市場村(読み)いちばむら

日本歴史地名大系 「市場村」の解説

市場村
いちばむら

[現在地名]那賀町名手市場なていちば

紀ノ川の北側に位置し、村域を南に名手谷なてたに川が流れる。村のほぼ中央を東西に通る大和街道沿いに発展した宿場町で、北は馬宿うまやど(現粉河町)西野山にしのやま村、東は穴伏あなむし村、南は西野村。村名について「続風土記」は「此村商賈多く古より此地にて常に市を為し故に市場の名あり、今も除夜には近郷より集りて市をなすといふ」と記す。古代の条里遺構が村域南部の一帯に検出される。

中世は高野山領名手庄に含まれ、市場があったところである。建長二年(一二五〇)一二月二日付の官宣旨(宝簡集)に、名手庄で「尋示朽、論鎮斎榊、取市津料、行牛神祭」とあるが、この市がそれであろう。名手庄は五ヵ村に分けられていたが、当村はそのうちのなか村にあたる。中村の名は寿永二年(一一八三)一〇月一五日付の坂上末国畠地売券(広島大学文学部所蔵文書)に「那賀郡名手大塔御庄内字中村」とみえる。正応四年(一二九一)九月日付の高野山衆徒訴状案(又続宝簡集)などによれば、高野山は、名手庄に乱入して放火・殺害・刈田狼藉や旅客商人の衣類をはぎとり、所持品を強奪するなどの行為をした金毘羅次郎義方と悪八郎家基の二人を幕府に訴えているが、彼らは市津での押買や路次における強奪、高利貸的な活動など、市場を中心とする商品流通に深くかかわっていた。


市場村
いちばむら

[現在地名]三重町市場

北流する三重川と西から流れてきた玉田たまだ川の合流点の南西方にある。北東から南西へ通る臼杵うすきおか城路に沿って発達した街村で、臼杵城下からほぼ八里、岡城下からほぼ六里の距離にある。南方で南へと日向道が分岐する。「豊後国風土記」にみえる大野郡二駅の一で、「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条にみえる三重駅には駅馬五疋と定められていた。同駅は当地に比定される(三重町誌)正龍しようりゆう寺蔵の永正四年(一五〇七)二月二八日本願寺実如から与えられた阿弥陀如来絵像裏書に「南郡三重郷下田市庭」とある。また当地の有田家蔵の永禄一二年(一五六九)五月一〇日の三浦かつさ等連署売渡状に「仍市天神かりや・かつさもち」などとあり、天神を市神とする市の存在が推定される。近世を通じ臼杵藩領。慶長二年(一五九七)の三重郷検地帳写(渡辺家文書)に市村の一冊が含まれ、村位は上。同一〇年には当村を中心として一二村により市村組が編成された(「内検地目録帳」臼杵藩政史料)。同一一年の惣御高頭御帳にも市村とあり、高四二五石余。門田組に属した。慶長豊後国絵図では市村は高三千四五三石余。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳には市場村とあり、本高三七三石余・出来高八〇石余、田方二九四石余・畑方一五八石余、日損所と注記される。


市場村
いちばむら

[現在地名]鶴見区尻手しつて一―二丁目・元宮もとみや一―二丁目・市場〈かみ町・しも町・西中にしなか町・東中ひがしなか町・富士見ふじみ町・大和やまと町〉

南境を鶴見川が東流し鶴見村、西境を鶴見川の枝流のふる(現鶴見川)が南流し下末吉しもすえよし村に対し、北は矢向やこう村、東南は菅沢すがさわ村に接する。東を東海道が通る。

正保国絵図に村名がみえる。幕府直轄領で、うち一部が元禄一〇年(一六九七)から一時期旗本木造領、幕末旗本松波領となり二給。田園簿によれば沼田見取場一町四反余があり、野場役塩二二俵を課された。享和三年(一八〇三)の村明細帳(添田文書)によれば田六九町九反余、畑二二町余、用水は稲毛川崎二いなげかわさきにりよう用水を用いた。津出しは鶴見川橋わき。文政一〇年(一八二七)の村明細帳(県史七)によれば、田方は晩地で早稲は少々、畑方は麦・大豆・粟・木綿・菜・大根を作る。農間余業に男は沓草鞋を作り売り、女は小舞縄ない渡世、木綿糸・織をした。商人は四三で、酒・酢・醤油・煙草・瀬戸物・飴菓子・草履・草鞋・醴・鍛冶屋・箕・笊・篩・紙類・蝋燭・線香・抹香・水油・糸・綿・干物・濁酒・糸立・縄・豆腐・元結卸・鍋・釜・下駄・足駄・雑穀・鰹節・古着・小間物・土瓶・土鍋・土器・餅菓子・水菓子・米饅頭が商われた。


