称名寺(読み)しょうみょうじ

精選版 日本国語大辞典 「称名寺」の意味・読み・例文・類語

しょうみょう‐じ ショウミャウ‥【称名寺】

横浜市金沢区金沢町にある真言律宗別格本山。山号は金沢山。文応元年(一二六〇北条実時が母の菩提(ぼだい)をとむらうため創建した念仏堂を、文永四年(一二六七)妙性房審海を開山に迎えて寺としたと伝えられる。境内に北条実時が創始した金沢文庫があった。

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デジタル大辞泉 「称名寺」の意味・読み・例文・類語

しょうみょう‐じ〔シヨウミヤウ‐〕【称名寺】

横浜市金沢区にある真言律宗の寺。山号は金沢山。文応元年(1260)北条実時が母の菩提を弔うために建立した持仏堂に始まり、文永4年(1267)審海を開山として招いて真言律宗とした。実時は境内に金沢文庫を設立、関東地方の南都仏教の拠点として栄えた。

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日本歴史地名大系 「称名寺」の解説

称名寺
しようみようじ

[現在地名]金沢区金沢町

金沢町東端、金沢街区を南方眼下に見はるかし、浅間せんげん山を背にする。金沢山と号し、真言律宗、別格本山。本尊木造弥勒菩薩立像。かつては奈良西大さいだい寺末。

鎌倉幕府の引付衆・評定衆・越訴奉行を歴任した北条実時が、文応元年(一二六〇)亡母の七周忌にあたり金沢の別業内に営んだ持仏堂が、その起源と推定される。弘長二年(一二六二)実時の再三の要請により鎌倉に下向した西大寺叡尊の「関東往還記」には「称名寺」の名がすでに記されている。当初は念仏宗で、本尊は木造阿弥陀三尊(金沢文庫保管)であったが、叡尊に深く帰依した実時は、文永四年(一二六七)称名寺を真言律宗に改め、下野国薬師やくし寺の妙性房審海を開山とした。審海入寺は忍性の再三にわたる説得によるものという(年未詳「審海書状断簡」県史一)。審海は弘安七年(一二八四)二月に五〇条の称名寺規式・沙弥規式(県史二)を制定して、称名寺僧団形成の基盤をつくった。実時は父実泰の七回忌にあたる文永六年梵鐘を鋳造し、実時の子顕時は同年一一月三日、寺内外の敷地を寄進した(「金沢顕時寺領寄進状案」同書)。建治二年(一二七六)三月には木造弥勒菩薩立像が造立され、この段階でほぼ称名寺の基礎が固められた。

さらに顕時の子貞顕は明忍房剣阿とともに伽藍の再造営にかかり、寺の拡充・発展に尽力した。工事の始まった文保元年(一三一七)六月の称名寺釘日記・同釘注文・同仏殿檜皮注文・同仏殿修理注文(県史二)などにその規模の大きさが推察される。資材は遠くは紀州熊野くまのからも野島のじま浦に陸揚げされたが、貞顕は書状(同書)に「此檜皮自熊野到来之由ハ、不可有御披露候」と記している。元亨三年(一三二三)二月二四日付の裏書のある称名寺結界図(金沢文庫保管)によると、中央に庭石や築山をめぐらした阿字池を囲み、講堂・金堂・楼門・方丈・庫院・浴室・倉庫・護摩堂・経蔵・僧房・三重塔など、七堂伽藍を備えた壮麗な構えである。

称名寺
しようみようじ

[現在地名]美山町折立

折立おりたての北部、足羽あすわ川西岸沿いの道に面する。真宗高田派。折立山と号し、本尊阿弥陀如来。開基を「帰鴈記」や「越藩拾遺録」は佐々木四郎高綱、「朝倉始末記」は高綱の子孫時高、「越前国名蹟考」は佐々木三郎盛綱の子三郎光綱としており、諸書一定しないが、いずれも佐々木氏を祖とすること、法名が法善坊光実であることは一致する。寺伝では佐々木盛綱を開基とし、盛綱が坂北さかきた木部きべ荘、次いで吉田よしだ岡保おかぼ西谷にしたに(現福井市)を経て(「越前国名蹟考」は足羽郡東郷荘で顕智の教化を受けたとする)、折立に一宇を建てたというが、おそらく高田専修たかだせんじゆ寺三世顕智の北陸教化の際と考えられ、一三世紀末から一四世紀初頭にかけて太子堂を中心に創建されたと考えられる。

