戦国時代以降は諸領主の支配を経て、村内は上北野(西条藩領)、中北野・下北野(幕府領)に分治された。すなわち寛文六年(一六六六)に津根八日市一柳氏領(六五一石五斗余)と幕府領(七七石八斗余)に分け、寛文一〇年に幕府領を西条藩領とし、宝永元年(一七〇四)津根八日市一柳氏領を幕府領(松山藩預所時代が長い)として幕末に至った。


北野村
きたのむら

[現在地名]黒部市北野

北はヶ開、東は沓懸くつかけ村。寛永一六年(一六三九)富山藩領、万治三年(一六六〇)から加賀藩領。正保郷帳では高二八石余、田方一町八反余。明暦二年(一六五六)草高二〇石となり、寛文九年(一六六九)の検地引高九石、同一〇年の村御印では草高一一石、免三ツ五歩、小物成は野役六匁・山役五匁(三箇国高物成帳)。黒部川の大洪水のため、延享二年(一七四五)から二度の引高一〇石があり、延享元年から五度の手上高により天保一一年(一八四〇)の草高四石余(「高免帳」杉木家文書)


北野村
きたのむら

[現在地名]岐阜市山県北野やまがたきたの出屋敷でやしき北野西山きたのにしやま北野阿原きたのあわら北野東きたのひがし北野西きたのにし北野南きたのみなみ北野北きたのきた

いわ村の北東に位置し、東は三輪みわ村。「新撰美濃志」によれば、北野城には鷲巣美作守が居城していたとあるが、鷲巣氏は汾陽寺文書の明応八年(一四九九)と推定される七月一〇日付の書状を出した鷲見直重の一族であると考えられる。同書状の後世と思われる付箋に、鷲見氏は北野城主と記される。享禄三年(一五三〇)一二月一四日の汾陽寺条書案(同文書)によれば、直重は岩村郷を含む河西かわにし郷の代官であった。のち斎藤道三が在城したという。慶長郷帳に村名がみえ、高一六一石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では幕府領一千三〇六石余、旗本奥山重成領・同三淵光行領合せて一六一石余。


北野村
きたのむら

[現在地名]大島町北野

若杉わかすぎ村の北西、庄川右岸に位置する。小島こじま村に接して飛地西園さいえん大門だいもん(現大門町)に接して飛地三ッ屋みつやがある。正保郷帳には北野新村、明暦二年(一六五六)の村御印留には北野村とみえ、元禄一五年(一七〇二)の越中国郷帳(加越能文庫)には川口かわぐち(現新湊市)の枝郷北野新村とある。天保郷帳の川口村に「古者川口村北野新村宮袋村三ケ村」の注がある。


北野村
きたのむら

[現在地名]四日市市北野町

赤水あこうず村の西方、竹谷たけたに川と三滝みたき川に挟まれた平地に位置する。江戸時代は初め幕府領、享保九年(一七二四)以降大和郡山藩領、のち長島藩領、おし(現行田市)藩領と変遷。勢州御領郷鑑(東京都林英夫氏蔵)によれば、享保九年の戸数は四二、うち本百姓三五・水呑七。人数は男八八・女九七・僧侶三の計一八八。牛八、馬二。寺院は浄土真宗誓海せいかい(真宗大谷派)


北野村
きたのむら

[現在地名]浅井町北野

池奥いけおく村の東、川上流左岸に位置。北の谷口たにぐち村境に北野池がある。寛永石高帳によれば高四四九石余。領主の変遷は村に同じ。正保三年(一六四六)小堀遠州の命により田根たね庄中での溜池の造成が図られ、当村「はせか谷ノ池」を北へ拡大、谷口村の田地のうち三反六歩が池床となったため、当村より替地を検地して引渡している(谷口共有文書)。文政一一年(一八二八)中山道柏原かしわばら宿(現坂田郡山東町)の加助郷となったが、嘉永二年(一八四九)村困窮のため以後一五ヵ年間は休役となった(東浅井郡志)。明治一五年(一八八二)竜岸寺りようがんじ村を合併。


