那須与一(読み)ナスノヨイチ

デジタル大辞泉 「那須与一」の意味・読み・例文・類語

なす‐の‐よいち【那須与一】

鎌倉初期の武将下野しもつけの人。名は宗高。与市余市とも。源義経に従い、文治元年(1185)屋島の戦いで、平家の扇の的を弓で射落とした話で有名生没年未詳。

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改訂新版 世界大百科事典 「那須与一」の意味・わかりやすい解説

那須与一 (なすのよいち)

鎌倉前期の武士。生没年未詳。《那須系図》によると,藤原北家の末裔須藤氏の一族。下野国那須の住人,那須太郎資隆の子。名は宗隆。《平家物語》諸本等では,この父子の名に異同が多い。元暦2年(1185)2月18日屋島合戦のおり,平家方から優美な女房を乗せ棹に扇を立てた小舟が現れて陸の源氏方へ手招きした。源義経の扇を射落とせとの命を奉じた那須与一は,目を閉じて八幡大菩薩や下野国に鎮座する日光権現などの神々に祈念し,射損じたときは自害する覚悟を決める。与一が目を開くと,激しく吹いていた北風も少し弱まり,鏑矢(かぶらや)を射ると扇の要(かなめ)の際から1寸ほどのところに命中した。敵味方を問わず,これを見ていた人々は,与一の妙技を賞賛した。《平家物語》のこの挿話によって,那須与一はその名を後世に残したのである。この話は幸若舞曲や浄瑠璃に脚色され,また能の廃曲《延年那須与一》は寺院芸能である延年の風流(ふりゆう)でも演じられていたことを推測させる。伏見宮貞成親王の《看聞日記》や《桂川地蔵記》(1558写)には,この場面の作り物の例が見られ,広く親しまれた題材であったことがわかる。
執筆者: 平曲の《那須与一》は〈那須与市〉とも書き,平物(ひらもの),拾イ物。平曲の中でもっとも有名な曲で,昔も今も演奏の回数が多い。能《八島》のアイの〈那須与一之語〉〈那須之語〉などの原拠。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「那須与一」の意味・わかりやすい解説

那須与一
なすのよいち

平曲の曲名。叙事的な拾物 (ひろいもの) の代表曲。源平屋島の合戦のとき,海上の平家側は竿の先に扇を立てて源氏側に射落せるかと挑発するが,選ばれた若武者那須与一宗高がこれをみごとに射落したという話に基づく。歌詞,曲ともにすぐれた名曲。矢を射る直前を「下音」,「上音」と勇壮な拾物の曲節で語り,扇が舞落ちるところで高音域の「走三重」が用いられ聞きどころとなっている。同主題の曲として,薩摩琵琶に同名の曲があるほか,筑前琵琶にも今村園外作曲『扇の的』 (4弦) ,飯田胡春作曲『扇の的』 (5弦) ,1世橘旭翁作曲『那須与一』などがある。

那須与一
なすのよいち

鎌倉時代初期の武士。下野国那須の鎌倉御家人。太郎資高の子。名,宗高。源平合戦(→治承の内乱)の際,源義経の軍に従い,元暦2(1185)年2月讃岐屋島の戦いで海上に舟を浮かべた平家の軍勢が,小舟の竿に旭日の扇を掲げて漕ぎ出したのを見て,義経の命令でこれを射落とした話は有名。その功により,丹波,信濃,若狭,備中,武蔵各国に恩賞地を与えられ,那須氏の総領となったが,のち出家して,京都伏見即成院に入ったといわれている。

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朝日日本歴史人物事典 「那須与一」の解説

那須与一

生年:生没年不詳
鎌倉前期の武士。実名は宗高(宗隆)。下野国那須荘を所領とした資隆(資高)の11男とされ,余一とも書く。弓矢にすぐれ,文治1(1185)年の屋島合戦の際,海上に浮かぶ平家の船に立てられた扇の的を馬上から一矢で射とめて敵味方から喝采をあびた話は『平家物語』の名場面として有名。この話は幸若舞曲や浄瑠璃に脚色されて与一の名は広く人々に親しまれた。しかし,『吾妻鏡』はもとより,確実な史料にその名はみえず,伝説上の人物としての側面が強い。<参考文献>大野信一『那須与一』

(野口実)

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百科事典マイペディア 「那須与一」の意味・わかりやすい解説

那須与一【なすのよいち】

鎌倉初期の武将。下野(しもつけ)那須の人。生没年不詳。名は宗高。資高(すけたか)の子。源平合戦の際源義経に属し,1185年屋島の戦に平家方が舟にかかげた扇の的を射落として敵味方の称賛を得た話は有名。
→関連項目笠懸

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「那須与一」の解説

那須与一 なすの-よいち

?-? 平安後期-鎌倉時代の武士。
下野(しもつけ)(栃木県)那須荘を領した那須資隆(高)の子。弓の名手。「平家物語」によれば,元暦(げんりゃく)2年(1185)の源平屋島の戦いで平家方の船上にたてられた扇の的を馬上から射おとし,敵味方から賞賛された。能や歌舞伎でも知られるが,実像はあきらかではない。名は宗隆(高)。通称は余一,与市,余市ともかく。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「那須与一」の解説

那須与一
なすのよいち

余一とも。生没年不詳。鎌倉前期の武士。下野国那須郡の住人。父は藤姓資隆。実名は宗隆(宗高)。「平家物語」によると,1185年(文治元)屋島の戦に源義経指揮下で参戦し,平氏方の船に掲げられた扇の的を一矢で射落とし,両軍の喝采を浴びたという。このほかには確かな史料上の所見もなく,実像は不明。幸若舞曲・浄瑠璃・能「八島」など後世の芸能にとりいれられ広く親しまれた。

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