堺北庄(読み)さかいきたのしよう

日本歴史地名大系 「堺北庄」の解説

堺北庄
さかいきたのしよう

摂津国住吉郡榎津えなつ郷の南端を占め、鎌倉時代から戦国時代にかけて存在した庄園。平安時代後期には摂津・和泉両国の国境辺りの大阪湾に面した海浜に港湾が発展し「堺津」とよばれ、ほぼ国境に沿って東西に通じていた小路の両側に市場が形成され、小路の北側の砂洲上に広がっていた地域が堺北庄とよばれ皇室領であった。建春門院滋子の立願により後白河天皇が建立した最勝光さいしようこう(跡地は現京都市東山区)の所領で、のち後鳥羽天皇に譲られたが、承久の乱で一時鎌倉幕府に没収されたのち、後高倉院に寄進されたらしい。天福二年(一二三四)二月五日の念仏寺一切経蔵等建立注文(開口神社文書)に、住吉社(現住吉区)による堂舎建立の先例として、建保二年(一二一四)摂津国内北庄に堂舎建立を企て翌三年四月に上棟をみたことを記す。摂津国内北庄とは堺北庄のことである。正中二年(一三二五)三月日付の最勝光院領荘園目録(東寺百合文書)には、もともと本所年貢公事として油二石、綾被物二重(一重は七月の御八講用、一重は一二月の御月忌用)、九月兵士役七名であったが、建長年中(一二四九―五六)以後は代銭一貫文のみの納入となったとあり、領家は今林准后(大宮院貞子)とみえる。のち大覚寺統に伝領された。延元元年(一三三六)四月二二日、後醍醐天皇は住吉神社神主に同庄知行安堵の綸旨を下し(堺市史)、年は不明だが一二月一八日付で南朝は同庄の地頭職・領家職を住吉社家が知行するよう院宣(住吉大社文書)を与えた。

摂津国南部・和泉国北部地域に対する南朝勢の影響は正平末年頃までは強かったが、正平二四年(一三六九)南朝軍の総帥楠木正儀が足利方に帰伏したのちは北朝勢の支配が強化した。北朝の後光厳上皇は応安六年(一三七三)五月に和泉国堺浦の泊船目銭収入三年分を東大寺八幡宮修理料所に寄進しようとしたが(同月九日「後光厳上皇院宣」東大寺文書)円滑に実行されず、永和二年(一三七六)六月には摂津国堺浦の泊船目銭が寄進され、東大寺は大勧進を現地に派遣して泊船目銭の徴収に当たらせた(同月一一日「沙弥宗徹遵行状」同文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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