妙善寺(読み)みようぜんじ

日本歴史地名大系 「妙善寺」の解説

妙善寺
みようぜんじ

[現在地名]岡山市津島本町

鷲林山と号し、日蓮宗不受不施派。本尊は十界勧請曼陀羅。寛文年間(一六六一―七三)の寺院弾圧でいったんは廃寺となった。もと奈良時代の平地伽藍であった福隆ふくりゆう寺が起源といわれる(旧版「岡山市史」)。「和気絹」によると、福隆寺は福輪寺とも称し津島つしま村のうち福井ふくい(福居)の上にあったという。また「備陽国誌」によると当寺は古くは市場いちば(津島村本村)にあって福林寺と称していたが、日蓮宗に改宗した際に現寺号に改めて津島村のうち奥坂おくさかに移されたといい、寛文の廃寺に至るまでに福井・市場・奥坂と移転したことになる。

妙善寺
みようぜんじ

[現在地名]幡豆町東幡豆 森

東幡豆ひがしはず海岸砂浜にあり、古松に囲まれている。性海山と号し、浄土宗西山深草派。本尊阿弥陀如来。天平年間(七二九―七四九)行基を開基と伝える。もと法相宗。天文年間(一五三二―五五)に利春が再興、西林寺と称した。天正一四年(一五八六)小笠原越中守の母堂心秋妙善大禅定尼の菩提のため修理、供養したという。このときの住職は源正空恵大徳であった。のち、額田ぬかた法蔵ほうぞう(現岡崎市)より教翁長安を迎え、浄土宗に改宗。

妙善寺
みようぜんじ

[現在地名]大島町大字小松

小松の浜屋敷こまつのはまやしきにある。浄土真宗本願寺派。海観山と号し、本尊阿弥陀如来。

寺伝によれば、もと真言宗光照こうしよう寺と称したという。近世初頭、芸州広島より小松村へ糸田八郎正景が移住して出家、法名を教誓といった。寛永年中(一六二四―四四)本山へ寺号を願請、同一二年に免許を受け、妙善寺と称したという。

妙善寺
みようぜんじ

[現在地名]旭川市永山四条二〇丁目

日蓮宗。真淳山と号する。本尊釈迦如来・日蓮・多宝如来。明治三二年(一八九九)裏一三丁目(現永山町一三丁目宗谷本線北側付近)の梅津妙清尼(梅津政義の叔母)発願で創立。はじめ表一二丁目(現永山一条二三丁目付近)の屯田事業場跡を使用した小さな祈祷所であった。

妙善寺
みようぜんじ

[現在地名]鳥栖市元町

もと町の台地にある。山号は宝林山、浄土真宗本願寺派。本尊は阿弥陀如来。菅原道真有縁の寺といい、寺伝に「菅原道真ノ第五子良景トイフ、族臣菅原ノ時遠之ヲ養子トス、良景ヨリ十八代目ヲ慈雲トイフ、出家シテ熊野派山伏トナル、大先達タリ、十九代ヲ慈照トイヒ廿代ヲ禅心トイフ、禅心改宗シテ真宗トナル、嘉吉壬申年也、之ヲ妙善寺開基トス」とあるが、稿本養父郡村誌」は文明一四年(一四八二)僧禅心の開基とする。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報