大河土御厨(読み)おおかわどのみくりや

日本歴史地名大系 「大河土御厨」の解説

大河土御厨
おおかわどのみくりや

伊勢神宮領で、大河戸御厨とも書く。現在の松伏まつぶし大川戸おおかわどを遺称地とし、松伏町から越谷市辺りにかけての古利根川流域一帯に比定する説があるが、「吾妻鏡」元暦元年(一一八四)正月三日条に「武蔵国崎西足立両郡内大河土御厨」とあるので、埼西きさい・足立両郡にもまたがって存在していたと考えられる。また同書建保元年(一二一三)五月一七日条にみえる「武蔵国大河戸御厨内八条郷」は現八潮市八条はちじようにあたるとして同地辺りもその範囲に含める説がある。寿永三年(一一八四)正月の源頼朝寄進状(「吾妻鏡」元暦元年正月三日条)によれば、当御厨はもとは源氏の相伝家領であったが、これまで平家押領されていた。しかし治承・寿永の乱に際し、年来の祈祷師である権禰宜度会光親神主に天下泰平祈願させたところ頼朝方の勝利に帰したので、このたび新たに長日御幣や毎年臨時祭などを勤行するために光親を給主とし、地頭などはそのままで伊勢豊受大神宮(外宮)に寄進された。

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改訂新版 世界大百科事典 「大河土御厨」の意味・わかりやすい解説

大河土(戸)御厨 (おおかわどのみくりや)

武蔵国埼玉郡南半と足立郡南東部の御厨。現在の埼玉県越谷市~三郷市付近と思われる(北葛飾郡松伏町大川戸付近も含んでいたらしい)。伊勢神宮領。1184年(寿永3)1月,源頼朝は自己の祈願と国家静謐祈禱のために,権禰宜度会光親に付し,大河土御厨を伊勢神宮に寄進した。この時の寄進状によると,この地は源家相伝の所領であったが,平家全盛のころ一時押領されていたものという。なお元来伊勢神宮領であったらしい。頼朝の寄進当時は外宮領であったが,すぐに内・外両宮共用の所領となったらしい。92年(建久3)の伊勢大神宮神領注文には,内宮に上分八丈絹40疋・御幣紙432帖,外宮に上分八丈絹30疋・長日御幣紙468帖,起請雑用に八丈絹40疋の貢納とみえる。《吾妻鏡》には同年に田代800丁余とみえるが,それは未墾地を含むもので本田は40町程度であったと思われる(ほかに新田があったらしい)。室町時代中期には伊勢神宮の手を離れたとみられる。
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百科事典マイペディア 「大河土御厨」の意味・わかりやすい解説

大河土御厨(大河戸御厨)【おおかわどのみくりや】

現在の埼玉県北葛飾郡松伏(まつぶし)町大川戸を遺称地とする伊勢神宮領の御厨。現松伏町から埼玉県越谷(こしがや)市にかけての古利根(ふるとね)川流域一帯に比定され,一部は武蔵国足立(あだち)郡にもまたがっていたと考えられる。1184年,源頼朝は新たに長日御幣や毎年臨時祭などを勤行するため,大河戸御厨を伊勢神宮に寄進した。寄進当時は外宮領であったが,まもなく内・外両宮の所領となったらしい。12世紀末には田代800余町とされるが,本田は40町ほどとみられる。その後伊勢宮神人との喧嘩給主職をめぐる争論などがあったが,14世紀半ばすぎまでは伊勢神宮領として機能していたようである。

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