朝日日本歴史人物事典 「塩冶高貞」の解説
塩冶高貞
生年:生年不詳
鎌倉末・南北朝時代の武将。父は佐々木貞清。塩冶判官,隠岐大夫判官とも称す。検非違使,左衛門尉,隠岐守,近江守。嘉暦1(1326)年以来出雲国守護の地位にあったが,正慶2/元弘3(1333)年後醍醐天皇が隠岐を逃れ伯耆船上山に挙兵すると,いち早く馳せ参じて天皇方を支え,戦局を有利に導く。その功により,天皇の上洛に際しては先導役を務め,建武新政の発足に伴って出雲・隠岐両国国司,および雑訴決断所の寄人に任ぜられた。建武2(1335)年足利尊氏が鎌倉で反旗を翻した際には,その征討副将軍に指名され尊氏方と戦うが,箱根竹ノ下合戦において寝返り,以後尊氏方として活躍。翌年室町幕府が成立すると,改めて出雲・隠岐両国守護に任ぜられ,国内の南朝方勢力の制圧に努めるとともに,出雲・伯耆などの軍勢を率いて海路北陸を攻めるなどの軍事行動を展開した。ところが,暦応4/興国2(1341)年3月突如として京都を出奔し,謀反の陰謀ありとして幕府の追討を受け,翌月出雲国佐々布(島根県八束郡宍道町)で自害した。『太平記』によると,高貞の妻西台に横恋慕した高師直が讒言したためという。その西台も,播磨国陰山(姫路市豊富町)で自害。この話は『仮名手本忠臣蔵』に脚色され,塩冶判官は浅野内匠頭の役名となり,広く全国で知られるようになった。<参考文献>藤岡大拙『塩冶判官高貞』
(井上寛司)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報