市場村
いちばむら

[現在地名]久美浜町字市場

川上谷かわかみだに川に支流の伯耆谷ほうきだに川が須田すだ村から流れ込む付近の平地に集落をつくる。かつて須田村から分離したと伝えられ(熊野郡誌)、須田の伯耆谷の山林に五谷ほど市場村の山林があった(「丹後国古事紀略書」日下部文書)

市場村より川上谷川の下流に位置する芦原あしわら村に中市場なかいちばとよぶ所があり、市場村は「上市場」であったという。

慶長検地郷村帳に高二七八・一七石「市場村」とみえるが、延宝九年(一六八一)には二五三石余と減少した(天和元年宮津領村高帳)

現竹野郡丹後たんごみや竹野たかの神社について「宮津府志」は、神社啓蒙に曰くとして「号スル斎宮者熊野郡市場村斎官之人メハ女子飛箭立于屋上也、其子四五歳之時奉当宮呼為斎女也、于山中深林之中独与禽獣同居シテ畏怖スルコト 」と記す。


市場村
いちばむら

[現在地名]君津市久留里市場くるりいちば

小市部こいちぶ村の南、小櫃おびつ川の谷が広がる中流右岸に位置する。中世久留里に含まれた。東は上総丘陵を越え川谷かわやつ村から大多喜おおたき(現大多喜町)方面へ久留里道が、西は同川を渡り鹿野かのう山方面へ、南は久留里城追手門前を経て浦田うらた村から亀山かめやま方面へ道が通じる。集落は小規模ながら城下町を構成し、文政一二年(一八二九)の熟談議定証文(吉田家文書)には市場町と記載される。小櫃川右岸には市場河岸(久留里河岸)が久留里藩の御用河岸として古くから設けられていた(同文書)。文禄三年(一五九四)上総国村高帳に久留市場とあり、高三九〇石余。正保国絵図に久留里市場町とみえ、高三〇〇石。元禄郷帳では久留利市場村とあり、高二九七石余。天保郷帳では高四一七石余。寛文四年(一六六四)には久留里藩領で(寛文朱印留)、以降の領主の変遷は山本やまもと村と同じ。


市場村
いちばむら

[現在地名]桃山町市場

だん村の南に位置し、東は小路しようじ村。「続風土記」に「古此地紀の川原なりしか、後世漸墾闢して衍沃の地となる、徳治三年の文書及応永の旧記に島田新荘とあるは此地なるへし、後世新田開くるに従ひ人多くつとひ市をなし市場村の名起れり、村中衣比須社の前を市本といふ」とある。

応長元年(一三一一)五月二一日付の入寺定劔御影堂陀羅尼田寄進状(続宝簡集)に「在荒河庄字市本矣」とあり、この高野山領荒川あらかわ庄の「市本」が、のちの市場の地と考えられる。しかし市場村付近は中世には島田しまだと通称されており、徳治三年(一三〇八)七月一九日付の金徳丸御影堂陀羅尼田寄進状(同集)に「在高野山御領荒川庄島田新田字クエノ前」とあるように、紀ノ川の河原を新たに開発した地であった。応永二〇年(一四一三)に作成されたと考えられる安楽河庄大検注帳(勧学院文書)によると島田分は総田畠数二八町六反一九〇歩、分米高七四石九升四合で、総田数のうち現田分は二町五反三五〇歩、現畠分二六町二〇〇歩とあり、畠地が圧倒的に多い。


市場村
いちばむら

[現在地名]一宮町東市場ひがしいちば

揖保いぼ川とその支流染河内そめごうち川との合流点の南の平地から東に広がる。揖保川対岸は閏加うるか村。中世は神戸かんべ(神戸郷)に含まれていた。貞治元年(一三六二)八月一〇日の染河内・神戸沙汰人等連判屋敷山畑相論済状(伊和神社文書)によると、「岡白奥屋敷山畑」について神戸と染河内との間で相論となったが、両所の庄官の間に和解が成立した。その際、「市場」の名主彦次郎は京見坂が神戸の真安名のうちであると主張し、これを認められている。文安六年(一四四九)七月二〇日の神領百姓等注進状案(同文書)に龍子所持分(給分地)国末くにすえ名に市場の三段がみえる。うち一段は伊和いわ神社の一〇月一一日の御祭田で公事銭は麦代一〇〇文、二段は「猿楽ろく」と記される御祭田で公事銭は麦代二〇〇文、前者は刑部、後者は六郎大夫が耕作百姓。


市場村
いちばむら

[現在地名]高石市加茂かも二―四丁目・綾園あやぞの二丁目・西取石にしとりいし一丁目・同三丁目・同六丁目など

紀州街道と熊野街道の中間に位置し、南出みので大園おおぞの新家しんけ土生はぶ村とともに綾井あやい五ヵ村の一。田地入組みのため村境は分けがたいが、東は新家村に、西は高石南たかいしみなみ村に、南は南出村に、北は高石北村に接する。寛永末年頃の状況を記したと推定される和泉国郷村帳によると、綾井五ヵ村は幕府領の「綾井高石村」二千五一三石余に含まれたが、慶安元年(一六四八)綾井高石村は綾井村(九八四石余)と高石村(一千五二九石余)に分れた(井上家文書)。延宝七年(一六七九)の綾井村検地帳(同文書)によれば、綾井村の太閤検地は一反が二五〇歩で行われ、古検高九八四石余であったが、延宝検地により一千一〇六石余となった。