称名寺
しようみようじ

[現在地名]函館市船見町

函館山北西山麓に位置する浄土宗寺院。市内の三大寺院の一寺で、西は高龍こうりゆう寺、南は実行じつぎよう寺。護念山と号し、本尊阿弥陀如来。宝暦一一年(一七六一)の「御巡見使応答申合書」によると五念山と号し、松前光善こうぜん寺の末寺。正保元年(一六四四)の草創。「福山秘府」は同年建立後元禄三年(一六九〇)亀田かめだ村から箱館に移ったとする。「渡島国地誌提要」によれば名蓮社称誉が宝永三年(一七〇六)に建立。「北海道志」巻一〇は正保元年順説が亀田村に創立、宝永三年のちの富岡とみおか町に移転したとする。また正保元年伊勢国出身の円龍が阿弥陀如来の木像を捧持し、亀田村に一宇を建立し、阿弥陀庵と称したのに始まり、明暦元年(一六五五)五念山阿弥陀堂と改称し、元禄三年さらに護念山称名寺と改称。

称名寺
しようみようじ

[現在地名]浅井町尊勝寺

単立で、本尊は阿弥陀如来。湖北十ヵ寺の一つで、津布良山と号する。「諸家分脈系図」によれば、もとは天台宗で、美濃国安八あんぱち津布良つぶら荘奥村(現岐阜県大垣市か)に寺基を置いたが、文明一三年(一四八一)に教円が本願寺蓮如に帰依し真宗に改め、天正年間(一五七三―九二)四代性宗のとき近江に移ったという。寺伝によれば、教円は美濃土岐氏の系譜を引くとされる。本願寺の東西分立に際しては西本願寺に属したが、六代性順が寛文三年(一六六三)東本願寺に改派した(前掲系図)。三郡寺院鑑(長浜授法寺蔵)によれば、延徳年間(一四八九―九二)に実如より下付された絵像の裏書に「濃州安八郡津浦庄奥村称名寺」とあるのをはじめ、天文六年(一五三七)の実如絵像、文禄三年(一五九四)の顕如絵像、寛文三年東本願寺琢如下付の宣如絵像のいずれの裏書にも同地にあったことが示されているというが、天文二二年一〇月二四日の浅井久政禁制(称名寺文書、以下断りない場合は同文書)に「尊勝寺称名寺」と肩書されていることや、「天文日記」に「北郡称名寺」とみえることから、証如期には近江に移っていたと考えられる。

称名寺
しようみようじ

大正一四年(一九二五)に現東区馬出まいだし四丁目に移転するまで片土居かたどい町にあった寺。金波山西岸せいがん院と号する時宗寺院で、本尊は安阿弥の作という阿弥陀如来。元応二年(一三二〇)博多の称阿・名阿父子が寺を建立し、乗阿を開山とした。寺名は開基の父子の名を一字ずつ取った。所在地名から土居どい道場ともよばれたという(「続風土記」など)。当寺は葦屋あしや(現芦屋町)金台こんだい寺とともに九州における時宗寺院の拠点であった。「金台寺過去帳」にみえる「博多 是一房」は当寺関係者の可能性がある。また藤沢ふじさわ(現神奈川県藤沢市)清浄光しようじようこう(遊行寺)の「時衆過去帳」にも博多の時衆が多数散見され、大乗だいじよう寺跡に所在する康永四年(一三四五)六月二四日の地蔵菩薩像板碑(九州の石塔)の銘文中に阿弥号を名乗る者がみえる。

称名寺
しようみようじ

[現在地名]結城市結城 浦町

新居山と号し浄土真宗本願寺派。本尊阿弥陀如来。寺伝によれば建保四年(一二一六)結城朝光を開基檀越、真仏を開山として開創された。ほとんどの系図・過去帳で朝光の法名を称名寺殿日阿弥陀仏としているから、当寺が菩提寺であったことは確かであろう。古くは下野荒井村にあったが、応永二年(一三九五)に結城の西宮にしのみやに移建され、晴朝の代まで馬上三騎の軍役を義務付けられたという。一六世紀末頃に成立した高田専修寺留書(本願寺文書)によれば、称名寺一七世とされる信性(別名真性。一六世紀初め頃の住持)は、大念仏宗徒から本願寺に帰属しているので、称名寺ももとは大念仏宗とみられ、真宗寺院として再出発したのは、この頃のことと考えてよく、結城氏の発展期と合致する。

