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蘇我蝦夷 そがのえみし

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

蘇我蝦夷
そがのえみし

[生]?
[没]皇極4(645).6.13. 大和
古代の中央豪族馬子の子,入鹿の父。豊浦大臣と呼ばれ,毛人とも書く。推古 34 (626) 年父の死後,大臣になったらしい。推古天皇が皇嗣を定めることなく崩御したため,聖徳太子の子山背大兄王と敏達天皇の孫田村皇子の間で皇位継承問題が起り,蝦夷は叔父境部摩理勢らの反対を強引に押切って,田村皇子を皇位につかせた。これが舒明天皇である。蝦夷は舒明8 (636) 年大派 (おおまた) 王に参朝の怠慢を指摘されたが従わず,皇極天皇即位後も大臣としてとどまり,子入鹿が国政をとった。皇極1 (642) 年祖廟を葛城高宮に建て,天下の民部曲 (かきべ) ,さらに聖徳太子一族の私有民まで使役して今来に2つの墓を造り,これを大陵 (おおみささぎ) ,小陵と称した。翌年,入鹿に紫冠を授けて大臣とし,弟を物部大臣と称した。翌3年甘橿丘 (あまかしのおか) に家を建て,「宮門 (みかど) 」と称した。前年,山背大兄王を殺した入鹿が,4年の三韓朝貢の日に中大兄皇子に殺され,みずからも誅せられるにのぞみ自邸に放火し自殺した。このとき『天皇記』『国記』などを同時に焼失した。彼らの誅伐によって,蘇我氏の宗族は滅亡し,大化改新が断行されることとなった。『扶桑略記』には,斉明天皇のときに,彼の霊威についての風説があったことを記している。

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デジタル大辞泉の解説

そが‐の‐えみし【蘇我蝦夷】

[?~645]飛鳥時代の豪族。馬子の子。父を継いで大臣となり、専横を極めた。子の入鹿(いるか)が暗殺されると、自邸に火をつけて自殺。

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百科事典マイペディアの解説

蘇我蝦夷【そがのえみし】

蘇我馬子(うまこ)の子。名は毛人(えみし)とも記す。馬子の次に大臣(おおおみ)となり,628年推古天皇が死ぬと山背大兄(やましろのおおえの)王擁立派を退けて,舒明(じょめい)天皇を立て,専横をきわめた。
→関連項目舒明天皇蘇我氏蘇我入鹿天智天皇天皇記

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

蘇我蝦夷 そがの-えみし

?-645 飛鳥(あすか)時代の豪族。
蘇我馬子の子。父の跡をついで大臣(おおおみ)となる。推古天皇の死後,聖徳(しょうとく)太子の子山背大兄(やましろのおおえの)王を皇位継承者として推す叔父の境部摩理勢(さかいべの-まりせ)をほろぼし,舒明(じょめい)天皇を即位させた。舒明天皇の没後はその妃を皇極天皇として擁立し,権勢をふるう。子の蘇我入鹿(いるか)が中大兄(なかのおおえの)皇子(天智(てんじ)天皇)らに殺されたため,翌日の皇極天皇4年6月13日自殺した。名は別に豊浦毛人(えみし)。通称は豊浦大臣。

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世界大百科事典 第2版の解説

そがのえみし【蘇我蝦夷】

?‐645(大化1)
飛鳥時代の大臣(おおおみ)。蘇我馬子の子,鞍作(入鹿)の父。名は毛人とも記し,豊浦大臣とよばれた。大臣となる以前の610年(推古18)当時は,朝廷の大夫(まえつぎみ)の一人であった。父馬子のあとをうけて大臣となり,推古天皇が死ぬと,山背皇子擁立派を排し,それを強硬に主張した叔父の境部摩理勢(さかいべのまりせ)も攻め滅ぼし,田村皇子(舒明天皇)を即位させた。しかし,舒明天皇の治世の末期から始まった天皇との対立は,皇后(皇極天皇)が即位した後は決定的となった。

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大辞林 第三版の解説

そがのえみし【蘇我蝦夷】

?~645) 推古・舒明・皇極三朝の大臣。蘇我馬子の子。専制的な権力をふるって天皇家に対抗、子の入鹿に紫冠を授けて大臣にした。入鹿が暗殺されると、邸に火を放って自殺した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

蘇我蝦夷
そがのえみし
(?―645)