市場村
いちばむら

[現在地名]作手村清岳きよおか

北畑きたばた村の北。現作手村の中心盆地の南端にあり、村域東北に耕地が開ける。かつて作手藩の本拠地となった地で、近世初頭二一三石余と、作手地方において最大の高を有する。慶長七年(一六〇二)より作手藩領、同一五年より幕府領、天和元年(一六八一)より鳥羽藩領、享保一一年(一七二六)より幕府領に復したが、安永六年(一七七七)より村内の二〇一石余が旗本鍋島直賢の知行地となり、残る六一石余は幕府領として残った。鍋島家の知行は幕末まで続くが、幕府領の部分は享和三年(一八〇三)より平藩安藤対馬守領となり、のち安藤理三郎分となって幕末に至る。


市場村
いちばむら

[現在地名]加西市北条町北条ほうじようちようほうじよう

万願寺まんがんじ川支流の下里しもさと川流域、北条盆地の中央部にある。中世は酒見北条さかみほうじように属し、北条は播磨三宮酒見社(現住吉神社)と真言宗泉生山酒見寺の門前町として、また丹波・但馬方面への街道筋の宿場町・商業町として繁栄した。戦国期には荒廃したようであるが、江戸初期急速に復興、家数も増加したため慶長(一五九六―一六一五)初期に寺内てらうち村と市場いちば村に分村したとされる(三枝家文書)。慶長国絵図に「北条ノ市場」とみえる。江戸時代は初め姫路藩領、正保(一六四四―四八)頃は幕府領(正保郷帳)


市場村
いちばむら

[現在地名]四日市市市場町

朝明あさけ川の北岸にあり、西方には西にし村、対岸には中野なかの村が位置する。中世は保々ほぼ郷のうち。江戸時代は初め桑名藩領、文政六年(一八二三)以降おし(現行田市)藩領、天保一三年(一八四二)以降幕府領、嘉永七年(一八五四)以後再び忍藩領。正保四年(一六四七)の中野村家人馬改帳控(四日市市立図書館蔵天春家文書)に戸数が「三拾八家 市場村也」とある。宝永八年(一七一一)の村指出帳(徳川林政史蔵)によると村高五六六石余のほかに中里なかざと村への越高八三石余がある。


市場村
いちばむら

[現在地名]揖斐川町市場

白樫しらかし村の南西、小島おじま山の南東麓に立地、かす川を挟んで南西は瑞岩寺ずいがんじ村、地内いちノ井堰は小島井水・池田いけだ井水の取水口。天正六年(一五七八)五月二一日の国枝六右衛門寄進状(龍徳寺文書)によって龍徳りようとく(現池田町)に寄進された田地の小作は「市庭」の彦八であった。同一七年一一月二一日付豊臣秀吉の美濃国御蔵入目録(内閣文庫蔵)に「市は三ケ村」六九〇石余とあるが、この三ヵ村は慶長二年(一五九七)の七日市場見右衛門尉外六名連署契状(瑞巌寺文書)にみえる四日市場よつかいちば七日市場なぬかいちば一日市場ひといちばであろうか。


市場村
いちばむら

[現在地名]袋井市春岡はるおか

周知すち郡に所属。宇刈うがり丘陵の谷間入口、高平たかひら山の西にあり、南はしも村。村名は昔市が立ったからといい、宇刈市場といったが、のち上山梨かみやまなし村に移った(郷里雑記)。慶長年間(一五九六―一六一五)に下村を分村という(遠江国風土記伝)。分村後も両村の地は錯綜していた(掛川誌稿)正保郷帳に市場村とみえ、幕府領、田方三六九石余・畑方五二石余、西楽さいらく寺領一七〇石・法蔵ほうぞう寺領五石・林光りんこう寺領三石・春日社(現春岡神社)領七石。


市場村
いちばむら

[現在地名]鳴門市大麻町市場おおあさちよういちば

高畠たかばたけ村の南にあり、北東は西馬詰にしうまづめ村。吉野川(現旧吉野川)が南西部を南東へ貫流する。南西は勝瑞しようずい(現藍住町)、南東は高房たかぼう村・新喜来しんきらい(現北島町)。同川の北岸堤防沿いに西の川崎かわさき村から高房村境近くで左折して西馬詰村に入る道と、市場渡を渡り勝瑞村に入る道があった。村名は中世の勝瑞城に近く、市が立てられた場所であったことにちなむといわれる。慶長二年(一五九七)の分限帳に一場村とみえ、四八八石余が吉浦弥太郎知行分。