称名寺
しようみようじ

[現在地名]碧南市築山町

大浜おおはま村の南に位置し、西は衣浦きぬうら湾に臨む。東照山と号し、時宗の遊行道場として知られる。本尊阿弥陀如来。相州藤沢の清浄光しようじようこう寺の末寺。消えた地名の「しよう名寺下」「ふろの下」は寺域の広さを物語る。もと天台宗であったが、暦応二年(一三三九)和田親平が声阿弥を開山として伽藍堂塔を建立、時宗に転じた。当寺の棟札(岩瀬文庫蔵)によれば、

<資料は省略されています>

とある。

称名寺
しようみようじ

[現在地名]奈良市菖蒲池町

菖蒲池しようぶいけ町の北側にある。日輪山と号し、西山浄土宗。本尊は阿弥陀如来。寺伝によれば文永二年(一二六五)に興福寺の学僧専英・琳英兄弟が山城国三鈷さんご(現京都市西京区)の澄忍について念仏門の修行に励み、常行念仏の道場として創建したという。また興北寺とも称し興福寺別院となって四宗(浄土・法相・天台・律)兼学であったという。「経覚私要鈔」康正二年(一四五六)二月二四日条に北御門きたみかど(現奈良市)に山城勢が討入ったので、称名寺以下が早鐘をつき、奈良中騒動であったと記す。

称名寺
しようみようじ

[現在地名]黒部市荻生

国道八号と北陸自動車道黒部インターチェンジとの間に位置し、浄土真宗本願寺派、含暉山と号し、本尊阿弥陀如来。貞享二年寺社由緒書上には「当寺開闢者、明徳元年(寂)照与申坊主建立仕、至当歳弐百拾六年罷成申候、居屋敷地子地居住仕申候」とある。寺院明細帳(寺蔵)には、明徳元年(一三九〇)下総国結城ゆうき郡結城(現茨城県結城市)の称名寺の次男寂照が越中に来て、道下どうげ(現朝日町)に道場を創建。

称名寺
しようみようじ

[現在地名]加賀市深田町

深田ふかた町の集落北部にある。慈光山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。応永一四年(一四〇七)の越前超勝ちようしよう寺創立に際し加賀の本願寺派寺院は超勝寺与力とされたが、往古より直参のため例外扱いとなった四ヵ寺の一つに「黒崎称名寺」(反古裏書)があり、これを当寺に比定する説がある(加賀市史)。「天保由緒書」に文明三年(一四七一)深谷村館野(大幸)正信の五代の孫正住が吉崎よしさき(現福井県金津町)滞在中の蓮如に帰依して法名を覚善と号し、深谷に寺院を創建したとあり、覚善を開基とする。

称名寺
しようみようじ

[現在地名]久御山町佐古

佐古さこの中央部にあり、若宮八幡宮に東接する。護念山と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。安永三年(一七七四)の称名寺縁起(吉岡家蔵)によれば、天文三年(一五三四)西誉直往大徳の開基という。西誉は越前福井の人。修行中日野ひの(現京都市伏見区)の平山という家に一宿したところ、当主より先祖が建暦(一二一一―一三)の頃、鴨長明から譲られたという行基自作の像をもらい受けた。

称名寺
しようみようじ

[現在地名]三国町黒目

黒目くろめから少し東に離れた砂丘下にある。御家人佐々木三郎盛綱(もしくはその息男盛則、法名光実)を開祖とするため盛綱山と号する。真宗高田派。本尊阿弥陀如来。折立おりたて(現福井県美山町)の称名寺より分立した寺で、南称名寺とよばれていたが(専修寺文書)、室町時代末期に米納津よのづ村、さらに黒目村に移ったという。初め黒目村の海岸寄りに建立されたが、風砂の害が多いため、近世初期に現在地に移った。宝幢ほうとう寺・瑞光ずいこう寺の二寺家があった。天正三年(一五七五)八月、一向一揆平定を目指して織田信長が越前に侵攻した際、敗れた一揆の惣大将下間筑後法橋頼照は加賀に逃れようとして下野しもの(現三国町)で称名寺門徒に討取られた。

称名寺
しようみようじ

[現在地名]伊予市上吾川

伊予市内のこずえ川を二・五キロさかのぼり、上吾川十合かみあがわとこの入口より右に約半キロ、急坂を登った小高い丘上にある。境内よりの眺望がよい。臨光山遍照院称名寺と称し、真言宗智山派、本尊は阿弥陀如来。

