小幡村(読み)こわたむら

日本歴史地名大系 「小幡村」の解説

小幡村
こわたむら

[現在地名]福井市小幡町

丹生山地の北縁に位置する。村内の大縄おおなわ東大縄ひがしおおなわ・西大縄・堂縄どうなわ小割しようわりなどの字名は千町せんちようおきを干拓した時にちなんだものと伝える。慶長六年(一六〇一)の由木照盛・大町直政連署状(林文書)に「小和田沖隣郷之村々」とあり、同一一年頃の越前国絵図に「小幡村」として一八二九・六八四石とある。この石高から推定して、当時の村域はのちの小幡・木下きのした為寄ためより領家りようけ石畠いしばたけ中山なかやま田頭たのかしら高須たかすの八ヵ村を含む地域と考えられる。正保郷帳の総高は八四八・八八四石で、田方が六七三石余・畠方一七五石余。福井藩領。

越前国名蹟考」には枝村として「八町茶屋村 福井より浦の方への街道なり」とあるが、この八町茶屋はつちようぢやや村は当村の南方に位置する。

小幡村
おばたむら

[現在地名]甘楽町小幡

西境を川が北流、東は上野うえの村・白倉しらくら村、西は善慶寺ぜんけいじ村、南はとどろく村と多胡たご上日野かみひの(現藤岡市)、北は二日町ふつかまち村と接する。近世には小幡藩の陣屋が置かれ、町場を形成した。「経俊卿記」に文応元年(一二六〇)八月二〇日評定として記す基兼朝臣と実伊法印の相論地に「上野国額部庄内小幡・白倉・新屋郷」があり、宝寿丸の領知として裁定されている。赤木文庫本「神道集」には「尾幡荘ノ地頭」尾幡権守宗岡の娘海津姫を愛した藤原宗光の大蛇退治と、宗岡夫婦と姫・宗光が神になった話を記す。「長楽寺永禄日記」永禄八年(一五六五)八月二五日条や天正一一年(一五八三)九月晦日の北条家印判状(高井文書)などには「小幡谷」とある。

「織田様御代々覚書」(高山家蔵)によると、寛永六年(一六二九)福島ふくしま村からの陣屋移転を計画し、陣屋・侍屋敷や生活用水としての雄川堰などの普請を進め、堰を街路の中央に配した新町の町割をなし、完成した同一九年に移転している(なお「寛政重修諸家譜」には信昌の項で寛永二年に小幡で生れるとある)

小幡村
おばたむら

[現在地名]五個荘町小幡

きたしよう村・五位田ごいで村の東にあり、東を愛知えち川が北流する。西部を南西から北東に中山道が走る。「和名抄」神崎郡小幡郷の遺称地。慶長高辻帳に村名がみえ、高三五八石余。以後村高は幕末まで同じ。領主の変遷は七里しちり村と同じ。集落は中山道に沿って街村のかたちをとっている。明治六年(一八七三)の地券図(小幡区有)によれば、街道を挟む両側町で南から順によこ町・もと町・間之あいの町・なか町・しん町・きた町と延び、東側の歌子之うたこの町・細道ほそみち奥出おくで的場まとばにも屋敷地が広がる。

小幡村
こはたむら

[現在地名]板柳町小幡

東は枝川えだがわ(現枝川鶴田堰)を境に掛落林くらのはやし村に接し、西は竹田たけだ村に連なる。

貞享四年(一六八七)検地帳は掛落林村の支村小幡村だけの田方四四町一反八畝二六歩、畑方三四町五反三畝二一歩、田畑屋敷合せて七八町七反二畝一七歩、村高五九六・四九五石、百姓四五人、郷蔵屋敷を記す。同年新屋村を小幡村に改め、広須組へ入り、宝暦七年(一七五七)赤田組へ入った(板柳町誌)。元禄三年(一六九〇)の村位は中とある(平山日記)

小幡村
おばたむら

[現在地名]北浦村小幡

山田川右岸の台地上にあり、北は行戸ゆくど村。中世は小幡郷と称し、正元二年(一二六〇)・弘長二年(一二六二)・建治三年(一二七七)・弘安八年(一二八五)烟田文書に小幡郷の名があり、嘉元四年(一三〇六)一二月二〇日の関東下知状案(鹿島神宮文書)には「小幡郷地頭六郎太郎幹知」とある。また延元元年(一三三六)の沙弥信崇譲状案(烟田文書)には

