石井村(読み)いしいむら

日本歴史地名大系 「石井村」の解説

石井村
いしいむら

[現在地名]坂戸市石井・さかえ千代田ちよだ二丁目・鎌倉町かまくらちよう柳町やなぎちよう

片柳かたやなぎ村の東にあり、北部を飯盛いいもり川が東へ、南東部を同川支流が北東へ流れ東端で合流する。南東から北西に川越秩父道が通り、馬継立場となっていた。西方を古鎌倉街道が通り、小名元宿もとじゆくはその宿駅の跡という(風土記稿)。小田原衆所領役帳には江戸衆豹徳軒の所領として「勝之内石井村」四〇貫五〇〇文、同衆太田大膳亮の所領として「勝之内石井村半分」四〇貫五〇〇文がある。田園簿では田七五七石余・畑五〇九石余、幕府領(三代官所支配計一千四〇〇石余)・旗本神尾領(四〇〇石)・同設楽領(二七七石余)、ほかに幕府領の永二〇〇文、大知だいち(大智)寺領二〇石があった。元禄一一年(一六九八)には幕府領と旗本神尾・設楽・奥村・林・酒井領(「村明細帳」岡野家文書)。その後大部分が川越藩領となったらしく、同一五年の河越御領分明細記では同藩領分は高一千二六七石余、ほかに三八六石余とある。宝永元年(一七〇四)同藩領を離れたのち旗本中島・松平・渡辺・田中・安藤の五給を経て幕府領となり、一部が宝暦一二年(一七六二)から寛政四年(一七九二)まで三卿の清水領となったという。化政期には幕府領と川越藩領(風土記稿)。文政五年(一八二二)から幕府領分は下総古河藩領となり(「古河御家中并御加増地村高帳」比留間家文書)、同一〇年の組合村々定方につき申上書(林家文書)では古河藩領一千六六石余・川越藩領三三二石余。


石井村
いしいむら

[現在地名]石井町石井 石井

現町域の南部、気延きのべ(二一二・三メートル)北西麓の沖積平野に位置。東は白鳥しろとり村、西は城之内じようのうち村、南は入田にゆうた村、北は高川原たかがわら村。奈良時代の名方なかた郡石井郷の遺称地ともいわれる。村内を吉野川の旧流路である渡内わたうち川が東流する。東西に伊予街道が通り、一里松があった。正保四年(一六四七)の海陸道度帳によると、伊予街道上に石井池之流橋があり、長さ三間五尺余、深さ三尺余であった。「阿波志」は渡内川に渡内橋があったとする。慶長二年(一五九七)の分限帳によると古田左助・金松市郎右衛門が各二〇〇石、益田久左衛門・市原三左衛門が各一五〇石、稲田忠兵衛・平野与八郎・井関源次郎・春田九郎左衛門が各一〇〇石、津田与兵衛が八〇石、坪内久右衛門が七六石余、島新八郎・和田新右衛門・井村清左衛門が各五〇石を知行。正保国絵図では高一千四二三石余。


石井村
いしいむら

[現在地名]柳田村石井

町野まちの川中流に位置し、西は柳田村、南は笹川ささがわ村。村内には本町ほんまち寺地てらじ向地むかいじ宮下みやしたの字名があるという(鳳至郡誌)。元和八年(一六二二)の谷内村百万・麦生野小辻山論裁定状(麦生野区有文書)によれば、石井村十村瀬戸九郎左衛門などにより山出入が裁定されている。九郎左衛門は中町野なかまちの一五村の初期十村であった。正保郷帳では石井村・国光くにみつ村として高四三七石余、田方二一町七反余・畑方七町三反余、新田高八五石余。承応三年(一六五四)の村御印では高二七六石余、免四ツ三分(能登奥両郡収納帳)


石井村
いしいむら

[現在地名]今治市石井町一―四丁目・石井・鐘場かねば町一―二丁目・みなと町一丁目

今治平野の北端に位置し、東は大新田おおしんでん村・別宮べつく村・今治村、南は日吉ひよし村、北は高部たかべ村・大浜おおはま村に接する。もとは大新田村と一村であった。村の東半分は平坦な水田地帯、西半分は近見ちかみ山の山体で、山麓には多数の円墳がある。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の越智郡の項に「石井村 日損所、野山有」とみえ、村高は四〇〇石四斗一升である。寛永一四年(一六三七)の石井村検地帳によれば田畑面積は四四町二反、うち田二〇町九反、畑八町九反、山畑四反、荒畑三町。元禄六年(一六九三)の石井村田畑段寄帳では、田四一町七反、畑一四町五反で、貞享五年(一六八八)の検地帳と比較し、一四町九反余の出畝がある。