市場村
いちばむら

[現在地名]毛呂山町市場

川角かわかど村の南東、越辺おつぺ川支流くず川流域の台地上に立地。中世の鎌倉街道に沿い、その頃九の日に市が立ったので九日市場ここのかいちば村と称していたという(風土記稿)。近世初めには川角村に含まれ、慶長一七年(一六一二)の検地帳には「入西郡川門ノ内九日市場」とあったといい(同書)、田園簿に村名がみえない。延宝五年(一六七七)に検地があり、反別田一二町五反余・畑屋敷三〇町七反余(毛呂山町史)、この頃に分村したとみられる。


市場村
いちばむら

[現在地名]美山町大字静原しずはら 市場

宮島みやじま一一ヵ村の一。由良川の支流棚野たなの川流域の山間集落。北は今宮いまみや村、南は野々中ののなか村。村名は、若狭国高浜たかはま(現福井県大飯郡高浜町)方面から輸送した魚介類を、この地で市を立てて販売したことによる。市場跡にある高さ三尺五寸、周囲六尺三寸の巨石は、えびす岩と称し注連縄をめぐらしていたと伝える。古代は「和名抄」に記す弓削ゆげ郷に属し、中世は野々村ののむら庄の地。

慶長七年(一六〇二)幕府領、元和五年(一六一九)より園部藩領となる。元禄一三年(一七〇〇)丹波国郷帳によると、村高四七・九二七石、旧高旧領取調帳では九八・五六一石。生業は農業を主とし、養蚕・製茶・川漁なども営んだ。

村域内に菅原すがわら神社がある。


市場村
いちばむら

[現在地名]朽木村市場

安曇あど川中流にあり、北東は野尻のじり村、北西は麻生あそ村。北に下市しもいちがある。「輿地志略」に朽木市場として、「四の口あり若狭口・京口・高島口・大溝口是也。是より北へ行けば若狭道也、南へ行けば京師道なり十二里あり」とあるように交通の要衝であった。明応七年(一四九八)一二月日の料足諸納帳(朽木文書)では市商人より一貫文が公事銭として納入されている。永正一五年(一五一八)九月日の棟別銭加増銭集帳(同文書)に「市惣」とあり、一七軒、一貫九〇〇文とある。


市場村
いちばむら

[現在地名]東大阪市玉串たまくしひがし一―三丁目・玉串元たまくしもと町一―二丁目・花園東はなぞのひがし町一―三丁目・花園本はなぞのほん町一―二丁目

玉串川が吉田よした川と菱江ひしえ川に分れる地点の南にあり、きわめて平坦な地。河内郡に属し、北は吉田村、東の村境を流れる恩智おんぢ川を挟んでいけしま村に対する。条里制の坪名が小字名として残る。中世玉櫛たまくし庄の地。本願寺証如の「天文日記」天文八年(一五三九)一二月二六日条にみえる玉櫛は当地と考えられ、石山いしやま本願寺(跡地は現東区)勢力下にあった「河内八里」の一つ。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高九二一石余、旗本石川領、幕末まで高の変化なく同氏領。


市場村
いちばむら

[現在地名]君津市清和市場せいわいちば

市宿いちじゆく村の南に位置する。小糸こいと川左岸にあり、上流から中流へ広がる地点に立地。旗本曾根氏の陣屋が置かれ、根岸氏が代々代官を勤めた。舟運が盛んで、中野なかの河岸が設けられた(川俣家文書)。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高二〇九石。元禄郷帳では高二一九石余。寛永一八年(一六四一)から旗本曾根領(「寛政重修諸家譜」、根岸家文書など)、慶安二年(一六四九)妙喜みようき寺に一〇石余の朱印地が与えられ(「妙喜寺朱印状」川俣家文書)、幕末も曾根領と同寺領(旧高旧領取調帳)


市場村
いちばむら

[現在地名]会見町市山いちやま

浅井あさい村の南東、小松谷こまつだに川と同川右岸に注ぐ支流朝鍋あさなべ川の合流点付近に位置し、朝鍋谷・小松谷・おお谷筋の小扇状地が集まる地点にあたる。古来から交通の要地で、村名の由来は、中世星川ほしかわ庄の交易市場であったことによるとされ(会見町誌)、また「伯耆志」は古く当地は星川と称して古代の会見郡星川郷(和名抄)の中心地であったとする。拝領高は四三五石余、本免は三ツ六歩。藪役銀二匁が課せられ(藩史)、倉吉荒尾氏の給所であった(給人所付帳)。幕末の六郡郷村生高竈付では生高四八九石余、竈数二四。「伯耆志」では家数二三・人数八三。


市場村
いちばむら

[現在地名]和知町字市場

由良川が、南流してきた上和知川を合わせて南西に転じ、次に北流する高屋たかや川を合わせるまでの、北西部に広がる台地上の村。村域は狭小だが平坦部が多い。東・南は由良川を挟んでおく村・升谷ますたに村、西は西北に流れを変えた由良川を挟み小畑おばた村、北は篠原しのはら村・大倉おおくら村。園部藩領。

