日本歴史地名大系 「大椚村」の解説 大椚村おおくぬぎむら 山梨県:南巨摩郡増穂町大椚村[現在地名]増穂町大椚青柳(あおやぎ)村の北に位置し、北から西は長沢(ながさわ)村。駿州往還が通り、集落は街道沿いに形成されている。長沢村の東部から当村・青柳村にかけては、坪(つぼ)川・利根(とね)川・滝沢(たきざわ)川の合流地点であり、また当村の東は堤防を隔てて釜無川と笛吹川の合流地点に面しているため、近世には度々その氾濫の被害を受けた地域であった。村内の字は田島屋敷(たじまやしき)・熊野堂(くまんどう)・宿東(しゆくひがし)・淵端(ふちはた)・中川原(なかがわら)・下河原・外河原(そとがわら)・北(きた)・上河原・向河原(むかいがわら)と一〇に分れているが、その半分に河原という名が付けられているように、悪水抜きに苦しみ、水害との戦いのなかから村が形成されていったことがわかる。天正二〇年(一五九二)二月一四日の加藤光政身延山末寺屋敷免許状(久遠寺文書)に「大椚妙善寺」がみえ、妙善(みようぜん)寺屋敷二三〇坪の坪銭が免除されている。慶長四年(一五九九)の廊之坊諸国旦那帳(熊野那智大社文書)の甲斐国分に「大くぬきノ南泉坊」が載り、当地に熊野御師の旦那場があった。 大椚村おおくぬぎむら 山梨県:北都留郡上野原町大椚村[現在地名]上野原町大椚鶴川(つるかわ)村の西、鶴川に合流する仲間(なかま)川下流の右岸に位置する。同川を挟んで南は八ッ沢(やつさわ)村。「甲斐国志」によると、古くは鶴川村と一村であったが、寛文検地の時に分れて別村となったという。大欅とも記し、本村の西方に枝郷の日野(ひの)がある。甲州道中が横断し、村の東部には江戸から二〇里にあたる一里塚がある。また同道中の鶴川宿―野田尻(のたじり)宿間の立場もあった(宿村大概帳)。文禄―慶長期(一五九二―一六一五)のものと推定される四郡高〆控では鶴川村に含まれて高付されていたと思われる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by