石井村
いしいむら

[現在地名]日田市石井、川下かわした 高井町たかいまち

くま町の南西方、三隈みくま川左岸に立地する。寺内てらうち村・佐古さこ村との村境は分明ではなく、複雑に入り組む(「三ヶ村絵図」長家蔵)。「和名抄」に記す日田郡石井郷の遺称地とされ、周辺に古代石井駅の所在を比定する説もある。また「宇佐大鏡」の国々散在常見名田のうち日田郡五ヵ所のうちとしてみえる石井別符を当地とする説もある。日田郡司職次第(東京大学史料編纂所謄写本)によれば、日田大蔵永俊が日田庄五ヵ郷のうち石井郷などの分譲を主張したが、却下されている。「豊西記」によれば、寛正六年(一四六五)大友親繁の三万余騎の軍勢が石井の在家ざいけ峯谷などに陣を構え、天正九年(一五八一)には筑後の文注所親則が高井岳たかいだけ城を落し石井郷に乱入したとある。


石井村
いしいむら

[現在地名]富士見村石井

一之木場いちのきば村の東に位置し、北は赤城山原野。山林が四分の三を占めていた。古来、時々干害に苦しんだが、安政年間(一八五四―六〇)前橋藩主松平氏が上西峯かみにしみね天神平てんじんだいらの両地に松苗を植えたので水利の不便は少なくなった。大胡おおご(現大胡町)への道のほか深山みやま道・前橋道・三夜沢みよさわ道・米野こめの道・田島たじま道が通り、しら川・不入ふにゆう川・こまざわ川・ぬまくぼ川などが流れる。「寛文朱印留」に村名がみえ、前橋藩領。寛文郷帳によれば田方二一五石余・畑方六八石余。


石井村
いしいむら

[現在地名]松山市東石井町ひがしいしいまち西石井町にしいしいまち

松山平野の南平坦部に位置する農村。東は星岡ほしのおか村、西は古川ふるかわ村、南は居相いあい村・越智おち村、北は浅生田あそうだ村・尼山あまやま村に接する。村の北辺を小野おの川が流れている。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)久米くめ郡の項に「石井村」とある。

古代には、久米郡石井郷(和名抄)に属し、その中枢地域であった。中世に入り承久の乱(一二二一)に、河野通信および通政・通秀らの一族が後鳥羽上皇側に応じ、山城国広瀬で幕府軍と戦った(承久記、予陽河野家譜)のに対し、庶子通久はひとり幕府に味方して宇治川の先陣に偉功をたてた(予章記、予陽河野家譜)


石井村
いしいむら

[現在地名]宇都宮市石井町・東峯町ひがしみねまち問屋町とんやまち

北は下平出しもひらいで村、東は鬼怒川、西はみね村などと接する平坦地。鬼怒川西岸段丘上には古墳や奈良期の集落跡である志峰寮東しほうりようひがし遺跡があり、古代から開けていた。応安元年(一三六八)一〇月日の南部法言軍忠状(諸家文書纂)に石井城がみえ、宇都宮氏綱の乱鎮圧のため出陣した関東公方足利金王丸(氏満)の軍に加わった法言は、九月六日同城を攻撃している。近世初期より宇都宮藩領。慶安郷帳に田方一千三七四石余・畑方五三八石余とある。


石井村
いしいむら

[現在地名]米子市石井

奥谷おくのたに村の南にあり、南を加茂かも川が北西流する。出雲国境から北へ走る丘陵麓を占める。法勝寺ほつしようじ往来がほぼ南北に走る。拝領高は四一九石余。寛永一四年(一六三七)には坂鳥役を免除された(在方御定)。元禄四年(一六九一)の年貢免状(成実公民館蔵)では朱高四五七石余、うち荒三石余、今高・毛付高はともに四五九石余(田三八七石余・畑七一石余)となっており、田の免は五ツ一分から四ツ一分の六段階。藪役銀一三匁三分を課されていた。全村が米子荒尾氏の給地であった。


石井村
いしいむら

[現在地名]兵庫区石井町一―八丁目・大同町だいどうちよう一―五丁目・菊水町きくすいちよう一―四丁目・湊川町みなとがわちよう二丁目・湊山町みなとやまちよう山王町さんのうちよう一―二丁目・都由乃町つゆのちよう一―三丁目・千鳥町ちどりちよう一―四丁目・天王町てんのうちよう一―四丁目・烏原町からすはらちよう

奥平野おくひらの村の西に接し、村南部で石井川と天王谷てんのうだに川が合流して湊川(近代以降は新湊川)となる。村域北半は山地。慶長国絵図の高一九三石余。正保郷帳も同じで、その後大きな変化はない。江戸時代を通じて幕府領。