配札と修行の途次、当地を通った野田泉光院は、「日本九峰修行日記」文化一一年(一八一四)九月二九日条に「樫原村出立、辰の刻。


市場村
いちばむら

[現在地名]大社町杵築南きづきみなみなど

越峠こえど村の南に位置し、南西に流れるほり川の右岸にあたる。杵築六ヵ村の一つ。江戸時代は杵築大社(出雲大社)領で国造北島家の支配下に属し、北支配といわれた(杵築旧懐談)。門前町杵築の一角を形成している。中世は杵築のうちに含まれ、村名は中世の杵築市庭の遺称。康永二年(一三四三)六月八日の国造出雲清孝知行宛行目録(千家家文書)に市庭とみえる。現在、地内には院内いんないの通称も残る。


市場村
いちばむら

[現在地名]郡家町市場

上津黒かみつぐろ村の北、私都きさいち川沿いに位置し、私都往来が通る。拝領高は三九九石余。本免五ツ八分。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「因幡誌」によると高四六五石、竈数六〇。「因幡志」では家数七九、産土神は宮田みやた大明神・八幡宮。物産は大竹。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳では生高四六一石余、竈数八八。丹羽・加藤・小泉・浅田・三上の五氏の給地があった(給人所付帳)。藪役銀一九匁余を課されていた(藩史)


市場村
いちばむら

[現在地名]太田市市場・東新町ひがししんまち

只上ただかり村の南東、渡良瀬川右岸の自然堤防上に立地し、北は下野国足利あしかが五十部よべ(現栃木県足利市)、東は同国梁田やなだ借宿かりやど(現同上)など、南は大町おおまち(現同上)植木野うえきの村など。西方を矢場やば川、北方を三栗谷みくりや川がそれぞれ南東流する。寛文郷帳によると館林藩領に属し、田方九二石余・畑方四三四石余。天和二年(一六八二)の分郷配当帳では高五五九石分が旗本日根野領などの二給。


市場村
いちばむら

[現在地名]佐伯町佐伯

吉井川右岸、大王たいおう山南方の王子おうじ川が吉井川に合流する氾濫原上に集落がある。北の米沢よねざわ村と町並続きであった(吉備温故秘録)。吉井川対岸は矢田やた村で、船渡しがあり(備前記)、西は寺山てらやま村。中世には一帯に佐伯庄が成立し、近世に入っても一帯を佐伯庄・佐伯郷と称し、とくに当村は佐伯村ともよばれた。また佐伯一八ヵ村という総称もあった。


市場村
いちばむら

[現在地名]小原村市場

田代たしろ川の中流域すもも村の東にあたる。篠平ささだいら丹波たんばを通る飯田街道が通ずる。安永七年(一七七八)の村絵図(豊田市蔵)によれば飯田街道沿いに東から観音堂・氏神・庚申堂・広円こうえん寺・普門ふもん寺・善長ぜんちよう寺・西運さいうん寺が並ぶ。字川端かわばたには宝篋印塔が一基ある。寛永郷帳では岡崎藩領、安永七年挙母ころも藩領で明治維新に至る。明治九年(一八七六)の副業統計(小原村誌)では木挽が一戸ある。「愛知県西加茂郡各村沿革調」によれば、同一八年の戸口は六四戸・二八〇人で特有物産に藺三〇〇斤がある。


市場村
いちばむら

[現在地名]田原町神戸かんべ

しお川の東岸にあたり、漆田うるしだ村・青津あおづ村の東に隣接する。古代の伊勢神宮領三河国本神戸ほんかんべはこの地を中心とした。田原の二・七の六斎市はここで始まり、後世田原城下に移ったと伝えられる。天保三年(一八三二)頃、田は九町五反一畝余、畑は一七町四反八畝余(地方秘録)。慶長六年(一六〇一)以来の田原藩領で、明治一一年(一八七八)とうくち本前もとまえ水川みずがわ新美にいのみ志田しだ赤松あかまつ・青津・漆田の九ヵ村と合併して神戸村となり、同一五年青津・漆田の二ヵ村とともに分立し神戸村を称した。


市場村
いちばむら

[現在地名]倉吉市小鴨おがも

中河原なかがわら村の南西、小鴨川左岸に位置する。村域は中河原村と上古川かみふるかわ村の間に展開する平坦地から天神野てんじんの台地にかけて広がり、同台地東麓に市場城跡がある。同城は岩倉いわくら城に拠った小鴨氏の家臣岡田氏の居城といわれ、天正一〇年(一五八二)吉川氏の攻撃を受け落城したと伝える。城跡は丘陵斜面の高所部に大規模な掘割がコの字状にめぐり、その内に上下三段の郭が配置されている。


