川島甚兵衛(読み)カワシマジンベエ

デジタル大辞泉 「川島甚兵衛」の意味・読み・例文・類語

かわしま‐じんべえ〔かはしまジンベヱ〕【川島甚兵衛】

[1853~1910]織芸家。京都の生まれ。西陣織生産に功績をあげ、渡欧して日本と外国の技術を総合し、旧来唐織からおつづれ織りなどを壮麗な芸術品に発展させた。

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精選版 日本国語大辞典 「川島甚兵衛」の意味・読み・例文・類語

かわしま‐じんべえ【川島甚兵衛】

  1. ( 二代 ) 織芸家。京都の人。号は恩輝軒主人。織物業に従い、丹後ちりめんなどの織法を改良。またゴブラン織を研究して綴錦(つづれにしき)を室内装飾用に製作し、芸術品にまで高めた。嘉永六~明治四三年(一八五三‐一九一〇

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「川島甚兵衛」の意味・わかりやすい解説

川島甚兵衛(二代目)
かわしまじんべえ
(1853―1910)

京都の機業家。現在の株式会社川島織物セルコンの創始者。京都に生まれ、呉服悉皆(しっかい)商であった父・初代甚兵衛薫陶を受け、若くして国内各地の養蚕製糸・精練・染色などを研究した。1879年(明治12)父の没後2世甚兵衛を称し、父の遺志を継いで朝鮮産の生糸の精練・染色・加工などに工夫を加えてその実をあげた。ついで丹後縮緬(たんごちりめん)の改良に着手し、各種の新技法を開発して、川島式縮緬機として国の内外に喧伝(けんでん)されるに至った。彼は、その発明した織法が広く業界で模倣されることをいささかも意に介せず、自らは西陣(にしじん)本来の美術織物の大成に志し、朱珍(しゅちん)、風通織(ふうつうおり)、唐織(からおり)などに創意工夫を加えて、次々に優れた西陣織物をつくりだしていったが、とくに日本古来の綴織(つづれおり)の技術をもって、西欧タペストリーに匹敵する大作の製作を目ざして、1886年3月フランスに渡り、ゴブラン織を中心に研究し、翌年に帰朝した。その後は1890年の第3回関西勧業博覧会に出品された『犬追物図』(宮内省買上げ)に続いて、次々に綴織の大作をつくっていった。その数は、58歳で没するまでに、今日傑作として知られているものだけで二十数点に及ぶであろうといわれる。

 彼がその生涯をかけて製作した傑作は、主として壁掛け、壁張りといった室内装飾品であったこと、いずれも縦・横2メートル以上に及ぶ大作であったこと、とくに宮内省の買上げ品が多かったことなどを特徴とし、その大部分が第二次世界大戦の空襲を受け、建物と運命をともにしてしまったことは、まことに惜しい。しかし彼によって完成された大型な綴織の技術が、今日世界に類のない日本の劇場の緞帳(どんちょう)や、皇居の新宮殿のような大建築の内装などにその伝統を伝えていることは、大きな功績というべきであろう。なお、その傑作のおもなものは、1895年(明治28)の『悲母観音図』(第4回内国勧業博覧会出品、宮内省買上げ、東京国立博物館蔵)、1910年(明治43)の『雲鶴図』(浅野総一郎邸天井張り)である。

[山辺知行]


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朝日日本歴史人物事典 「川島甚兵衛」の解説

川島甚兵衛(2代)

