住宅とは、家族がその中で生活するための器である。人間が生きていくためには、まず食べる・寝るという生理的に必要な条件を満たすための場所がいる。とくに、寝ている間外界からの働きかけに対してまったく無防備であることから、寝るという行為のために身を守る覆いが必要である。また、極端な暑さ・寒さに対して人間の体は十分に順応することができないから、直接体に着ける衣服を調節し、さらに囲まれたスペースをつくらなければならない。雨が降り雪が積もる地域では、体がぬれないように、ぬれて体温を奪われることを避けるため、ぬれた体を乾かすため、冷えた体を暖めるために覆いが必要になる。したがって、住居の始めは寝るための閉鎖的な場所で、階級が生まれ昼間働かなくてもよい人々ができてくると、その周りに昼間のスペースが加わるのが普通である。
始めは、身を守るために木陰や天然の洞窟(どうくつ)などを利用した。世界中のあちこちの洞窟で、その痕跡(こんせき)がみつかっている。たとえばヨーロッパでは、もっとも古いといわれているフランスのラスコーやアルタミラの洞窟で、内部の岩肌に描かれた絵画から、洞窟を根拠地として狩猟をしていたことや、テントをつくっていたことが明らかになっている。しかし、どこででも都合のよい自然の地形があるというわけにはいかないので、身近にある材料を使って覆いをつくろうと試みている。技術をほとんどもっていなくても扱えるどこにでもある材料は土であった。そして、草や木が使われた。
通常、人間は1人で生活することはなく、集団を形成している。集団のもっとも小さいそして基本となるのが家族である。さらに、家族が形づくる家が集まって町や村ができる。その結果として、現代では都市や村のような集団にまで発達している。このような集団は、現在では近代的な生産手段のために必要なのであるが、もともと種の保存とか、敵に備えての自衛的な目的があったと考えられる。
[平井 聖]
世界中のどの地域でも、最初に住居に使われた材料は、木、竹、藁(わら)、土、石などそれぞれの地域で簡単に手に入るものである。木と藁と土は、日本をはじめ世界中でもっとも広く使われている材料である。竹やヤシが多い所ではこれらを有効に利用しているし、葉で壁を編んだりしていて、特定の材料だけで家をつくっているとは限らない。木が少ない地域では、土や石を使っている。土を水でこねたり、その中に藁を混ぜて壁をつくる。人工的に加工した材料を使うようになるのは後のことである。その最初の例として土で壁をつくるとき、持ち運びや積むのに便利なように、木の枠で土の固まりをつくり乾燥して日干しれんがをつくることを考えた。屋根は土でつくることがむずかしいので、住宅では木の下地をつくり、その上に土を塗って仕上げる地域が多い。石を積み、土などを塗って壁をつくる所もある。日干しれんがを火で焼いたれんがや、同様に焼いた瓦(かわら)も古くから使われている材料である。石も、加工できるようになると、広く使われるようになった。れんがや石は、木や藁に比べて永久的な耐用年限をもっている。材料の耐用年限の違いが、それぞれの地域における住宅に対する考え方の違いを生んだ。そのほか、古くからあったが近代になって住宅にも広く使われるようになった材料に、古代ローマ時代にすでに使われていたコンクリートと、産業革命ののち近代的な生産が始まってから重要な建築材料になった鉄がある。鉄とコンクリートそしてガラスは、20世紀の住宅にとって欠くことのできない重要な建築材料である。最近は金属材料ではアルミニウム、さらにあらゆる面でプラスチックスの占める割合が急速に増えつつある。
[平井 聖]
住まいをつくる方法には、(1)壁で内部空間を囲む形式と、(2)柱で屋根を支え内部空間を覆う形式とが考えられる。(1)の形式でも住居としては屋根がなくては実際には役にたたない。(1)の形式は住居の基本で、世界中でもっとも広く使われている形式である。この形式は、寒い地域と暑い地域でとくに普及している。酷暑の砂漠の民族や、エスキモーのような厳寒の地域に住む人々は、壁と屋根でしっかりと住空間を囲み、窓も小さくして、厳しい気候から生活の場を守ろうとしている。