<資料は省略されています>

と記される。天正一九年(一五九一)に小幡太郎正辰は佐竹氏の家臣下河辺・荷我部両氏に攻められ、小幡氏は滅亡と伝えられる。

小幡村
おばたむら

[現在地名]保原町 泉町いずみまち・小幡町・柏町かしわまち西町にしまち宮内町みやうちまち

下保原村の西に位置し、北は中瀬なかぜ村、南は上保原村。古くは阿武隈川が上保原村と当村の間を流れていた。天文七年(一五三八)の段銭古帳では伊達西根だてにしねのうちとして「おは田」とみえ、段銭は二五〇文。同一二年一一月一三日、伊達稙宗は小幡の地頭と推測される小幡八郎の所領を本内大炊助に与えた(伊達正統世次考)。また天文の乱終結後の同二二年には伊達晴宗が伊達郡「西根之裏小幡之郷」など小幡八郎の所領を桑折播磨守(貞長か)に加恩として与えている(同年正月一七日「伊達晴宗充行状」伊達家文書、晴宗公采地下賜録)

小幡村
おばたむら

[現在地名]岩瀬町長方おさかた

岩瀬盆地西部に位置し、村内を逆堀さかさぼり川が東流する。西は中泉なかいずみ村、北は飯岡いいおか村。古代は「和名抄」記載の大幡おおはた郷の本郷の地に比定される(新編常陸国誌)。江戸時代は笠間藩領・天領・旗本領で、「寛文朱印留」には笠間藩井上氏領として村名が載る。笠間藩牧野氏時代は山外北やまそときた郷の代官所が置かれた。「茨城郡村々様子大概」(笠間稲荷神社蔵)によれば、村には溜池二、大道橋一〇、小橋二〇があり、秣場は上野原うえのはら三〇〇町歩を入会七ヵ村でもっていたが、文化期(一八〇四―一八)に六〇町歩以外は新田となったので、その地を六ヵ村でもち、野永一九二文は飯岡村領主井上兵庫に納めていた。

小幡村
おばたむら

[現在地名]八郷町小幡

筑波山東麓、川又かわまた川の上流域に位置する。東は須釜すがま村、北は川を隔てて吉生よしう村。

天平勝宝四年(七五二)一〇月の馬鞍腹帯墨書銘(正倉院宝物)に「常陸国茨城郡大幡郷戸主大田部馬麻呂調壱端」とある大幡おおはた郷は当地に比定される。また「将門記」にある弓袋ゆふくろ(現湯袋峠)真壁まかべ郡境にあり、真壁から常陸国府(現石岡市)に通ずる峠道が古くから開かれていたと思われる。弘安大田文には北郡として「小幡三丁」とあり、中世は小田氏の一族が小幡氏を名乗って当地を支配した(新編常陸国誌)

小幡村
おばたむら

[現在地名]守山区小幡・廿軒家にじゆうけんや

中央を瀬戸街道が東西に通り、南境を矢田やだ川が流れている。西を守山村と接する。小幡から東へ大森おおもり印場いんば(現尾張旭市)へかけて条里制の遺構がみられる。定光寺祠堂帳(定光寺蔵)の天文元年(一五三二)と考えられる条に「六俵 小幡良育取次 華光玄了禅尼」とみえ、同二四年の織田信長書状に「をはた殿」とあり、名古屋城三の丸の天王社拝殿に掛けられていた元亀三年(一五七二)銘の鰐口に「尾張春日(ママ)郡山田荘小幡長谷村勝軍地蔵堂」とあったという(尾張志)

小幡村
おばたむら

[現在地名]茨城町小幡

ともえ川の左岸に位置し、東は秋葉あきば足黒あしぐろ二村。陸前浜りくぜんはま街道が村内を通る。年未詳の鹿島神宮所領日記(鹿島神宮文書)に「おはた」とみえる。慶長七年(一六〇二)秋田氏領となったことを示す御知行之覚(秋田家文書)に小幡村八三七・三六石とある。江戸時代は水戸藩領で、寛文三年(一六六三)開基帳(彰考館蔵)に「小幡村」とみえる。天保一三年(一八四二)の検地では田畠六八町余、分米五八四石余、新田田畠二一町余、分米一一六石余(新編常陸国誌)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報