北野村
きたのむら

[現在地名]三鷹市北野一―四丁目・新川しんかわ一丁目・中原なかはら一丁目、調布市若葉町わかばちよう一―二丁目・仙川町せんがわちよう一丁目・東つつじヶ丘ひがしつつじがおか一丁目・西つつじヶ丘にしつつじがおか一―二丁目

野川のがわ村・上仙川村の東に位置し、南は下仙川村(現調布市)、北は牟礼むれ村。甲州道中分間延絵図には下仙川村の北東方に北野村本郷とある。なお下仙川村の南方にも村域があり、南側分の東は給田きゆうでん村・上祖師ヶ谷かみそしがや(現世田谷区)、南と西は入間いりま(現調布市)に接する。もとは下仙川村のうちであった。寛文(一六六一―七三)末頃に同村民が開発、初めは原仙川村と称したが、元禄年間(一六八八―一七〇四)の検地によって下仙川村から分村し、北野村と称したという(風土記稿)


北野村
きたのむら

[現在地名]北区北野〈上白梅かみはくばい町・紅梅こうばい町・下白梅しもはくばい町・西白梅にしはくばい町・東紅梅ひがしこうばい町〉

東は紙屋かみや(天神川)を挟んで洛中、西は松原まつばら等持院門前とうじいんもんぜんの両村、北は平野ひらの村、南は大将軍だいしようぐん村と接する。村域の東北部は古代中世を通じて北野きたの天満宮の境内地に含まれていた。

近世の郷帳類に村名はみえないが、幕末の状態を記す「旧高旧領取調帳」に村高一一七石五斗八升余、実相院領一一〇石五斗八升余、南禅なんぜん寺塔頭の岩栖院がんせいいん領七石とある。「京都府地誌」は地勢を「一境平坦、東ニ紙屋川ヲ廻ラス、運輸便利、薪炭等西北数村ヲ仰ク」と述べ、紙屋川を利用しての薪炭などの運輸などが行われていたと記す。


北野村
きたのむら

[現在地名]岡崎市北野町

矢作川が湾曲する右岸の沖積地が北につき、東に延びる台地が矢作川に接する崖端上に立地。北は上野うえの(現豊田市)、西はさと(現安城市)、南は低地の森越もりこし村・橋目はしめ村に接する。天正年間(一五七三―九二)に水害のため低地の集落は台地上の集落に移り併されたという。

古来より矢作川の渡河地点となり、かみの渡・三鹿みつしかの渡ともいわれ、東西交通の要地である。


北野村
きたのむら

[現在地名]中央区北野町一―四丁目・山本通やまもとどおり一―三丁目・中山手通なかやまてどおり一―二丁目・北長狭通きたながさどおり一丁目・加納町かのうちよう一―四丁目

神戸村の北、生田いくた川の西岸、山地寄り高台の緩斜面に立地する。慶長国絵図に北野村とみえ、新開のしろくち村を含め高一八八石余。もと幕府領、元和三年(一六一七)には高二三石余は大和小泉藩領(「片桐貞隆宛知行目録」貞隆公領知加増年記)、残部一八八石余は尼崎藩領(「大垣藩地方雑記」岐阜県立図書館蔵)


北野村
きたのむら

[現在地名]篠山市北野

大山下おおやましも村の北部に位置し、大山川が流れる。大山城跡があり、本丸ほんまるしろほり横堀よこほり北門きたもん水船みずふね常楽寺じようらくじなどの地名が残されている。承応三年(一六五四)頃に大山下村から分立したという。「丹波志」に大山庄大山下のうち「北野」とみえ、高一九〇石余。天明三年(一七八三)の篠山領内高並家数人数里数記では大山組のうち北野村とあり、家数六一・人数一八八。「多紀郡明細記」では北野新村と合せ高二六九石余、山役米一石九斗のほか、薪五〇荷余・瓦焼木二五束を納めていた。


