日本の城がわかる事典 「宇利城」の解説 うりじょう【宇利城】 愛知県新城(しんしろ)市にあった山城(やまじろ)。同県指定史跡。遠江(とおとうみ)国境に近い三河国八名郡(やなのこおり)にあった城で、標高163m、比高90mの城山の山頂を本曲輪(本丸)として東西の尾根に曲輪が配置された城郭である。文明年間(1469~87年)に熊谷重実が築いたとされる。三河の統一をめざしていた松平清康(徳川家康の祖父)は、今川氏輝の時代に今川氏の勢力が弱まったことを好機として東三河の制圧に乗り出した。多くの東三河の城主は清康に従ったが、宇利城主の熊谷実長は清康に従おうとしなかった。このため、清康は1530(享禄3)11月4日、3000余の軍勢を率いて岡崎を出発し東三河に向かい、西三河の国人である野田城(新城市)の菅沼定則や亀山城(新城市、作手(つくで)城とも)の奥平貞勝らとともに宇利城を攻撃した。三方を山に囲まれた天然の要害である宇利城を攻めあぐんだが、城中の内応者による放火で形勢が逆転、宇利城は落城し、城主の実長は落ち延びていった。1535年(天文4)に清康が陣中で家臣に暗殺される事件(森山崩れ)が起こると、松平氏の勢力は弱まり、宇利城とその一帯は駿河の今川氏が支配するところとなった。その後、1560年(永禄3)の桶狭間の戦いで今川義元が死去すると、今川氏に従っていた松平元康(のちの徳川家康)は独立し、三河を平定した。その後、宇利城は廃城になったと考えられている。現在、城跡には曲輪(くるわ)、土塁、堀、井戸跡、石垣が残っている。主曲輪南西の尾根にある曲輪には石積みが、主曲輪東の二の曲輪(姫屋敷)には、土塁が残っている。JR飯田線野田城駅からタクシーで約20分。城山の登山口には看板が目印になるが、山道を約10分登ると宇利城址碑のある山頂に至る。 出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報