太田城跡(読み)おおたじようあと

日本歴史地名大系 「太田城跡」の解説

太田城跡
おおたじようあと

[現在地名]和歌山市太田 北太田

城跡を含む一帯は小名城跡じようせきといい(和歌山史要)太田おおだ北部の来迎らいこう寺境内が本丸跡と伝える。また橋向はしむかい町にある大立だいりゆう寺の門は太田城大門の遺構といわれる(紀州今昔)。天正一三年(一五八五)豊臣秀吉の紀州攻めの時、水攻めで落城した。太田北部に水攻めの際の出水切戸口でみずきれどぐち堤防跡が残り、根敷二〇間・長さ五〇間・高さ四間で、土質は砂質壌土。第二次世界大戦以前は中黒田なかくろだ堤防跡・吉田よしだ堤防跡・秋月あきづき堤防跡も残っていたが(同書)、今はその跡をうかがえない。「続風土記」は太田村の項で「今の村居、大体旧の城地なり、艮の方に大手門の址あり」と記す。「紀州御発向記」は天正一三年の紀州攻めを「紀伊国雑賀御征伐」と記しており、太田城水攻めは雑賀一揆の弾圧を目的としたものであった。雑賀一揆すなわち雑賀衆は、一向宗の門徒で結成された、現和歌山市域を中心とした在地の集団である。本願寺証如の「天文日記」の、天文五年(一五三六)閏一〇月一八日条に「麻生与一自紀州丹下方帰候、未一途返事候、惣国以談合涯分可馳走之由候、是ハ筑前兄弟成敗之儀也」とあり、細川晴元と対陣している本願寺は雑賀衆に援軍を要請したが、それに対し、「惣国」で談合をもって協力すると述べている。この「惣国」については種種の説があるが、弘治三年(一五五七)四月一九日の岩橋庄神主等連署証文案(和佐家文書)によると、和佐わさ庄と岩橋いわせ庄の紛争を根来ねごろ(現那賀郡岩出町)の泉識房と「惣国」が調停しているが、「惣国」は湊氏・雑賀氏・岡氏らの雑賀さいか衆をさし、この場合の「惣国」とは基本的には雑賀衆のことと考えられる。


太田城跡
おおたじようあと

[現在地名]常陸太田市中城町一帯

常陸太田市の中心街中城なかじよう町一帯にあった平山城。ここは久慈川と里川の流域に広がる水田地帯に北から突出した馬の背のような丘陵で、標高三五メートル。本丸は中城町、二の丸は内堀うちぼり町、三の丸と北郭はさかえ町にあったが、明治初年に民間に払下げられ、遺構の堀と塁はほとんど壊滅した。舞鶴まいづる城とも称した。

「水府志料」の太田村の項に「古城 伝説に、坂上田村丸関東の賊を討する時築と。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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