北野村
きたのむら

[現在地名]糸貫町北野

春近はるちか村の北に位置し、緩傾扇状地平野に立地。江戸時代初期には春近村の枝村であった。寛文八年(一六六八)北野村が旗本文殊戸田領となり、春近村から独立した。元禄郷帳に村名がみえ、高三九八石余。席田むしろだ用水乙井おとい組に属する。享保年間(一七一六―三六)の用水関係文書(「井水記」鵜飼文書)には上春近村・北春近村・文殊御領春近村とみえる。明治元年(一八六八)の村明細帳によれば村高三九八石、うち桑山智勝くわやまちしよう院領二石余を含め引高二六石余で残高三七一石余。


北野村
きたのむら

[現在地名]滝野町北野

蜷子野になごの新田の西、加古川中流東岸に位置する。慶長国絵図に村名がみえる。正保二年(一六四五)から元禄一四年(一七〇一)まで赤穂藩領、幕府領を経て宝永五年(一七〇八)大坂城代土岐頼殷領、正徳二年(一七一二)駿河田中藩領、享保六年(一七二一)幕府領姫路藩預地、同一四年幕府直轄領、宝暦六年(一七五六)遠江浜松藩領、同九年幕府領、宝暦一〇年松平周防守領(天明四年「村明細帳」善龍院文書)。同一二年から幕末まで新町と同じく下総古河藩領。正保郷帳では田方三一一石余・畠方三七石余。延享二年(一七四五)には四石余の切添新田を高入れ(「新田検地帳」北野区有文書)。嘉永六年(一八五三)の租率は定免で六四パーセント(「覚」同文書)


北野村
きたのむら

[現在地名]八王子市北野町・子安町こやすまち二丁目

あさ川南岸から湯殿ゆどの川北岸までの低地に立地する。南は打越うちこし村。北部を山田やまだ川が東流し、浅川に注ぐ。村の南の入口一帯は小名七日市場なのかいちばで、八王子の市日が定まる以前は毎月七の日にここで市立てをしたと伝える。天正一九年(一五九一)一一月「多麻郡北野村」内の五石が「天神社領」とされ、寛文五年(一六六五)にも安堵されている(御朱印帳)。田園簿に村名がみえ、田二四九石余・畑九三石余で幕府領。ほかに天神(北野天神社)領五石。元禄郷帳では高三八一石余。享保六年(一七二一)の山之根村高改帳では旗本諸星領九一石余、同松平領一二一石余、同北村領一五八石余。


北野村
きたのむら

[現在地名]氷上町北野

西縁を竹田たけだ川の支流黒井くろい川が北流し、南は石負いそう村。丹後への道が通る。永禄八年(一五六五)九月一三日の宝積房澄円経田寄進状(柏原八幡神社文書)によると、澄円が春日部かすかべ庄北野に所在する田地一段を先師澄祐の菩提を弔うために柏原かいばら八幡宮(現柏原町)の四季経田に寄進している。慶長三年(一五九八)織田信包(柏原藩)領となる。正保郷帳に村名がみえ田高四八石余・畠高八石余、林あり、日損少しあり。柏原藩領。慶安三年(一六五〇)幕府領、元禄八年(一六九五)柏原藩領となり(柏原藩領知目録)、幕末に至る。


北野村
きたのむら

[現在地名]和島村北野

荒巻あらまき村の北、東は三瀬さんぜ村、西は島崎しまざき村、北は上桐かみぎり村の耕地。正保国絵図に高二四〇石余で幕府領。慶安二年(一六四九)に村上藩領となる。貞享元年(一六八四)の郷村高辻帳では高三九一石二斗余。宝永六年(一七〇九)一時幕府領となるが、同七年白河藩松平氏領。「白川風土記」では戸数五二。用水は根小屋ねごや村から流れる川を地蔵ノ堰で引水。ほかに三瀬ヶ谷村からの余水と字前田・六国谷の溜井を利用する。