材料の関係から、砂漠の人々は土の壁を築き、エスキモーは氷で壁を積んでいた。北欧、スイス、シベリアのように森林の中では、丸太を横にして積み上げ、間には毛や草などの繊維を挟んで外気が入らないようにする。石やれんがで壁をつくる所も多い。北ヨーロッパや中国のように、木の柱で骨組をつくり、その間を石、れんが、土で埋めて壁をつくる所もある。日本でも住居の基本は(1)の形式であったが、生活が複雑になるにつれて、(2)の屋根で内部空間を覆う形式の部分が付加されていった。(2)の形式は、暑くて湿度の高いオセアニア、東南アジアのような地域や、日本のように温暖であるが雨の多い地域で使われている。
[平井 聖]
住空間の性質としてまず考えられるのが閉鎖性と開放性である。住宅の基本的な性格はその構造からくる閉鎖性にあるが、日本人からみれば開放性は住宅の大きな特質である。日本の住宅が木造であることが開放性をもつようになった原因と考えられがちであるが、北欧の校倉(あぜくら)造のように、木造でも閉鎖的な構造があり、中国北部の住宅のように柱より厚くれんがを積んだ閉鎖的な例もある。
日本では支配階級が形成されていくとともに、その住宅も開放的になったと考えられ、彼らの昼間の生活の場が住宅の中に設けられるようになると、開放的な住宅様式が成立した。上層階級にとって生活のなかで大きな部分を占める儀式や行事は、庭と屋内の開放的な部分を一体に使って繰り広げられた。また、開放性は高温多湿の気候に対処する構造であったから、中世以降になって庭と屋内が機能的に結び付かなくなってからもその性格は失われなかった。日本住宅のもつ水平方向に広がる空間の性格は、近世住宅の障壁に金地に極彩色であるいは水墨で連続する風景画を描いても、天井には格子を組んで写実的な絵を描かないことにも現れている。
一方、ヨーロッパのバロック期の住宅にみられるように、天井に好んでどこまでも深い空を描き、あたかも天井や屋根を忘れさせるような表現は、ヨーロッパの住宅のもつ閉鎖的な空間の性格が、周囲を囲むことにあったことを示していると解することができよう。
[平井 聖]
日本の住宅のなかで、平城京の内裏や寝殿造の基本型など、古代の住宅には強い対称性が現れている。古墳時代の埴輪(はにわ)屋の構成や平城京内の官吏の住宅、あるいは発掘された平安時代の始めの住宅遺跡は、1棟の主屋と2ないし4棟の副屋から構成されていて、対称的に配置されていたと考えられる。しかし、平安時代の後半になると、寝殿造の住宅も左右対称の配置をみせるものはなくなる。このことは、対称性が中国の影響によったもので、その後現れる非対称性が、日本の住宅が本来もっていた性格であることを示していると考えられる。日本では中世以降にも住宅は基本的に非対称的である。室内の装飾要素としての座敷飾りをみると、初めは主室正面の全面を床(とこ)だけで飾り、その上の床飾りも正式の三幅対・五具足では対称性が強かったが、書院造が定型化すると、座敷飾りや床飾りには非対称的な配置の調和が求められた。
明治維新になって導入された洋風住宅が対称性の強いものであったことからわかるように、ヨーロッパやアメリカの住宅は対称性を強く示している。とくに記念性の強い宮殿では対称性が明確で、このような性格はヨーロッパやアメリカだけではなく、中国大陸その他世界中のあらゆる地域、あらゆる時代に広くみられる性格である。
[平井 聖]
花や茶をはじめ日本の芸術には型が存在する。これと同じように住宅にも型の概念が存在している。平安時代の人々は寝殿造に規準型を想定してこれを法(のり)と考えていた。また、桃山時代にも、武家住宅の基本的な型として室町時代に存在したとされる主殿の形式が木割書(きわりしょ)(仏殿・神殿・塔・門・住宅など建築の基本形を書き記した書物)に描かれ、幕末に至るまで伝えられている。また、床、違い棚、付書院(つけしょいん)、帳台構(ちょうだいがまえ)はそれぞれ別個に生まれ、近世に入って座敷飾りを構成することになるが、座敷飾りの要素に組み入れられる過程で、自由であった組合せや設けられる場所は、床を中心とした違い棚、付書院、帳台構の一定の配置をとるようになり、そこに型の概念が存在するようになったことがわかる。
