東山連峰
〈京都・山城寺院神社大事典〉
根本檀越は九条道家、開基は聖一国師円爾弁円。「東福紀年録」によると、嘉禎二年(一二三六)四月、前関白道家は瑞夢によって建寺度僧の志を発し、一千四〇〇言に及ぶ発願文を作成、延応元年(一二三九)一月、越中国
東福寺草創の趣意を建長二年一一月日の九条道家惣処分状(九条家文書)にみると、最澄の素願として「戒定恵の三門を受学せしめるべく、大小の顕密戒律をもつて惣体となし、真言止観の宗門をもつて専修となす」と述べる。また禅門・天台・真言の三法を兼ねるのを目途とし、円爾弁円を迎え中国宋朝の風儀に依拠することを定めている。東福寺は七堂伽藍を完備して禅宗寺院の体裁をととのえながら真言八祖像や、天台六祖像を掲げ、また道家の子息で天台座主を務めた慈源が検校になるなど、禅・密二業を兼修した。弘安三年(一二八〇)一〇月一七日、円爾弁円は東福寺内普門院で没(常楽院に没すとの伝あり、その地は普門院に同じ)、遺偈は東福寺に伝わる。応長元年(一三一一)わが国国師号初例の聖一国師号を賜った(元亨釈書)。優れた門弟も多く聖一派・東福寺派とよばれる。
東福寺は建立以後度々罹災しその都度修復、再建されている。おもなものをあげると、元応元年(一三一九)二月七日に罹災(武家年代記)、建武元年(一三三四)一月四日再び火災(皇代略記)、同三年八月二四日にも兵火にかかっている(皇年代私記)。
浜名川の北、
天台宗、瑠璃山薬王院と号し、本尊は薬師如来。寺伝によれば観応二年(一三五一)の創建で比叡山宝幢院主東範が関東下向の際に本尊薬師如来を奉持し、現在地に草庵を営み薬王山と称したという。元禄五年(一六九二)に典信が中興開基となり、寺号を東福寺とした。同一二年に徳川光圀が領内巡検の折、仏具・寺用具などを寄進し、翌一三年八月から常行会ならびに新市を取立て、新市を開くため表通りは幅七間半に広げられたと伝える。常行会期間の新市は
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
京都市東山区にある臨済宗東福寺派の本山。山号は恵日山(えにちさん)。開基は九条道家,開山は円爾弁円(えんにべんえん)(聖一(しよういち)国師)。京都五山の一つ。1236年(嘉禎2)関白九条道家は法性(ほつしよう)寺の近隣,月輪(つきのわ)の山荘に一寺の建立を発願し,39年(延応1)には仏殿建立に着手した。道家はこの寺を東大寺と興福寺に擬し,両寺から1字ずつをとって東福寺と命名した。そのころ,入宋(につそう)して径山(きんざん)の無準師範(ぶしゆんしばん)に参じ,その法を継いで帰国した弁円は,筑前で臨済禅を挙揚(こよう)していたが,道家は彼の名声を聞き,43年(寛元1)筑前崇福(そうふく)寺より招いて開山に請じた。ただし,弁円は入宋前,台密を学んで葉上流を相承していたから,彼の説く禅は禅教兼修であった。
1255年(建長7),発願以来20年を経てようやく落慶開堂が行われたが,諸堂が完成したのは71年(文永8)のことであった。道家はすでに没していたが,この寺の建立は藤原氏の総力をあげての事業であった。創建の当初から,禅寺の七堂伽藍といわれる仏殿,法堂(はつとう),三門,僧堂,庫裏,浴室,東司(とうす)などが整備され,僧団組織も中国の叢林にならって,六知事六頭首(ちようす)の役位が定められるなど,一応禅寺の体裁が整っていた。しかし他方では,東西の回廊に真言八祖や天台六祖の画像をかかげ,灌頂堂にも金剛胎蔵の両界曼荼羅や真言八祖の画像をかかげ,阿弥陀堂には天台の供僧(くそう)を配するなど,密教的色彩も濃く,いわゆる台密禅三教兼修の道場であった。そのうえ,弁円以後の住持は聖一門派が一流相承する徒弟院(つちえん)の制を固く守り,渡来禅僧を住持に迎えることがなかったので,禅教兼修の風はかなりのちまで維持された。しかし,このような排他的住持制は,武家の圧迫するところとなり,幕府によってしばしば五山から除外されそうになったが,1386年(元中3・至徳3)ようやく五山第4位に定着した。
当寺は他の五山のように全山炎上といった災厄に遭遇することなく,大伽藍の形態が明治初年まで維持されたので,〈東福寺の伽藍面(がらんづら)〉と呼ばれた。しかし,1881年の火災によって仏殿,法堂,方丈などの大建築物を焼失し,わずかに開山堂,三門,禅堂,東司,経蔵などが難を免れた。1934年に至って仏殿が再建されてようやく旧観に復した。盛時には塔頭(たつちゆう)・子院53を数えたが,現在は二十数院と末寺約350ヵ寺を擁している。方丈から開山堂に至る間の渓谷に架かる通天橋(つうてんきよう)は,初め春屋妙葩(しゆんおくみようは)の架橋になるといわれ,楓樹の名所となっている。
執筆者:藤岡 大拙
三門(国宝,室町時代)は五間三戸重層の建築で,上層は仏堂となって釈迦三尊,十六羅漢を安置する。建築手法は禅宗特有の禅宗様とならんで,組物の挿肘木(さしひじき)などに東大寺鎌倉再建時に用いられた大仏様(天竺様)が採用されている。禅宗(唐(から))様が成立していた室町期に,この三門が純粋の禅宗様によらなかった理由は,創建時に新大仏と呼ばれた当寺が,建築様式においても東大寺鎌倉再建の大仏様を模範にし,さらに再建時にもそれが踏襲されたことによると考えられ,日本建築史上に異彩を放つ。ほかに坐禅をする禅堂(重要文化財,室町時代),禅宗寺院の便所である東司(重要文化財,室町時代),浴室(重要文化財,1459)などがあり,ともに中世にさかのぼる遺構がそろっている点では禅宗寺院として唯一の例である。