北野村
きたのむら

[現在地名]福井市上北野かみきたの町・城東じようとう二―四丁目

福井城下の東方、あら(荒川)の南岸にあって、上北野村と下北野村に分れる。現在は川の流路が変わり、村域は二分されている。北は四井よつい村、南は和田東わだひがし西方にしかた渕上ふちのうえの諸村に挟まれるが、新川の氾濫原を開拓して比較的新しく成立した村と思われる。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図や正保郷帳では吉田郡に属して「北野村上下共」と記す。正保郷帳によると、田方八三〇石余・畠方四二六石余。


北野村
きたのむら

[現在地名]滑川市北野

早月はやつき川が形成した新扇状地の扇央部に位置し、西は北野新村、北は四ッ屋よつや村・追分おいわけ村。鎮守の天満宮は室町期に当地の権右衛門が京都北野社から菅原道真の木像を持帰って祀ったのがはじまりで、それ以来村名を北野と称したと伝える(天満宮由緒書)。正保郷帳では高二七六石余、田方一五町九反余・畑方二町五反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると草高四四六石、免五ツ五歩、小物成は野役四一匁(三箇国高物成帳)。所属組は平塚ひらつか村と同じ。享保一八年(一七三三)の新川郡村廻帳(川合家文書)では村肝煎は里右衛門、家数五九(百姓五〇・頭振九)、浄土真宗東方仏念ぶつねん寺は寛永一四年(一六三七)に存旨が建立したという(貞享二年寺社由緒書上)


北野村
きたのむら

[現在地名]砥用町遠野とおの 北野

興正寺こうしようじ村から北に登った一帯で、万坂まんざか(六六三・七メートル)の南山麓に位置する小村。中心集落は興正寺村からわずかの距離にある。慶長国絵図にはみえないが、慶長一二年(一六〇七)検地帳作成の記録が残る(「肥後豊後検地諸帳目録」県立図書館蔵)。砥用手永に属し、「国誌」には「油舟村小油舟村コテキ村等ノ小村アリ」とある。明治九年(一八七六)興正寺・権正ごんのかみ岩上いわがみの三村と合併し遠野村となった。


北野村
きたのむら

[現在地名]新座市北野一―三丁目・東北とうほく一―二丁目

野火止のびどめ宿の北西、武蔵野台地野火止面北西部にある。南西から北東に野火止用水が縦断して流れ、たて(現志木市)に至り、引又ひきまた(現同上)へ向かう道が通る。野火止新田の一環として川越藩により開発された。開発の際七間半と四八〇間の土地を農民一人ずつに割渡し、八段に分割して四段を林とし、残りを畠屋敷としたという。また開発時の入植者が八人であったことから北野八軒とも称されたという(風土記稿)。寛文元年(一六六一)の検地で上畠四町四反余・中畠七町一反余・下畠一一町九反余・下々畠二町八反余・屋敷四反余となり、野火止新田のうちでは最も規模が小さい。かつ二町二反余が損免、一町余が当発として年貢を免除されており、開発が進展していなかった様子をうかがわせる(「野火止村年貢割付状」旧大和田町役場文書)


北野村
きたのむら

[現在地名]和歌山市北野

名草なくさ郡に属し、弘西ひろにし村の東にある。葛城(和泉)山脈の南に位置し、東西に淡島街道(旧南海道)が通る。葛城山中より発する七瀬ななせ川が南西に流れ、南部の宇田森うだもり村境でろつ用水の一流に合流する。中世は平田ひらた庄に属したと考えられる。慶長検地高目録では五八六石余、小物成一斗一升。山口組に属し、「続風土記」によると家数五一、人数二〇六。


