日本大百科全書(ニッポニカ) 「太田荘」の意味・わかりやすい解説
太田荘
おおたのしょう
現在の長野市豊野(とよの)町のあたりを中心に、善光寺平(ぜんこうじだいら)北東部の低平な丘陵先端に位置した摂関家の荘園。田数340余町という大荘で、惣政所(そうまんどころ)のあった神代(かじろ)郷や津野、大倉、石村などの諸郷からなる。院政期の年貢は極上の麻布で、預所(あずかりどころ)から御倉町(おくらまち)別当を通じて京上され、宇治殿忠実(ただざね)の御覧を経て収納された。鎌倉期には島津忠久(ただひさ)や金沢実時(かねさわさねとき)が郷地頭となり、領家年貢は地頭請で代銭納され、島津氏の地頭得分は代官により薩摩(さつま)国元まで送進された。なお実時の地頭職はその後金沢称名寺に寄進され、南北朝期には島津氏の侵食にあい、また領家職は山城(やましろ)国東福寺海蔵院に寄進され、室町期には守護請となった。この間、在地では千曲(ちくま)川流域の自然堤防上の諸郷が開発され、薩摩島津氏から分立した信濃(しなの)島津氏の在地支配が進み、荘園組織は有名無実化した。
[井原今朝男]