蘇我
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飛鳥(あすか)時代の大臣。蘇我臣馬子(おみうまこ)の子、鞍作(くらつくり)(入鹿(いるか))の父。毛人とも記し、豊浦(とゆら)大臣と称された。『日本書紀』には、610年(推古天皇18)に朝廷の大夫(まえつぎみ)の1人として初見する。父馬子の後を受けて大臣となり、推古(すいこ)天皇が死ぬと、山背(やましろ)皇子擁立派を排して田村(たむら)皇子(舒明(じょめい)天皇)を即位させ、これに強く反対した叔父境部摩理勢(さかいべのまりせ)を攻め滅ぼした。しかし、舒明天皇治政の末期から、次の皇極(こうぎょく)天皇(舒明皇后)の即位に至って、大臣毛人(蝦夷)はしだいに天皇との対立を深めた。そして、皇極天皇が王宮と百済(くだら)大寺再建の事業をおこすと、毛人はこれに対抗するかのように祖廟(そびょう)を葛城(かずらき)高宮に建て、民衆を大動員して今来(いまき)に双墓をつくらせ大陵・小陵とよばせた。晩年には、政治はほとんど子の鞍作(入鹿)にゆだね、643年(皇極天皇2)10月には大臣の紫冠も与えた。しかし、その直後に上宮王家討滅事件が起こると大いに怒り嘆いたという。また、この年の4月には、百済の政変から亡命してきた翹岐(ぎょうぎ)や百済高官など40余人を受け入れ、大いにこれを厚遇した。このあと、645年に入って反蘇我本宗家の動きが急速に強まると、甘檮岡(あまかしのおか)に建てた邸宅を堅固に守らせて備えた。しかし、6月鞍作(入鹿)が宮中で暗殺されると、戦備を整えたが、私兵は四散したので邸に火を放って自殺した。
[門脇禎二]
『門脇禎二著『蘇我蝦夷・入鹿』新装版(1985・吉川弘文館)』
飛鳥時代の大臣(おおおみ)。蘇我馬子の子,鞍作(入鹿)の父。名は毛人とも記し,豊浦大臣とよばれた。大臣となる以前の610年(推古18)当時は,朝廷の大夫(まえつぎみ)の一人であった。父馬子のあとをうけて大臣となり,推古天皇が死ぬと,山背皇子擁立派を排し,それを強硬に主張した叔父の境部摩理勢(さかいべのまりせ)も攻め滅ぼし,田村皇子(舒明天皇)を即位させた。しかし,舒明天皇の治世の末期から始まった天皇との対立は,皇后(皇極天皇)が即位した後は決定的となった。そして,天皇が王宮と百済大寺再建の事業を起こすと,蝦夷は祖廟を葛城高宮に建て,さらに今来に双墓を造らせた。晩年には,政治をほとんど子の蘇我入鹿にゆだね,643年(皇極2)には紫冠を授けた。しかしこの直後に,山背皇子一族の覆滅事件を知ったときは大いに怒り嘆いたという。またこの年4月には,百済の政変で亡命してきた翹岐(ぎようぎ)ら一行を迎えて厚遇した。このあと,反蘇我本宗家の動きが強まると,甘檮(あまかし)岡(甘樫丘)に建てた邸の守りを固めたが,入鹿が暗殺されたあと私兵が四散するのをみて邸に火を放ち自殺した。
執筆者:門脇 禎二
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?~645.6.13
豊浦大臣(おおおみ)とも。7世紀前半の大臣。馬子(うまこ)の子。610年(推古18)新羅(しらぎ)・任那(みまな)の使人の入朝を迎えた。馬子が没すると大臣に任じられた。推古天皇の没後,みずから大臣として嗣位を定めようとし,群臣に諮り,山背大兄(やましろのおおえ)王を推す叔父の境部摩理勢(さかいべのまりせ)を殺して舒明を即位させた。皇極朝にも大臣であったが,子の入鹿(いるか)の威が蝦夷に勝ったという。642年(皇極元)祖廟を葛城高宮に建てて八佾舞(やつらのまい)をなし,双墓を今来(いまき)に造ってみずからの墓を大陵と称した。翌年,病のため朝参せず,私的に紫冠を入鹿に授けて大臣に擬し,644年,甘檮岡(あまかしのおか)に家を建てて上の宮門(みかど)と称して武装した。645年(大化元)入鹿が殺されると自殺した。
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…干支が乙巳にあたる645年(大化1),中大兄皇子(後の天智天皇),中臣鎌子(後の藤原鎌足)らが蘇我大臣家を滅ぼして新政権を樹立した政変。皇極女帝のもとで,皇位継承や政治方針に関し大臣の蘇我蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)父子と対立していた女帝の長子中大兄らは,唐の興隆により国際関係が緊張して高句麗や百済には政変が起き,643年冬には皇位継承の有力候補だった山背(やましろ)大兄皇子(王)一家が入鹿に滅ぼされると,蘇我一族の倉山田石川麻呂(くらのやまだのいしかわのまろ)らを同志として大臣家打倒を決意し,645年6月12日,皇居の正殿で石川麻呂が〈三韓の表文(ひようぶん)〉と称する外交文書を読みあげている最中に,中大兄が率先して入鹿を斬り,雇っていた暗殺者たちがこれを殺し,翌日には蝦夷も護衛兵らに逃亡されて自殺した。その結果,皇極女帝は弟の孝徳天皇に譲位し,中大兄を皇太子,鎌子を内臣,石川麻呂を右大臣などとする新政権が発足し,年号を大化と定め,政治改革に着手した。…
…しかし直接の契機は皇位継承をめぐる朝廷内部の権力闘争であった。すなわち推古天皇の死後,大臣蘇我蝦夷(そがのえみし)は反対派を制圧して舒明天皇を立てたものの,舒明死後には問題が再燃し,しばらく舒明皇后の皇極天皇が立てられている間に,蝦夷の子入鹿(いるか)は643年(皇極2),聖徳太子の子で皇位継承の有力な候補だった山背大兄(やましろのおおえ)王を急襲して自殺させ,朝廷内部の緊張はいちだんと高まった。
[経過]
舒明と皇極の間に生まれた中大兄(なかのおおえ)皇子(後の天智天皇)は,同志の中臣鎌子(なかとみのかまこ)(後の藤原鎌足)らとはかり,645年6月,宮中で入鹿を暗殺し,自邸に蝦夷を包囲して自殺させると,翌日には皇極の弟の孝徳天皇を立て,じぶんは皇太子として実権を掌握し,阿倍倉梯内麻呂(あべのくらはしのうちのまろ)を左大臣,蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわのまろ)を右大臣,中臣鎌子を内臣(ないしん),唐に留学した旻(みん)(新漢人(いまきのあやひと)旻)や高向玄理(たかむくのくろまろ)を国博士(くにはかせ)として新政権を樹立,年号を制定して大化とした(乙巳(いつし)の変)。…
※「蘇我蝦夷」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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