北野村
きたのむら

[現在地名]西山町北野

妙法寺みようほうじ川を隔てて大坪おおつぼ村の北東に対する。東は妙法寺村。集落は妙法寺峠越で大積おおづみ(現長岡市)に通じる道沿いにある。

元和二年(一六一六)以後椎谷藩領。正保国絵図に高二五八石余。寛永二年(一六二五)の椎谷御領所諸村覚(西村家文書)では家数三九(うち寺一)、男一四三・女一五四。


北野村
きたのむら

[現在地名]泉南市北野

樫井かしい川下流左岸の平野部に位置し、北西は岡田おかだ村。慶長一〇年(一六〇五)の和泉国絵図に「北ノ村」とみえ、高二九七石余。元和五年(一六一九)の松平周防守ヨリ引渡岸和田藩郷村帳(田中家文書)では三六一石余。初め岸和田藩領、寛文元年(一六六一)同藩主岡部行隆のとき弟高成に五千石分知、当村はそのなかに含まれ旗本岡部高成領となる。享保五年(一七二〇)幕府領となり、安永六年(一七七七)常陸笠間藩主で大坂城代牧野貞長領となる。


北野村
きたのむら

[現在地名]美里町北野

貴志きし川の支流真国まくに川の北岸にあり、東は円明寺えんみようじ四郷よごうの両村、西は花野原はなのはら村である。山脚が川岸に迫り、集落は北の薄月うすづき山中腹の斜面にある。高野街道が村内を通る。「続風土記」によると真国川を隔てて相対する初生谷ういだに村からみて北側の村なので北野村という。


北野村
きたのむら

[現在地名]富山市北野・山本やまもと、射水郡小杉こすぎ町北野

山本村の北東、山本新村の東方の丘陵地帯に位置し、北は土代新どだいしん村・椎木しいのき村、南は西押川にしおしかわ村。村名は山本村の北部の荒野を開き村立てしたことに由来するという。婦負郡に属し、明暦四年(一六五八)から延宝年中(一六七三―八一)までに村立てされ、元禄一一年(一六九八)の高五石余(「古田新田高村付改帳」前田家文書)


北野村
きたのむら

[現在地名]加古川市野口町北野のぐちちようきたの

寺家じけ村の北東に位置し、南は新在家しんざいけ村。慶長国絵図に村名がみえる。正保郷帳によれば田方四一九石余・畑方二一石余。天保郷帳では高六五一石余。村内にある花園はなぞの池は北野・白新しらしん大辻おおつじ水足みずあし四ヵ村立会の池で、文化一四年(一八一七)当村が水足村の取水を妨げたとして訴えられた。


北野村
きたのむら

[現在地名]瑞浪市日吉町ひよしちよう 北野

深沢ふかさわ村の東にあり、北は木曾川の深い峡谷。南を中山道が東西に通る。日吉一二ヵ村の一。臼井本元禄郷帳に村名がみえ高五六石余、尾張藩領。中山道細久手ほそくて宿助郷を勤める。「濃州徇行記」によれば高七〇石、田三町余・畑一町三反余、家数一九・人数九七、馬三。南西にある宝暦五年(一七五五)検地の新田は高七石余・反別九反余で、家三戸ほど。農業のほかに山稼を行い、鍛冶炭を多く焼く。川並御用人足を出す代りに日吉山での木炭窯御免の権利を得ていた。


北野村
きたのむら

[現在地名]倉吉市北野

生田いくた村の西、天神野てんじんの台地の東麓に位置し、集落は地内天満宮(現北野神社)の門前に発展、地名も同宮にちなむとされる。北東の中西なかにし村はかつて当村の枝郷であったが、のちに分村した。拝領高は三五一石、本免は四ツ三分。倉吉組士の渡辺氏・向井氏・村岡氏・小谷氏の給地があった(給人所付帳)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」では高四六〇石、竈数二〇余、村内に天神・八幡宮・祇園牛頭天王を祀る。


北野村
きたのむら

[現在地名]亀山市北野町

亀山城の西方、若山わかやまの西に位置する士族屋敷地。北野村の称は東海道に沿う村の町家およびその南に置かれた南野みなみの村に対するものと思われる。近世初期、城下中心部とは小丘陵と竜川たつがわ渓谷で隔てられていたが、承応三年(一六五四)、若山に通じる三年さんねん坂が開かれ、通路の便に恵まれるようになった(亀山地方郷土史)