寺宝には開山弁円の将来品が多く,絹本著色《無準師範像》(国宝,南宋時代)は弁円の師の肖像画で,日本の頂相(ちんそう)に大きな影響を与え,ほかに書籍では宋版《太平御覧(たいへいぎよらん)》,宋刊本《義楚》6帖,《無準師範墨蹟》《禅院額字・牌字》が国宝。また伝雪舟筆《東福寺伽藍図》(重要文化財)は室町時代の東福寺を示す史料として貴重。塔頭の一つ,竜吟庵方丈(国宝,1387)は現存最古の塔頭方丈。広縁に蔀戸(しとみど)を用いて寝殿造風とし,中央の部屋の奥が板壁となって他の方丈のような仏壇にならない点などが,方丈建築の形成過程にあることを示している。
執筆者:谷 直樹
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京都市東山区本町にある臨済(りんざい)宗東福寺派の大本山。山号は慧日(えにち)山。本尊は釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)。1236年(嘉禎2)九条道家の発願により法性寺(ほっしょうじ)跡に一堂が創建され、宋(そう)から帰国した聖一国師円爾弁円(しょういちこくしえんにべんえん)を開山に迎え、天台・真言(しんごん)・禅の三宗兼学の道場とした。七堂伽藍(がらん)の完成は道家死後3年たった1255年(建長7)で、東福寺の名は東大寺と興福寺から1字ずつをとった。のち京都五山の第四位に列せられ栄えたが、1319年(元応1)、1334年(建武1)、1336年(延元1・建武3)と相次ぐ火災によって焼亡した。1347年(正平2・貞和3)一条経通(つねみち)が仏殿を再興し、以後足利義持(あしかがよしもち)、豊臣(とよとみ)秀吉、徳川家康らによって諸堂が重修された。1881年(明治14)方丈から失火して仏殿、法堂(はっとう)などを焼失、1890年再建に着手し、1934年(昭和9)4月に至ってようやくその落成をみた。現在、禅宗寺院最古の三門(国宝、室町時代)をはじめ、月下(げっか)門(1264~75)、禅堂(1347)、仁王門(1391)、浴室・東司(とうす)(ともに室町時代)などの建築物(以上、国重要文化財)があり、また無準師範(ぶじゅんしばん)画像(南宋(なんそう)代)や宋版『太平御覧(ぎょらん)』103冊、宋刊本『義楚(ぎそ)』6帖(じょう)12冊、無準師範墨蹟(ぼくせき)、禅院額字・牌字(以上、国宝)のほか、非常に多くの文化財を所蔵する。塔頭(たっちゅう)は中古以来53院あったが、明治以後合併され、現在は竜吟庵(りょうぎんあん)や栗棘庵(りっきょくあん)など25院が残る。寺域広大で、禅堂・経蔵と開山堂をつなぐ通天橋(つうてんきょう)は古来紅葉の名所として有名。
[平井俊榮]
『白石虎月編『東福寺誌』(1979・思文閣)』▽『『古寺巡礼 京都18 東福寺』(1977・淡交社)』
京都市東山区にある臨済宗東福寺派の本山。恵日山と号す。開山は聖一国師円爾(えんに)弁円,開基は九条道家。1236年(嘉禎2)4月に前関白道家が寺院建立を発願し,43年(寛元元)に円爾を第1世に招いた。55年(建長7)完成供養が行われた。寺名は東大寺と興福寺から一字ずつとり,規模は東大寺を,教業は興福寺を手本としたという。本尊の釈迦如来は高さが15mあり,新大仏と称された。建立後たびたび罹災したが,そのつど再建され現在に至る。「無準師範像」・宋版「太平御覧」・宋刊本「義楚六帖」ほかの国宝,「釈迦三尊」ほかの重文などが伝わる。三門は国宝,禅堂・鐘楼なども重文。
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…鎌倉五山に対し,京都にある臨済宗の大禅刹,すなわち南禅寺・天竜寺・相国(しようこく)寺・建仁寺・東福寺・万寿寺をいう。中国南宋代の五山官寺制度が,日本に移植されたのは鎌倉時代末期のことで,はじめは建長寺・円覚寺など鎌倉の大禅刹をもって五山としていた。…
…室町初期の東福寺の画僧。淡路島に生まれ,若くして同地の安国寺に入り,大道一以(1289‐1370)の弟子となり,師より吉山(きつさん)明兆の道号と法諱(ほうき)を授けられた。…
…京,鎌倉所在の各五山寺院の伽藍は初期,中期に盛況を呈した。しかし今日では往時の面影をとどめているものはわずかに東福寺伽藍だけであり,三門,禅堂,東司(とうす),浴室の中世遺構が現存している。鎌倉円覚寺舎利殿,正福寺地蔵堂(東京都,1407ころ)の両者は方三間単層裳階(もこし)つき仏殿の典型で禅宗様の特徴を内外の各部にうかがえる。…
※「東福寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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