日本大百科全書(ニッポニカ) 「大伴長徳」の意味・わかりやすい解説
大伴長徳
おおとものながとこ
(?―651)
7世紀中葉の廷臣。咋(くい)の子。御行(みゆき)・安麻呂(やすまろ)の父。別名は馬養(うまかい)(馬飼)。632年(舒明天皇4)、唐使高表仁(こうひょうじん)を難波(なにわ)の江口(えぐち)に迎え、642年(皇極天皇1)の舒明天皇の喪葬の礼では、大臣(おおおみ)蘇我蝦夷(えみし)にかわって誄(しのびごと)を奏した。時に冠位は小徳。643年の上宮王家(じょうぐうおうけ)襲撃事件や645年の乙巳の変(いっしのへん)にも首謀者の1人として加わっていた可能性がある。645年(大化1)、孝徳天皇践祚(せんそ)の日に金の靫(ゆき)を帯びて壇の右に立った。649年、冠位を小紫(しょうし)から大紫に進め、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)の後を襲って右大臣となった。長徳は大伴氏の代表者として、舒明朝に大夫(まえつきみ)となり、大化の新政府でも巨勢徳太(こせのとこだ)と並ぶ有力な大夫として国政に参与し、そのことが右大臣就任に結び付いたと思われる。
[加藤謙吉]
『加藤謙吉著「大夫制と大夫選任氏族」(『大和政権と古代氏族』所収・1991・吉川弘文館)』