改訂新版 世界大百科事典 「後高倉院」の意味・わかりやすい解説
後高倉院 (ごたかくらいん)
生没年:1179-1223(治承3-貞応2)
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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1179.2.28~1223.5.14
鎌倉中期の上皇。高倉天皇の第2皇子。後鳥羽天皇の同母兄。母は藤原信隆の女七条院殖子(しょくし)。名は守貞(もりさだ)。生後すぐ平知盛に引き取られて養育され,平氏の都落ちにともなわれたが,平氏滅亡後帰京。1189年(文治5)親王宣下。乳父(めのと)持明院(じみょういん)基家の家に住み,持明院宮とよばれた。1212年(建暦2)出家。法名は行助。21年(承久3)承久の乱後,幕府の意向によって,子の茂仁親王(後堀河天皇)が即位し,みずからは太上天皇の尊号をうけて院政を行った。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…大宝令制定以後は,譲位した天皇は自動的に太上天皇と称され,持統より平城まで7人の上皇が出現したが,823年(弘仁14)嵯峨天皇が譲位に当たり太上天皇の尊号を辞退したため,淳和天皇が詔して尊号をたてまつり,以後これが常例となり,譲位後数日ないし十数日の間に新帝から尊号をたてまつる詔を発する儀制が成立し,嵯峨より江戸末期の光格まで,北朝の上皇を含めて53人の上皇が尊号をうけた。そのほか,皇位につかずして太上天皇の尊号をうけた例に,後堀河天皇の父守貞親王(後高倉院)と後花園天皇の父貞成親王(後崇光院)があり,没後に尊号を追贈された例に,後陽成天皇の父誠仁親王(陽光院)と光格天皇の父典仁親王(慶光天皇)がある。太上天皇の異称には,上記の略称のほか,〈おりゐのみかど〉〈もとのうへ〉〈むなしきふね〉などの和風のものもあり,みな譲位の意による称で,〈むなしきふね〉は中国に出典のある〈虚舟〉の和訓である。…
…しかし春華門院は八条院の後を追うように同じ年(1211)に世を去り,八条院領はその猶子順徳天皇に伝えられ,後鳥羽の管領下に入った。 承久の乱後,幕府はいったんこれを没収したが,あらためて後高倉院に進めた。そのとき(1221)の目録によると荘園数はさらに増加し,庁分79,安楽寿院領48,歓喜光院領26,蓮華心院領15,智恵光院領5,真如院領10,弘誓院領8,禅林寺今熊野社領3,〈新御領〉2,〈京御領〉21,祈禱所4などとなっている(〈三宝院文書〉)。…
※「後高倉院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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