市場村
いちばむら

[現在地名]舞鶴市字市場・竜宮りゆうぐう町・愛宕浜町あたごはままち・愛宕下町しもまち

泉源寺せんげんじ村の南、若狭街道沿いの志楽川河口に位置し、祖母谷そぼたに川が河口近くで志楽川に注ぐ。泉源寺村の枝村で、湊町・市場町として栄えた。

中世には志楽庄の地で、地名は文明六年(一四七四)五月一二日付の小倉いね大夫等連署田地売券(梅垣西浦文書)に「在所志楽市場しんてん小倉い禰大夫持分」とみえるのが早い。


市場村
いちばむら

[現在地名]揖保川町市場

袋尻ふくろじり村の東に位置し、河内こうち谷の北東端に立地する。北から東にかけて揖保川が流れ、北は同川を挟んで萩原はいばら(現龍野市)、南は権現ごんげん山を境に碇岩いかりいわ(現御津町)。慶長国絵図に村名がみえる。領主の変遷は山津屋やまつや村と同じ。寛永一三年(一六三六)の龍野領村々高辻帳(八瀬家文書)では池田輝政による内検地高四六〇石余、高三八〇石余。正保郷帳では田方一六九石余・畑方二一〇石余。天保郷帳では高五七八石余。「西讃府志」によれば反別は四二町一反余、うち畑方二〇町六反余・屋敷一町三反余、年貢米二七六石余、家数九五・人数四一六、牛三〇。文久三年(一八六三)の本免は上五ツ一分五厘・中四ツ九分五厘・下四ツ五分五厘(「川西組本免及小物成」丸亀藩史料)


市場村
いちばむら

[現在地名]美里町神野市場こうのいちば

貴志きし川の曲流部北岸にあって、西南岸の野中のなか村と相対する。村の中心部の東南より西にかけては貴志川が囲む。山間の地であるが、比較的平地が広がる。貴志川北岸に沿って高野街道が通り、当村で南に分れる竜神街道は長峰ながみね山脈を遠井辻といつじ峠で越えて有田郡に向かう。両街道の分岐点は市場辻いちばつじと称し、古くから市場が開かれた地であった。


市場村
いちばむら

[現在地名]金屋町市場

金屋村の北に位置し、西は糸野いとの村、東は中野なかの村と高野街道で結ばれる。南を有田川が流れ、早月谷はやつきたに川が村の中央を流れて有田川に合流する。「続風土記」に「古より此地に市あり、後世中絶せしを近来再興して一六の日に近村の農商聚まりて市店をひらき市をなす」とあり、中世、定期市のあったことを推測させる。鳥屋とや城の盛時には城主の庇護もあって栄えたが、畠山氏の没落とともに衰えたものか。


市場村
いちばむら

[現在地名]洞戸村市場

板取いたどり川西岸に位置し、対岸は黒谷くろだに村。西進してきた高賀こうか街道は村内を川沿いに北上する。出町鎌倉かまくらから北の通元寺つうげんじ村の間に四町ほどの町並があり、出郷として南に中瀬なかぜ、北西に赤祖父あかそぶ、板取川対岸に門原かどはらがある(濃州徇行記)。当地にある天神社蔵の慶長五年(一六〇〇)の社殿造立棟札に「濃州路武義郡洞戸市場総社天満大自在天神宮」とみえ、裏面には先年建立として大永二年(一五二二)・天文二一年(一五五二)の銘が記される。正保四年(一六四七)の洞戸村免定(河合文書)に町分とみえる。元禄郷帳に洞戸市場村と記され、高一〇六石余。「濃州徇行記」には本郷市場と記され、高二四六石余、田八畝余・畑二一町三反余、人数三七九。


市場村
いちばむら

[現在地名]甲賀町大原市場おおはらいちば

高野たかの村の東、そま川の右岸で大原谷と油日あぶらひ谷の交点の平坦地に位置。大原市場村ともよぶ。集落西端で大原谷を流れる大原川が杣川と合流し、杣街道が通る。戦国期の市場陣山いちばじんやま城跡・補陀落寺ほだらくじ城跡がある。寛永石高帳に市場村とみえ、高四四四石余、旗本堀田領。正保郷帳では幕府領・旗本山岡領。慶安二年書上では田二八七石余・畑屋敷六四石余・永荒川欠九三石余。元禄郷帳には大原市場村とみえ旗本西郷領。元禄七年(一六九四)から土山つちやま宿(現土山町)の助郷となり、勤高四三八石(土山町有文書)


市場村
いちばむら

[現在地名]和田山町加都かつ

久留引くるびき村の南東、円山まるやま川東岸に位置する。南西は竹田たけだ村。中世賀都かつ庄の中心地で、市が開かれていた。江戸期に市場村と東の寺内てらうち村に分立し、加都市場などと称した。一七世紀前期・中期とされる国絵図(石川家蔵)では「市場」とみえ、正保(一六四四―四八)頃の国絵図では高四五〇石余。幕府領として推移したと考えられる。宝暦七年(一七五七)の但馬国高一紙では高四五六石余。元文三年(一七三八)の生野一揆では当村庄屋弥兵衛(持高五〇石余)が遠島に処されている(「朝来郡村々百姓強訴一件」生野書院蔵)