没年:明治43.5.5(1910)
生年:嘉永6.5.22(1853.6.28)
明治期の織物工芸家。京都の呉服悉皆屋上田屋(川島)甚兵衛(初代)の長男。幼少時より織物図案,製法に天稟をみせ,美術織物の製作に邁進する。明治12(1879)年父の死後,家業を継ぐ。18年五品共進会への出品が契機となって,農商務大輔品川弥二郎の知遇を得,翌年ともに渡欧。パリの国立ゴブラン製造所でゴブラン織(タペストリー)を見学,ベルリンでは甚兵衛が持参した織物見本1万点が大好評を博した。19年末皇居造営御用織物の製作のため約1年半の洋行を終え帰国。帰国後は綴錦の製作に邁進,「富士巻狩図」「武具曝涼図」「若冲動植物採画図」「雲鶴之図」などを代表作とする大作を次々と発表し,内外の博覧会で数々の賞を受賞。綴錦の大成は,甚兵衛の夢であり,生涯をかけた最大の事業であった。また,西陣織物の改良,新製品の開発,海外への販路拡張の努力などにも数々の先覚者的貢献があった。しかし,甚兵衛の美術織物への傾注は,家業の川島織物の経営を傾けてしまうこともあり,甚兵衛には芸術的な才能と経営手腕の不均衡がみられた。<参考文献>川島織物『錬技抄―川島織物145年史』,橋本五雄『恩輝軒主人小伝』

(松本貴典)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

20世紀日本人名事典 「川島甚兵衛」の解説

川島 甚兵衛(4代目)
カワシマ ジンベエ

昭和期の実業家,織物業者 川島甚兵衛商店社長・会長。



生年
明治44(1911)年2月6日

没年
昭和50(1975)年11月24日

出身地
京都府京都市

本名
川島 文吉

学歴〔年〕
同志社大学法学部〔昭和10年〕卒

主な受賞名〔年〕
紫綬褒章〔昭和46年〕

経歴
3代目甚兵衛の長男。昭和10年川島織物所(現・川島織物)所主となった。江戸末期から続く丹後縮緬、唐錦、綴錦など織物業の老舗で、13年株式会社に改組、川島甚兵衛商店社長となった。44年会長。第二次大戦中の織物技術の保存に尽力するとともに、戦後の混乱期を経て、同社の発展に貢献した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「川島甚兵衛」の解説

川島甚兵衛(2代) かわしま-じんべえ

1853-1910 明治時代の染織家。
嘉永(かえい)6年5月22日生まれ。明治12年家業の呉服商をつぎ,17年川島織物工場を設立。丹後縮緬(ちりめん)などの織法を改良。19年渡仏し,ゴブラン織りを研究。帰国後,綴錦(つづれにしき)の大作を発表した。帝室技芸員。明治43年5月5日死去。58歳。京都出身。幼名は弁次郎。号は恩輝軒主人。作品に「犬追物図」「百花百鳥」など。

川島甚兵衛(4代) かわしま-じんべえ

1911-1975 昭和時代の経営者。
明治44年2月6日生まれ。3代川島甚兵衛の長男。家業をつぎ,昭和9年川島織物所(現川島織物)所主となる。13年川島甚兵衛商店への改組にともない,社長に就任した。44年会長。昭和50年11月24日死去。64歳。京都出身。同志社大卒。本名は文吉。

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百科事典マイペディア 「川島甚兵衛」の意味・わかりやすい解説

川島甚兵衛【かわしまじんべえ】

京都西陣の織物業者。幼名弁次郎。1879年家業を継ぎ2世甚兵衛。1886年渡欧してゴブラン織を研究。帰国後伝統技術に洋風の新技術を加え,唐錦(からにしき),綴錦(つづれにしき)を改良,壁掛や衝立(ついたて)などの大作も発表した。

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367日誕生日大事典 「川島甚兵衛」の解説

川島 甚兵衛(2代目) (かわしま じんべえ)

生年月日:1853年5月22日
明治時代の織物業者。帝室技芸員
1910年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の川島甚兵衛の言及

【綴織】より

…明治に入り紋屋次郎兵衛が製作した祇園占出山の〈日本三景図〉には,なお明・清様の技法が認められる。しかし1886年京都の2代川島甚兵衛(1853‐1910)の渡欧は,日本にゴブラン織の新しい息吹を伝えるものとなった。その後,川島の綴の万国博覧会への出品,皇室の買上げなどによって,しだいに日本にも工芸織物としての綴が定着してきた。…

※「川島甚兵衛」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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