大新田村(読み)おおしんでんむら

日本歴史地名大系 「大新田村」の解説

大新田村
おおしんでんむら

[現在地名]中津市大新田

西は東浜ひがしはま村、南は下池永しもいけなが村・全徳ぜんとく村。新田集落で、東浜村の枝村である。正和二年(一三一三)頃と思われる年月日未詳の鎮西探題裁許状(宮成文書)によれば、守護糸田顕義らの起請文に「於(全得)名北堺内者干潟之間、ママ塩浜之外無田地」と、現在の大新田の地が干潟で、自見じみ塩浜であると述べている。「中津歴史」によれば、中津藩主小笠原長円が「元禄の晩年、其病ヲ養ハシメン為、城東東浜村新田村ノ間ナル松原ニ離亭ヲ建テ(中略)蠣瀬・大塚ノ浜ヲ掘リテ川トナシ、舟ヲ浮ヘテ城内ヨリ直ニ此ニ相通スルヲ得セシム」とある。


大新田村
おおにたむら

[現在地名]南郷村大新田

水根沢みずねさわ村の北、北流する伊南いな川右岸の断崖上にあり、集落は沼田街道に沿って三列に並んでいる。北方河岸段丘上の荒地に十三仏じゆうさんぶつと称する土盛りや石積みが第二次世界大戦後まで残り、段丘の下に塔場下とうばしたの地名を今も残す。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に「鬼田 百十六石二斗」とある。慶長二年(一五九七)の藤三郎倉入在々高物成帳(福島県史)には「大新田」とあり同高で、免四ツ二分。古町組に属し、寛文五年(一六六五)伊南郷村々改帳(馬場家文書)によると高一二四石余、免三ツ九分五厘七毛で年貢は金納。


大新田村
おおしんでんむら

[現在地名]館林市大新田

北は下早川田しもさがわだ村、西は足次あしつぎ村、東・南は新当郷しんとうごう村。近世前期までは下野国安蘇あそ郡に属し、西から東へ半円形を描いて流れていた旧矢場やば川の北岸に位置していた。開発の時期は不明。当初足次村に属したものか。一五世紀末のものといわれる下野絵図(福地家蔵)によると、当村の西方を現栃木県佐野さの市から館林市方面へ南下する一筋の道が走っている。


大新田村
おおしんでんむら

[現在地名]東予市大新田

ひうち灘沿岸に江戸時代初期に松山藩営事業として行われた干拓による新田集落村。しん川の河口右岸にあり、壬生川にゆうがわ村の東部に位置する。「伊予温故録」に「大新田 寛永十二年以来松山城主久松氏、海水を埋め新田を開く、万治二年に至り全く竣工して三十三町余、高四百余石を得たり」とある。松山藩松平(久松)氏就封以来二五年を費やして完成した大事業であった。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)桑村くわむら郡の項に、別記して「新田」四六石五斗五升一合とあるのは、この開発途上を示すものであろう。


大新田村
おおしんでんむら

[現在地名]今治市大新田町一―五丁目・みなと町一丁目・鐘場かねば町一―二丁目

今治平野北端に位置し、あさ川左岸一帯の低湿地を干拓してつくられた村。南は今治村、西は石井いしい村、北は大浜おおはま村に接する。字明治畑付近は石井村の飛地。東は来島くるしま海峡に面し、おお島の椋名むくな(現越智郡吉海町)に対している。海浜は砂質土、背後は湿地で水利悪く潮害をうけやすい。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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