石井村
いしいむら

[現在地名]下郷町石井

志源行しげんぎよう村の西、阿賀川の支流戸石といし川左岸の段丘上に立地。下野街道から水抜みずぬき村で分岐し、赤土あかつち峠越で高野こうや(現田島町)に通ずる道が通る。志源行村との間の戸石川には橋が架かっていた。的場まとば滝平たきだいら縄文土器が出土する遺跡がある。南山御蔵入領楢原組に属する。寛文六年(一六六六)の「会津風土記」では楢原ならはら郷のうちに村名がみえる。貞享二年(一六八五)の「楢原郷地下風俗覚書」によれば、用材の伐り出しや養蚕に従事。養蚕は繭の収穫の多い年は百姓一人につき絹を二分から一両を売った。


石井村
いしいむら

[現在地名]笠間市石井

涸沼ひぬま川右岸にあり、東は笠間城下町。弘安大田文に東郡として「石井原七丁八段」とある。応永四年(一三九七)八月日の笠間家朝訴状案(税所文書)には「欲早被退宝戒寺三聚院当知行、如元全知行、常陸国笠間郡十二ケ郷・石井郷半分事残半分者御料所」とあり、家朝は三聚院の非分の知行を退けるよう鎌倉府に訴えている。天正一八年(一五九〇)笠間氏は宇都宮氏に滅ぼされ、城を預かった家臣の玉生忠勝は文禄三年(一五九四)城下町の建設のため当村の住民を上市毛かみいちげ村に移し、おお町・高橋たかはし町をつくる。


石井村
いしいむら

[現在地名]可児市石井

可児川南岸にあり、集落は可児川に沿う。東と南は瀬田せた村。明知あけち八郷の一。元和七年(一六二一)伊香いこう村との地境につき一札(金子文書)に「いしいかた」とみえる。同元年以降尾張藩領。明暦覚書によれば概高一四五石余。人数四〇、馬六。元禄七年(一六九四)以降伏見ふしみ宿(現可児郡御嵩町)助郷高一六四石を勤める(「伏見宿・太田宿助郷帳」奥村文書)。西方伊川いかわ村との間では元和六年に可児川氾濫などによる地境出入があり、承応三年(一六五四)にも当村が伊川村地内の松を伐採し畑にかえたなど尾張藩へ訴えられている(「地境論覚」渡辺文書)


石井村
いしいむら

[現在地名]丸子町大字塩川しおがわ

依田窪よだくぼの最北、千曲川と依田川の合流点東側にある村。北国脇往還(現国道一八号)より、依田窪地方へ通ずる玄関口に位置している。東は坂井さかい村、西は依田川、南は狐塚きつねづか村、北は千曲川。

江戸時代以前は塩川郷に含まれていたが、元禄一五年(一七〇二)信濃国郷帳に「塩川石井村」とみえるから、江戸初期に塩川村から分村した。村の南方に湧水があり、石井氏の氏神が祀られていると伝える。小字井戸下はもと集落のあった場所で、石井の由来はここから出たと伝えられる(上田小県誌)


石井村
いしいむら

[現在地名]竹田市いま

菅生すごう台地東部の中央部にあり、西は宮園みやぞの村、北は楠野くすの村。正保郷帳では大戸ねぎ郷に属し、田方一〇石余・畑方四六石余。弘化物成帳では菅生組のうち、村位は下、免五ツ一分、田一八石余(一町九反余)・畑六〇石余(一二町九反余)・屋敷二石余(二反余)で、開田八斗余(四反余)・開畑二石余(四町五反余)がある。


石井村
いしいむら

[現在地名]日高町石井

頃垣ころがき村の西、稲葉いなんば川の中流域に位置する。江戸時代の領主の変遷は伊府いぶ村に同じ。寛永一六年(一六三九)の知高帳によると高三七三石。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図でも同高。但馬国両代官所支配村々高帳(出石神社蔵)では高四五六石余。


石井村
いしいむら

[現在地名]南伊豆町石井

加納かのう村の北、青野あおの川の中流域に位置する。もとは加納村に含まれていたが、延宝八年(一六八〇)に分村したという(増訂豆州志稿)。江戸時代の初めは幕府領、元禄一一年(一六九八)旗本大岡領と幕府領の相給となり幕末に至る(韮山町史)


石井村
いしいむら

[現在地名]富士市石井

鵜無淵うないがふち村の北、愛鷹あしたか山の西麓に位置する。慶長一四年(一六〇九)当時、間門まかど村など三村とともに「山家四ヶ村」として一括されていた。寛永九年(一六三二)幕府領となる。寛永改高附帳に石井村とみえ、高一石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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