日本大百科全書(ニッポニカ) 「大和長岡」の意味・わかりやすい解説
大和長岡
やまとのながおか
(689―769)
奈良時代の明法(みょうぼう)家、大倭忌寸小東人(やまとのいみきこあずまひと)ともいう。五百足(いおたり)の子。刑名の学を好み、716年(霊亀2)請益(しょうやく)生として渡唐して法制を学び、養老律令(ようろうりつりょう)の編纂(へんさん)にも参加し、当時法令はみな長岡についてただしたという。737年(天平9)宿禰(すくね)姓となり、ついで外従(げじゅ)五位下(げ)となる。翌年刑部少輔(ぎょうぶしょう)となり、藤原広嗣(ひろつぐ)の乱にも関連したらしいが、その後摂津亮(せっつのすけ)、参河守(みかわのかみ)などを経、757年(天平宝字1)養老律令の施行に伴い功田四町が子に伝えられる。以後大和長岡を姓名とする。さらに民部大輔(たいふ)、河内守(かわちのかみ)、右京大夫(うきょうのだいぶ)を歴任し、764年ごろ致仕したらしいが、768年(神護景雲2)の賀正の宴にはとくに殿上に侍し、正(しょう)四位下に叙されている。刪定(さくてい)律令に携わり、明法博士(はかせ)にもなったらしいが、河内守時代に「仁恵なく、吏民うれう」といわれたように、その法解釈は法理論に基づくもので、いわゆる酷吏だったのであろう。
[佐藤宗諄]