宗貞茂(読み)そう・さだしげ

朝日日本歴史人物事典 「宗貞茂」の解説

宗貞茂

没年:応永25.4(1418)
生年:生年不詳
室町時代武将対馬守護。刑部少輔,讃岐守。法名正永(昌栄)。『宗氏家譜』など江戸時代の史書では父を頼茂とするが,同時代の朝鮮側の史料によると,父は霊鑑(法名)とある。応永5(1398)年に庶流仁位宗氏の頼茂から対馬島の支配権を奪い,守護となった。ところが同8年,貞茂の九州在陣中に,仁位宗氏の賀茂反乱を起こし島の支配権を奪ったため,翌年対馬に帰り反乱を鎮圧,島の支配権を奪い返した。また,朝鮮と活発に通交を行い,倭寇の取り締まりにも力を入れた。太宗14(1414)年に朝鮮が,日本国王(足利氏)など10カ所の使者以外の渡航を許さないことを決めたとき,その旨を日本各地に伝えたのも貞茂であった。宗氏が日朝間において重要な地位を占める素地は,貞茂の代に作られたといえる。その死に際して,朝鮮は弔慰使をわざわざ対馬に派遣して,これを弔っている。<参考文献>『長崎県史 古代・中世編』

(佐伯弘次)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「宗貞茂」の解説

宗貞茂
そうさだしげ

?~1418.4.-

室町時代の対馬国守護。刑部少輔・讃岐守。法名昌栄(正永)。父は宗霊鑑。1398年(応永5)一族支流で対馬の政権を握っていた仁位(にい)中村宗氏を討って実権掌握。一時は謀反により政権を奪われたが,これを克服し地位を固めた。主家少弐氏をたすけ,九州探題渋川満頼・大内氏抗争。対馬国三根郡佐賀を居所とした。対外的には倭寇禁圧の実績で朝鮮から対日貿易の正式な窓口としての地位を認められ,死後も功績を称えられた。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「宗貞茂」の解説

宗貞茂 そう-さだしげ

?-1418 室町時代の武将。
宗霊鑑の子。応永5年仁位(にい)宗氏の頼茂(よりしげ)から対馬(つしま)(長崎県)の支配権をとりもどし守護となる。筑前(ちくぜん)(福岡県)の守護代として守護の少弐(しょうに)氏をたすけ北九州に出兵することがおおかったが,15年本拠を対馬三根郡佐賀にさだめて倭寇(わこう)をとりしまり,朝鮮との関係改善につとめた。応永25年4月死去。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の宗貞茂の言及

【対馬島】より

…15世紀に入ると,朝鮮は日本人の渡航先を釜山浦・薺浦・塩浦(三浦(さんぽ))に限るなど,さまざまな統制策をとった。宗氏が朝鮮関係に本格的に登場するのは宗貞茂からで,貞茂は朝鮮に頻繁に使を派し,1408年(応永15)対馬に本拠を移して島内統治と倭寇禁圧に努めた。貞茂没後朝鮮は倭寇再発を危惧し,19年対馬征討の軍を起こした(応永の外寇)が,その後は宗氏を優遇,倭寇禁圧と通交貿易統制に利用する政策をとった。…

※「宗貞茂」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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