市場村
いちばむら

[現在地名]湖北町山本やまもと

河原かわら村の北に位置。集落の東を余呉よご川が流れる。市庭村とも記した。慶長五年(一六〇〇)九月一六日の徳川家康禁制(南部文書)に村名がみえる。寛永石高帳によれば高八八一石余で、うち彦根藩領一二一石余(以後変わらず)・山城淀藩領六一石余・旗本長田領三四九石余・旗本芝山領三四九石余。彦根藩領は文久二年(一八六二)上知、慶応元年(一八六五)同藩預所となる。ほかは元禄郷帳では旗本徳永領・芝山領の相給。


市場村
いちばむら

[現在地名]建部町市場

東は旭川に面し、田地子たじこ川とさくら川に挟まれた平場の村で、南は中田なかだ村、北は宮地みやじ村、西は富沢とみさわ村に接する。村内を津山往来が通る。津高つだか郡に属し、寛永備前国絵図に高三六〇石余とある。貞享元年(一六八四)の津高郡高目録(池田家文庫)には「枝光月こうげつ村」とある。「備陽記」によると、枝村は神力こうりきとあり、田畠二四町八反余、家数八七・人数四七三、育麦蔵一。文化年間の「岡山藩領手鑑」によれば直高六九一石余はすべて池田栄馬の給地。


市場村
いちばむら

[現在地名]根尾村市場

樽見たるみ村の北西に位置し、根尾西谷ねおにしたに川と根尾東谷川に挟まれた合流点北に集落がある。両川に沿って越前へ抜ける山道の結接点でもあり、根尾谷における交通の要所で、市が開かれていたために村名となったと推定される。根尾谷では古くから開けていたと考えられ、養老年間(七一七―七二四)創祀を伝える大領たいりよう神社や、暦応二年(一三三九)、南北朝の争乱での戦死者を葬ったという千人塚がある。古い集落は字上の段かみのだんにあり、川筋の変化につれ旧川原へ下りてきた。正保郷帳によれば田六石余・畑四四石余・紙桑木高五石余・山年貢五石余、小物成金二両二分。


市場村
いちばむら

[現在地名]藤原町市場

員弁川の西、本郷ほんごう村の南東、志礼石しれいし新田の北西に位置する。江戸時代を通じて桑名藩領。村名の由来は、かつて当地に毎月六斎市が開かれていたことによる(員弁雑志)。文政一〇年(一八二七)の桑名領郷村案内帳によれば、免は二ツ四分で、同藩領内でもかなり低いほうである。文政七年の村明細帳(徳川林政史蔵)には、家数六〇、人数二七九(男一五〇・女一二八・出家一)、馬二一。助馬金三分と銀四匁、増金(金額は記さず)を負担し、助郷人足は出人足の半分の八人半を桑名宿に出した。


市場村
いちばむら

[現在地名]度会町市場

一之瀬いちのせ川左岸の南北に広がる低位段丘上にある。北はやなぎ村、南は支流大谷おおたに川で脇出わきで村と境する。東は一之瀬川で和井野わいの村と対する。中世には一之瀬谷中の市場があったと伝える。また脇出村よりの分村とも伝える。村内の小字には人名を冠する屋敷・古屋の地名がきわめて多いことから、かつて市場のあったことがうかがわれる。古屋地名は一之瀬川沿いに顕著なので、洪水により家並がしだいに西方の高所山沿いの現在地に移ったといわれる(度会町史)


市場村
いちばむら

[現在地名]赤堀町市場

堀之下ほりのした村の北東、かす川と鏑木かぶらき川の合流点東方の低平地に位置。東は西久保にしくぼ村、国定くにさだ(現東村)。寛文郷帳には赤堀市場村とみえ田方三〇石余・畑方一一六石余・林高九石余、旗本牧野領。元禄郷帳では赤堀村とみえ高二二九石余、幕府領。近世後期の御改革組合村高帳では上総一宮藩領、家数一〇三。


市場村
いちばむら

[現在地名]土山町市場

前野まえの村の西にあり、南を野洲やす川が西流する。集落は東海道に沿って街村をなす。中世は岩室いわむろ郷に属し、古くは「前野市庭」と称したという。慶長五年(一六〇〇)幕府領。正保郷帳では幕府領と旗本堀田領、元禄郷帳では宮川藩領、享保年間(一七一六―三六)幕府領となり、天明村高帳では京都所司代牧野貞長領。その後幕府領を経て山城淀藩領。淀藩領時代の私領示石が大野おおの小学校に保存されている。


