日本大百科全書(ニッポニカ) 「宮脇檀」の意味・わかりやすい解説
宮脇檀
みやわきまゆみ
(1936―1998)
建築家。名古屋市生まれ。東京芸術大学美術学部建築学科で吉田五十八(いそや)、吉村順三に学ぶ。1959年(昭和34)同大学卒業後、東京大学大学院の高山英華(えいか)(1910―99)の研究室に入り、61年同修士課程修了。64年宮脇檀建築研究室開設。以降亡くなるまで、一貫して住宅設計にたずさわり、多くの傑作を残す。独立初期の作品としては、「もうびいでぃっく」(1966、山梨県)、「あかりのや」(1967、東京都)などがある。
1960年代後半から70年代にかけて「ボックス・シリーズ」と名づけられた一連の住宅を設計し、配慮のいき届いた小住宅の可能性を追求した。これらの作品には、中小規模の都市の敷地で、全体をボックス状にコンパクトにまとめながらも、回遊性や外部空間とのつながりを考慮したものが多くみられる。同シリーズの代表的な住宅としては、松川ボックス#1、#2(1971、1978、東京都。後者は日本建築学会賞作品賞受賞)、ブルーボックス(1971、東京都)、グリーンボックス#1(1972、東京都)、船橋ボックス(1975、東京都)、CHOI-BOX(1984、東京都)などがある。
宮脇の住宅作品は、60年代の高度経済成長のさなか、いわゆる「モダン・リビング」という一般庶民の住宅への憧れと、持ち家政策という国家レベルでの方向づけが形をとりはじめた時代に対応していた。一方で、文化的背景を伴わない「総持ち家志向」に対して、宮脇自身が強い疑問を呈しており、それらは数多くの著作において繰り返し語られている。
こうした活動と同時に、教育・研究活動も多岐にわたり、法政大学、東京大学、共立女子大学ほかの非常勤講師を歴任する。60年以降には、当時日本の大学などで盛んに行われていた民家や集落等のデザイン・サーベイ(都市空間や建築空間の実地調査と分析)にも目を向け、法政大学の宮脇ゼミを通して倉敷、馬籠(まごめ)などの実測調査を行う。
70年代には秋田相互銀行の支店を20件以上設計し、古い街並みと対立することなく、新しい建築をつくり込んでゆく手法が高く評価された。さらに80年代には宮脇は住宅設計をより発展させ、日本における新市街地の街並みづくりにたずさわる。88年に星田アーバンデザイン・コンペティションで最優秀をとった後、住宅メーカーの積水ハウスなどと協同し、ボンエルフ(自動車が速度を落とすことで、自動車と歩行者がうまく共存している道路)や広場が適切に組み込まれた街づくりを行う。その代表例には六甲アイランドCITYウェストコート&イーストコート5番街(1992、兵庫県)、シーサイドももち中2街区(1993、福岡県)、フォレステージ高幡鹿島台(1998、東京都)などがある。
宮脇は、建築家としては例外的に多くの著作を残しており、平易な語り口と生活に根ざした内容から、専門家だけでなく住宅に関心をもつ一般の人々にも多く読まれた。代表的な著作として『日曜日の住居学』(1983)、『それでも建てたい家』(1991)、『宮脇檀の住宅設計テキスト』(1993)、『宮脇檀の住宅』(1996)、『男と女の家』(1998)などがある。
91年(平成3)、日本大学生産工学部建築学科教授に就任、住宅設計を重点的に教える「居住空間デザインコース」を開設し、「住宅設計塾」と位置づけて自ら塾長を名のるなど、建築教育にも熱心だった。98年、癌により亡くなったが、2000年には「ギャラリー間(ま)」(東京)において「宮脇檀」展が開かれるなど、没後もその住宅群は多くの専門家や一般市民をひきつけている。
[南 泰裕]
『『日本現代建築家シリーズ1 宮脇檀』(1980・新建築社)』▽『『日曜日の住居学』(1983・丸善)』▽『『宮脇檀の住宅設計テキスト』(1993・丸善)』▽『『宮脇檀の住宅』(1996・丸善)』▽『『男と女の家』(1998・新潮社)』▽『『暮らしをデザインする』(2003・丸善)』▽『『それでも建てたい家』(新潮文庫)』▽『宮脇檀・法政大学宮脇ゼミナール著『日本の伝統的都市空間――デザイン・サーベイの記録 図面篇・解説篇』(2003・中央公論美術出版)』▽『宮脇塾講師室編著『目を養い手を練れ――宮脇檀住宅設計塾』(2003・彰国社)』