大幡村
おおはたむら
[現在地名]岡崎市大幡町
男川支流の鶇巣川に沿った山間部の谷間に集落が立地。東は樫野山村・牧平村(現額田郡額田町)、西は池金村、南は上衣文村、北は下衣文村(現額田町)と各々山で接する。
中世、山中郷に属していた。字源海付近に室町末期と伝える宝篋印塔を伴う三基の塚が残る。佐野正安の本領の地である。正安は松平清康に仕え、享禄二年(一五二九)の吉田城(現豊橋市)攻めで功があった(寛政重修諸家譜)。天文一二年(一五四三)に中根正恭が松平広忠より「山中郷大畠村衣文村鳥巣村百貫文之采地」を拝領して当村を本領とした(中根氏譜牒)。
大幡村
おおはたむら
[現在地名]都留市大幡
桂川の支流、東流する大幡川の上・中流域に位置し、東は中津森村。「甲斐国志」によると、一流の大幡が舞降りてこれを神に祀ったのが村名の由来という。元禄郷帳に大畑村とみえ、天保郷帳では「古は大畑村」と注記される。天正一九年(一五九一)一一月一四日の加藤作内寄進状(広教寺文書)によると、「大幡之内」の八石余が光孝寺(広教寺)に寄進されている。文禄―慶長期(一五九二―一六一五)のものと推定される四郡高〆控では大畑村とみえ、高二六一石余。
大幡村
おおはたむら
[現在地名]鴨川市大幡
北風原村の北西、加茂川の中流域に位置し、村の南端を長狭道が通る。応永二八年(一四二一)一二月二九日の鎌倉公方足利持氏御教書(保坂文書)に「長狭郡上村内下村内等」とみえ、両村内の地が龍興寺に寄進されている。下村の遺称地は確認できないが、上村は旧吉尾村・大山村一帯と考えられ、当地の竜江寺は龍興寺の後身とみられる。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録には「小幡村」とみえ、高五五三石余(うち田方二七二石余)、里見氏直轄領。
大幡村
おおはたむら
江合川と多田川の中間の水田地帯の一角にある。北は蓑口沼村、南は境野宮村、東は楡木村、西は中里村と接する。古川と松山(現志田郡松山町)とを結ぶ街道沿いにあり、「安永風土記」に「古川町江四里 松山町江拾五里半」とある。正保郷帳に田二一貫六四文・畑五貫六一六文とあり、ほかに同所新田一五貫三九九文がある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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