大園村(読み)おおぞのむら

日本歴史地名大系 「大園村」の解説

大園村
おおぞのむら

[現在地名]高石市綾園あやぞの二丁目・同六丁目・西取石にしとりいし三丁目・同七―八丁目・取石とりいし四丁目・同六丁目・加茂かも一―二丁目など

南出みので村の北にあり、綾井あやい五ヵ村の一。五ヵ村内の田地は複雑に入組んでいるため、村境ははっきりしない。江戸時代前期には綾井村のうち(→市場村。延宝五年(一六七七)の綾井村年々下札写(井上家文書)によると、市場いちば村・南出村とともに本郷三ヵ村とされ、当時の村高は二四一石余。領主変遷は南出村に同じ。天保期(一八三〇―四四)の泉州一橋領知村々様子大概書(一橋徳川家文書)によれば、村高二六九石余のうち田方二一七石余・畑方五二石余で、用水は綾井五ヵ村立会溜池(鳥石池・同小池・長鳥池・新池)に頼り、水掛反別八町三反余、家数三〇・人数一二三、牛一〇であった。


大園村
おおぞのむら

[現在地名]横島町大園

東境を唐人とうじん川が流れ、南は横島よこしま村、西ははま(現玉名市)、北は北牟田きたむた(同上)と接する。近世は小田手永に属する。寛永期(一六二四―四四)と推定される肥後領高人畜家数船数調(永青文庫蔵)に村名がみえ、舟五(漁舟四・小舟一)を有し、水夫四五がいる。元禄国絵図に「伊倉北方之内大園村」とあり、伊倉北方いくらきたがた(現玉名市)からの分村である。「国誌」には高七一六石余と記す。明治一一年(一八七八)頃の田六七町五畝余・畑八町三反六畝余、戸数七五・人数四六七、牛馬七二、日本型船二(漁船)


大園村
おおそのむら

[現在地名]天竜市二俣町大園ふたまたちようおおその

二俣村北西、天竜川中流左岸に位置する。領主の変遷は二俣村と同じ。慶長九年(一六〇四)の木曾家古記録(千村文書)などによれば、千村平右衛門(良重)が当村や舟明ふなぎらなど計四ヵ村の榑木を管理するための代官に任じられている。松平忠頼領郷村帳には「大その村」とみえ、高一七石余、畑二町九反余。寛永一九年(一六四二)代官千村重長の時、村高一七石余、年貢率は四割五分、村内に柴草山が一ヵ所あった(千村文書)。延宝五年(一六七七)検地帳(河嶋家文書)によると、耕地は三町五反余、高二三石。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android