北野村
きたのむら

[現在地名]金津町北野

加越山麓で、北方の熊坂くまさか川と南方の清滝きよたき川に挟まれた地にあり、東はきた村、南は中川なかがわ村。慶長六年(一六〇一)結城秀康が多賀谷三経に与えた知行宛行状(多賀谷文書)に丸岡領として当村(高二〇五・九八一石)も記される。正保郷帳によれば田方一三五石余・畠方七〇石。貞享三年(一六八六)幕府領となり、のち福井藩預領、文政三年(一八二〇)以後福井藩領となった。


北野村
きたのむら

[現在地名]鯖江市北野町・北野一―二丁目・水落みずおち町三―四丁目・神明しんめい町一丁目・三六さんろく町一丁目

日野川の東側にあり、東および南は水落村。村名は永禄一〇年(一五六七)三月二八日付の小林吉長書下状(瓜生家蔵)に「神明為知行分北野村太右衛門作分云々」とみえる。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では山本やまもと郷に含まれる。正保郷帳に村名がみえ、田方四九四石余・畠方二四八石余。


北野村
きたのむら

[現在地名]岩室村北野

北流する西にし川と川に挟まれた低地にあり、北東はなか村、北は横曾根よこぞね村。承応―明暦(一六五二―五八)頃開発され、元禄郷帳には舟越ふなこし村枝郷として北野新村とみえ、高七〇石五斗余。旗本牧野氏領に属し、文久三年(一八六三)の高直し以降三根山藩領。


北野村
きたのむら

[現在地名]江南市北野町〈あさひ川石かわいし郷浦ごううら小松こまつ天神てんじん

古知野こちの村の東にあり、村の南西を宮田みやだ街道が通り、街道沿いに人家が建並んでいた(天保村絵図)。天正末頃には織田信雄の家臣桜井伝一郎の知行地があった(織田信雄分限帳)


北野村
きたのむら

[現在地名]福井市北野上きたのかみ町・北野下きたのしも

九頭竜くずりゆう川南岸に沿う農村で、南は中郷なかのごう村・泉田いずみだ村。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では「中之郷」の地に含まれており、川の乱流地域に開発された新田村と考えられる。村名は正保郷帳にみえ、田方四六五石余・畠方二六〇石余が記されるが、元禄郷帳以降、北野上村・北野下村に分れる。


北野村
きたのむら

[現在地名]猪名川町北野

紫合ゆうだ村の北西、大谷おおたに山の南に位置し、北は北田原きたたはら村、西部を丹波への道が通じる。中世は多田ただ庄のうちで、多田院(現川西市)の応安元年(一三六八)四月八日の金堂供養棟別銭注文(多田神社文書)に「北野」とあり、多田院に棟別銭を納めている。


北野村
きたのむら

[現在地名]清里村北野

西を櫛池くしいけ川が北流し、北は水草みずくさ村、南は梨平なしだいら村に接する。正保国絵図に高四六石余とある。天和三年郷帳によれば高二八石一斗余。蓮浄寺本郷帳には山高四斗二升三合が記される。明和七年(一七七〇)と思われる山里蝋実穂納訳帳(国立史料館蔵)によれば、当村から山蝋実一升一合五勺を納める。


北野村
きたのむら

[現在地名]福崎町西田原にしたわら

田尻たじり村の北に位置し、西光寺さいこうじ野の北端に立地する。神東じんとう郡に属する。慶長国絵図に村名がみえる。正保郷帳では田方二五二石余・畑方一四九石余、「旱損所・芝山有」と注記される。


北野村
きたのむら

[現在地名]西春町北野

東を西之保にしのほ村、南を石橋いしばし村、西を宇福寺うぶくじ村、北を法成寺ほうじようじ村と接する。村付近一帯には条里制の遺構が確認されている。南北朝時代、すでに北野の地名がみえる。寛文一一年(一六七一)には家数二九、男六五人・女五〇人(寛文覚書)


北野村
きたのむら

[現在地名]小杉町北野、富山市北野・山本やまもと

椎木しいのき村の南に続く丘陵地帯に立地。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android