市場村
いちばむら

[現在地名]泉南市信達市場しんだちいちば

牧野まきの村の東にあり、南北に細長い村。村の南部は山地帯で北部に平地が広がり、紀州街道(熊野街道)が通る。集落は街道沿いに集中、隣村牧野村・大苗代おのしろ村集落と連なる。中世は信達庄に含まれ、街道集落は信達宿として交通の要衝となり、近世にもその機能は継承された。熊野御幸の時の宿所である御所が置かれたことにちなみ御所ごしよ村と称されたという(大阪府全志)。慶長一〇年(一六〇五)の和泉国絵図に「御所ノ市場村」とみえ、高七一〇石余。寛永末年頃の状況を記したと推定される和泉国郷村帳では八六四石余、一村別旧領主并石高では九九七石余と順次増加している。


市場村
いちばむら

[現在地名]大和高田市大字市場

池田いけだ村南方、伊勢街道(横大路)北側に位置する。旧条里遺称から推定すると葛下郡二四条六里付近となり、天永三年(一一一二)一二月三日の某処分状(東大寺文書)によると「大和所領田畠事 合拾肆町陸段半者 在葛下郡(中略)廿四条六里廿坪一町 八木北、廿五坪五反 長原居坪(中略)、廿三坪五反 やない田西坪」とある。村域に小字中八木なかやぎ・下八木・柳田やなぎたが現存。


市場村
いちばむら

[現在地名]伊予市市場

現伊予市の平地部から南部山地にかかる地点に位置し、稲荷いなり村に続き、西はなか村に接する。市場の地名は古く市の開かれた所といわれ、村内には金比羅こんぴら道が通じ、古い店の名残や道標なども残っている。山崎やまざき郷一〇村の一で、寛永一二年(一六三五)の替地を経て新谷藩領。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の伊予郡の項に「市場村 日損所」、高四二九石四斗三升五合と記す。元文五年(一七四〇)の「大洲秘録」に村の産物は「米・綿」とある。村内字かわらがはなには全長約七メートルに及ぶ古代の登窯の跡が発見されている。


市場村
いちばむら

[現在地名]羽島市足近町市場あぢかちよういちば足近町あぢかちよう

南宿みなみじゆく村の東に続く足近輪中内の村。中世の鎌倉街道が当地辺を通っていたと伝えるので、宿に付属した市が立ったことから地名が生じたものであろう。「濃州徇行記」に「足近輪中囲堤西傍に民居建ならび村立大体よき処なり、(中略)農業のみを以て渡世とし」とある。慶長郷帳に村名がみえ、高九二石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では幕府領。同五年尾張藩領となり(明暦覚書)、幕末に至る。明暦覚書によると概免五ツ八分余・概高一三六石余。


市場村
いちばむら

[現在地名]岡崎市市場町

東海道が東から三河高原を横断する御油ごゆ断層の谷間を抜け平地に入るところの街村。西隣の藤川ふじかわ宿と町並が続き、東隣は舞木まいぎ村である。中世、山中やまなか郷に属すという。慶安元年(一六四八)代官鳥山牛之助により、村民すべては藤川宿の東に移され加宿にされた。近世を通じて幕府領。寛永郷帳の村高三〇五石余。


市場村
いちばむら

[現在地名]鏡野町市場

香々美かがみ川左岸の平地に位置し、東は香々美中村、西は和田わだ村・円宗寺えんじゆうじ村、南は沢田さわた村に接する。正保郷帳に高二二三石余、うち田方二〇七石余・畑方一六石余とある。「作陽誌」の県邑部には村名を欠く。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳では改出高四一石余、開高二四石余。元禄一一年以降も津山藩領。「作陽誌」によれば、古跡の山名旧宅は山名房安の住んだ所という。また同書によれば、産土神は八幡宮であるが、境内は多く田畑となり社地は狭少とある。


市場村
いちばむら

[現在地名]成東町市場

和田わだ村の北にある。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高三四石。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳に成東下組に属する旗本山崎領高五八石余の津部が記されているが、これは当村をさすと思われる。安永三年(一七七四)の武射郡各村高支配帳(渡辺家文書)では旗本新庄領。


市場村
いちばむら

[現在地名]木更津市下郡しもごおり

下郡村の南、小櫃おびつ川西岸に位置する。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高二二石。慶長一七年(一六一二)から旗本福島領、宝永二年(一七〇五)から福島氏と旗本大久保氏の相給となり(「寛政重修諸家譜」など)、改革組合帳では旗本内藤二家領。旧高旧領取調帳では内藤一家領。


市場村
いちばむら

[現在地名]和田山町市場

高生田たこうだ村の北東に位置する。正保(一六四四―四八)頃の国絵図に村名がみえ、高一九四石余。宝暦七年(一七五七)の但馬国高一紙では高一九七石余。領主の変遷は室尾むろお村と同様と考えられるが、但馬国高附郡訳手控(岡田家文書)に村名が記載され、高九七石余が生野代官支配であった。


市場村
いちばむら

[現在地名]山東町市場

市場中いちばなか村の西の平地に立地。村名は大原おおはら庄内の市場があったことによる(坂田郡志)。寛永石高帳に村名がみえ高二八四石余、彦根藩領(幕末に至る)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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