飛鳥(あすか)時代の大臣。蘇我臣馬子(おみうまこ)の子、鞍作(くらつくり)(入鹿(いるか))の父。毛人とも記し、豊浦(とゆら)大臣と称された。『日本書紀』には、610年(推古天皇18)に朝廷の大夫(まえつぎみ)の1人として初見する。父馬子の後を受けて大臣となり、推古(すいこ)天皇が死ぬと、山背(やましろ)皇子擁立派を排して田村(たむら)皇子(舒明(じょめい)天皇)を即位させ、これに強く反対した叔父境部摩理勢(さかいべのまりせ)を攻め滅ぼした。しかし、舒明天皇治政の末期から、次の皇極(こうぎょく)天皇(舒明皇后)の即位に至って、大臣毛人(蝦夷)はしだいに天皇との対立を深めた。そして、皇極天皇が王宮と百済(くだら)大寺再建の事業をおこすと、毛人はこれに対抗するかのように祖廟(そびょう)を葛城(かずらき)高宮に建て、民衆を大動員して今来(いまき)に双墓をつくらせ大陵・小陵とよばせた。晩年には、政治はほとんど子の鞍作(入鹿)にゆだね、643年(皇極天皇2)10月には大臣の紫冠も与えた。しかし、その直後に上宮王家討滅事件が起こると大いに怒り嘆いたという。また、この年の4月には、百済の政変から亡命してきた翹岐(ぎょうぎ)や百済高官など40余人を受け入れ、大いにこれを厚遇した。このあと、645年に入って反蘇我本宗家の動きが急速に強まると、甘檮岡(あまかしのおか)に建てた邸宅を堅固に守らせて備えた。しかし、6月鞍作(入鹿)が宮中で暗殺されると、戦備を整えたが、私兵は四散したので邸に火を放って自殺した。[門脇二]
『門脇二著『蘇我蝦夷・入鹿』新装版(1985・吉川弘文館)』

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世界大百科事典内の蘇我蝦夷の言及

【乙巳の変】より

…干支が乙巳にあたる645年(大化1),中大兄皇子(後の天智天皇),中臣鎌子(後の藤原鎌足)らが蘇我大臣家を滅ぼして新政権を樹立した政変。皇極女帝のもとで,皇位継承や政治方針に関し大臣の蘇我蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)父子と対立していた女帝の長子中大兄らは,唐の興隆により国際関係が緊張して高句麗や百済には政変が起き,643年冬には皇位継承の有力候補だった山背(やましろ)大兄皇子(王)一家が入鹿に滅ぼされると,蘇我一族の倉山田石川麻呂(くらのやまだのいしかわのまろ)らを同志として大臣家打倒を決意し,645年6月12日,皇居の正殿で石川麻呂が〈三韓の表文(ひようぶん)〉と称する外交文書を読みあげている最中に,中大兄が率先して入鹿を斬り,雇っていた暗殺者たちがこれを殺し,翌日には蝦夷も護衛兵らに逃亡されて自殺した。その結果,皇極女帝は弟の孝徳天皇に譲位し,中大兄を皇太子,鎌子を内臣,石川麻呂を右大臣などとする新政権が発足し,年号を大化と定め,政治改革に着手した。…

【大化改新】より

…しかし直接の契機は皇位継承をめぐる朝廷内部の権力闘争であった。すなわち推古天皇の死後,大臣蘇我蝦夷(そがのえみし)は反対派を制圧して舒明天皇を立てたものの,舒明死後には問題が再燃し,しばらく舒明皇后の皇極天皇が立てられている間に,蝦夷の子入鹿(いるか)は643年(皇極2),聖徳太子の子で皇位継承の有力な候補だった山背大兄(やましろのおおえ)王を急襲して自殺させ,朝廷内部の緊張はいちだんと高まった。
[経過]
 舒明と皇極の間に生まれた中大兄(なかのおおえ)皇子(後の天智天皇)は,同志の中臣鎌子(なかとみのかまこ)(後の藤原鎌足)らとはかり,645年6月,宮中で入鹿を暗殺し,自邸に蝦夷を包囲して自殺させると,翌日には皇極の弟の孝徳天皇を立て,じぶんは皇太子として実権を掌握し,阿倍倉梯内麻呂(あべのくらはしのうちのまろ)を左大臣,蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわのまろ)を右大臣,中臣鎌子を内臣(ないしん),唐に留学した旻(みん)(新漢人(いまきのあやひと)旻)や高向玄理(たかむくのくろまろ)を国博士(くにはかせ)として新政権を樹立,年号を制定して大化とした(乙巳(いつし)の変)。…

※「蘇我蝦夷」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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