大輪村(読み)おおわむら

日本歴史地名大系 「大輪村」の解説

大輪村
おおわむら

[現在地名]黒羽町大輪

南流する那珂川東岸にあり、北は高館たかたて(「たかだて」ともいう)山を隔てて川田かわだ村、南は前田まえた村。東のみねの沢より小川が南へ流れ出る。沢続きに長谷田はせだ台地があり、那須与一の乗馬鵜黒駒うぐろのこまが生れた地という駒込の池がある。南北に黒羽城下への道が通る。山が八割を占め、平地は那珂川沿いに開ける。長谷田・牛居淵ごいぶち石堀いしぼりなどの地区からなる。天正一八年(一五九〇)大関氏が豊臣秀吉から与えられた所領のうちに「大輪」四〇八石がある(「黒羽藩領知高書上」宇都宮大学附属図書館蔵)


大輪村
おおわむら

[現在地名]水海道市大輪町

鬼怒きぬ川西岸に所在。村域西部は岡田おかだ台地、東部は沖積低地。台地は築地ついじ金谷かなや満蔵みてぐらの小字からなり、上大輪かみおおわ・中大輪・下大輪の小字は鬼怒川氾濫原に位置する。北は花嶋はなしま村。戦国期に成立したと推定される覚(宗任神社蔵)に「大輪之郷 八拾貫文 御年貢銭 斗物百六拾俵」とみえる。寛永七年(一六三〇)の下総国豊田庄下大輪村御検地帳(石塚安一郎文書)に反別五五町余が帳付され、江戸初期には上大輪・下大輪はそれぞれ独立した村落であった。


大輪村
おおわむら

[現在地名]明和村大輪

利根川左岸に立地する。東は須賀すか村、西は下中森しもなかもり(現千代田町)。永仁三年(一二九五)一二月二一日の関東下知状(長楽寺文書)によれば、大輪又太郎時秀が「佐貫庄上中森郷内」の田畠を太田彦三郎貞康に売却している。天正二年(一五七四)四月一三日の上杉謙信書状(志賀槙太郎氏所蔵文書)によると、北条氏政の軍勢に囲まれた羽生はにゆう(現埼玉県羽生市)救援のため大輪に陣を張ったが、利根川が増水し、謙信は苦慮している。近世初めは館林藩領で、寛文郷帳に田方五八六石七斗余・畑方四三八石二斗余とあり、田方に「旱損」と注記される。


大輪村
おおわむら

[現在地名]鳳来町愛郷あいごう

寒狭かんさ川と当貝津とうがいつ川との合流点の南にある。

寒狭川河岸の岩上に祀られる弁財天は、長篠ながしの城主奥平貞昌が、長篠の戦で救援の使者を勤めた鳥居強右衛門の任務に対して御礼として建立したと伝える。傍らに弁財天の眷族十五童子の石仏が安置されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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