開山は嘉祥三年(八五〇)と伝える。当初は吾川郷松本まつもとにあったが、のち現在地に移されたという。中世期には伊予郡を代表する大寺院で、多くの文書を残している。伊予岡いよおか八幡神社の別当寺であったため、同神社の弘安一〇年(一二八七)一月一一日付の置文、永仁五年(一二九七)一一月付の置文がある。

称名寺
しようみようじ

[現在地名]鎌倉市今泉四丁目

砂押すなおし川上流、たきいりにある。浄土宗。今泉山一心院と号する。本尊阿弥陀三尊。開山は弘法大師と伝える。もと江戸芝増上寺末。

境内奥の石段を登った所に今泉いまいずみ不動として知られる不動堂があり、当寺は今泉不動の別当寺であった。「鎌倉志」によれば、古くは密宗、中古以来は八宗兼学で、今泉山円宗えんそう寺と称したという。「風土記稿」は不動堂・別当寺とも荒廃し、貞享元年(一六八四)入寺の単蓮社直誉蓮入が再興、元禄六年(一六九三)増上寺末寺となり今の山寺号に改めたという。

称名寺
しようみようじ

[現在地名]泊村泊

泊の東方、甲亀こうき山に続くまる山山麓にある。地蔵山と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。「蓮門精舎旧詞」によれば、室町時代地蔵菩薩が流れ着き、安置する堂を建立したのに始まり、開山は心宗と伝える。また寺伝によれば阿弥陀如来像は恵心の作といわれ、河口かわぐち城主が城内に本尊として祀っていたものといい、打吹うつぶき(現倉吉市)城主山名氏豊の家臣賀藤久正が、のち当地に堂を建立して阿弥陀像を移し、称名寺と号したという。

称名寺
しようみようじ

[現在地名]有田市辻堂

辻堂つじどう中筋なかすじにある。護念山功徳院と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。「続風土記」は永和元年(一三七五)の建立と伝えると記す。貴志行兼が建武五年(一三三八)足利尊氏によって保田やすだ荘地頭職に補任され、保田城(現有田市)に入った時からの菩提所であり、荘中の本寺と伝えられるという(同書)。文化一〇年(一八一三)上棟の本堂棟札に「猶又保田之城主貴志氏二十三代貴志五郎左衛門宗在帰依にて元和三丁巳年三月二日行誉相頓和尚再興上棟致者也」とあり、元和三年(一六一七)に再興されたようである。

称名寺
しようみようじ

[現在地名]藤崎町藤崎

集落南西の四本松しほんまつにあり、裏を岩木川が流れる。八幡山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。もと弘前専徳せんとく寺末。

浄土真宗一派縁起(市立弘前図書館蔵)に「専徳寺藤崎村之念仏道場 延宝三乙卯 道誓」とあり、道誓を開山とする。

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改訂新版 世界大百科事典 「称名寺」の意味・わかりやすい解説

称名寺 (しょうみょうじ)

神奈川県横浜市金沢区にある真言律宗の寺。山号は金沢山。1260年(文応1)金沢(かねさわ)(北条)実時が建立。当初は母の菩提を弔うための念仏系の寺であったという。奈良西大寺叡尊の《関東往還記(かんとうおうげんき)》によって,62年(弘長2)にはすでに称名寺の寺名が存在したことを知ることができる。この年,叡尊は実時の招きで鎌倉に下向しているが,念仏を停止して称名寺を住所にあてたいという実時の申出を叡尊は拒否している(同書)。前執権北条時頼や実時たちは,真言律宗の開祖である叡尊の普及する戒律によって,混乱していた当時の鎌倉の宗教界を鎮めようとしたものである。ここにおいて実時は称名寺を真言律宗に改め,西大寺末の律院とし,67年(文永4)には妙性房審海を迎えて開山第1世とした。以後,称名寺は実時およびその子孫(金沢氏)の保護下に発展し,第15代執権の貞顕(実時の孫)の代に最盛期を迎えた。この時期の称名寺の姿は,1323年(元亨3)の裏書のある《称名寺結界図》(重要文化財)に描かれている。同図によれば,当時鎌倉地方で盛んであった禅宗風の伽藍配置ではなく,池を中心とした京都風,王朝風の寺院形式であった。第2世明忍房剣阿,第3世本如房湛睿は著名な学僧で,称名寺は関東における真言律宗の一大根拠地として教学面でも大いに振るった。また称名寺は,奈良地方の仏教の影響を受けて,弥勒信仰をその特色としていた。室町時代から戦国時代にかけては,足利氏の保護を受けたりもしたが,他の鎌倉地方の寺々と同様,しだいに衰退の方向をたどった。

 現在,木造釈迦如来像(重要文化財)などの彫刻,北条実時像などの20点近い中世肖像画,十二神将像(重要文化財)などの多数の仏画,1万3000点を超える和漢の書,4000通余の古文書を所蔵する。そのほとんどは昭和の初めに境内に建てられた神奈川県立金沢文庫が保管している。中世の金沢文庫は,実時またはその子の顕時によって作られ,一種の図書館として,また〈武州金沢之学校〉などといわれて教育機関としても著名であった。鎌倉幕府滅亡とともに衰え,建物は室町時代初期ごろには滅んでおり,多数の蔵書もかなり散失した。なお,金沢八景の一つに〈称名晩鐘(しようみようのばんしよう)〉があるが,これは1301年(正安3)鋳造の総高128.5cmの鐘(重要文化財)をはるかに望む景色が主題であり,安藤広重の版画で知られている。
金沢文庫
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百科事典マイペディア 「称名寺」の意味・わかりやすい解説

称名寺【しょうみょうじ】

神奈川県横浜市金沢区金沢町にある真言律宗の寺。本尊弥勒菩薩。1260年北条義時の孫の金沢実時の創建にかかる。北条氏の菩提寺で,隣に金沢文庫がある。釈迦如来像,十二神将像,称名寺絵図などの重要文化財がある。
→関連項目太田荘金沢貞顕下河辺荘浄土庭園横浜[市]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「称名寺」の解説

称名寺
しょうみょうじ

横浜市金沢区にある真言律宗の寺。1260年(文応元)頃北条実時が,母の菩提を弔うため六浦(むつら)荘内にたてた念仏の寺を,67年(文永4)に妙性房審海(しんかい)を開山に迎えて律寺に改めた。2世剣阿(けんあ)・3世湛睿(たんえい)は優れた学僧である。六浦は朝比奈切通しを通じて鎌倉とつながり,和賀江津(わかえのつ)と並ぶ鎌倉の外港で,称名寺は六浦津を管理し,関銭を徴収していたようである。和賀江津に関して極楽寺が同じ立場にあったことから,忍性(にんしょう)を中心とする律僧は北条氏と結んで鎌倉の海上貿易を押えていたといえる。境内には金沢文庫があり,1323年(元亨3)の「結界絵図」(重文)や紙背文書を中心とする金沢文庫古文書,石造の五輪塔などの多くの文化財がある。苑池を中心とした境内は国史跡。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「称名寺」の意味・わかりやすい解説

称名寺
しょうみょうじ

神奈川県横浜市金沢区にある真言律宗の寺。山号は金沢山弥勒院。文永6 (1269) 年北条 (金沢) 実時が建立し,亀山天皇の勅願所となった。境内に金沢文庫があり,国宝指定の『文選集注』をはじめ,蔵書数約2万冊を数える。

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旺文社日本史事典 三訂版 「称名寺」の解説

称名寺
しょうみょうじ

横浜市金沢区金沢町にある真言律宗の寺院
1260年ころ北条実時 (さねとき) が武蔵国金沢の別荘に建てた持仏堂を,'67年寺院としたもの。境内の金沢文庫が有名。

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事典・日本の観光資源 「称名寺」の解説

称名寺

(神奈川県横浜市金沢区)
かながわの花の名所100選」指定の観光名所。

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デジタル大辞泉プラス 「称名寺」の解説

称名寺

神奈川県横浜市金沢区にある寺院。真言律宗。山号は金沢山。13世紀創建。金沢北条氏の菩提寺。境内にある金沢文庫が有名。

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世界大百科事典(旧版)内の称名寺の言及

【金沢実時】より

…その書写校合,収集したたくさんの和漢の書物は金沢に引退したおり鎌倉から移され,金沢文庫の基をつくった。また金沢の居館に隣接した東谷に阿弥陀堂を建立して父母の菩提を祈ったが,のち西大寺の叡尊に帰依して67年(文永4)これを律院称名寺と改め,発展させた。現在の称名寺の本尊弥勒菩薩立像(建治2年銘,重文)は実時の発願により造立されたものであろう。…

※「称名寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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