[平井 聖]
欄間(らんま)は、日本の住宅における独特の手法である。部屋を二分するとき、襖(ふすま)を用いて区画するが、その上を壁にしないで欄間にすることがある。欄間という手法がいつから用いられているかは明らかでないが、欄間は単に装飾というだけでなく、その両側の部屋がつながっているという印象を与えている。とくに襖が開いているときにはその感が強い。すなわち、欄間は、その両側の2部屋を一体に使うときには壁がないものとして認識され、別々に使う場合には2部屋の間を区画する壁として意識されることが期待されている。
逆に、落掛(おとしがけ)は、天井からわずかに下がる小壁の下の横材で、下には壁も建具もないが、その下で部屋が二つにくぎられていることを印象づけている。対面の場では、身分に上下のある主従が床の高さの違いによってそれぞれの場を占めることになるが、床が一段上がるところには上段框(かまち)があり、このような関係が広い御殿の中で発展すると、上段框の上には落掛が設けられて、天井からわずかに下がる小壁と落掛および床に段差をつける上段框によって、厳然と格差がつけられることになった。
そのほか、二条城や京都御所など近世の上層住宅では、周囲の襖や障子に室内から鍵(かぎ)をかけている。紙張りの障子に鍵をかけても意味がないと思われるが、鍵はその中にプライバシーが存在することを示していて、それを尊重する約束があって初めて有効だったのである。簡単に越えることのできる垣根なども、敷地への出入口は門であるという約束があってのことになる。
[平井 聖]
日本では、住宅の中の一段高くなった板張りの部分を床(ゆか)とよんでいる。土間(どま)は、日本では床のない部分と考えられている。日本のように履き物を脱いで床の上にあがる生活習慣をもっている人々は多くはなく、韓国とイラン、そしてトルコの住宅の一部の部屋が該当する。日本では欧米から椅子(いす)式の生活様式が伝わって以来、畳に座る生活習慣がしだいに失われているが、床の上で履き物を脱ぐ習慣は変わらない。
日本で床がつくられたのは弥生(やよい)時代の竪穴(たてあな)住居からと考えられる。しかし、藁を敷き莚(むしろ)を重ねる程度を床と考えるならば、縄文時代と考えてもよかろう。板床は、弥生時代には生まれている。古代の中国では、宮殿に石敷きの基壇が用いられているが、その影響を受けた日本では、官衙(かんが)や仏寺に用いられただけで、住宅には使われなかった。平城京での発掘から明らかなように古代にはすでに束(つか)を立てた板敷きの床ができていて、床に座る生活様式が一般的であったことが明らかになる。古代には板敷きの床に畳や円座などを置いて座っているが、中世に入るとしだいに畳を敷き詰めた部屋が多くなり、近世に入ると畳の部屋が普及してくる。民家で畳敷きの部屋が生活部分にみられるようになるのは、近世もだいぶ後になってからである。
[平井 聖]
日本では、障子や襖のような引違いの建具がもっとも古くから使われている建具だと思われている。公共的な建築ではドアがほとんどであるが、住宅では確かに現在でも建具は引き戸が主体である。古くから使われている障子や襖だけでなく、現代のアルミサッシでも、住宅用はほとんど引き戸である。明治以後欧米から入ってきた玄関のドアでわかるように、ヨーロッパでは歴史的にドアを使っているが、そのドアを外開きに使っているのはヨーロッパ伝来ではなく、日本の伝統的な生活習慣によっていると考えられる。
日本の先史時代の住居跡から発見されている建具は、引き戸ではない。遺物と絵画資料からみて、板扉と突上げ戸といった、ともに軸を中心に回転する建具が、先史時代に用いられていた。この形式の建具は、古代の住宅においても妻戸(つまど)と蔀戸(しとみど)として使われていた。
古墳時代の美園(みその)遺跡(大阪府)で出土した家形埴輪に、ドアを受ける装置がついている例がある。ドアは出土していないが、軸受の形から、弥生時代の山木(やまき)遺跡(静岡県)などの出土例と同様に、上下に軸が出たドアだったと考えられる。古い住宅や倉の形式を伝えていると考えられる伊勢(いせ)神宮などの神社の本殿などでは、いずれもドアが使われている。奈良時代の唯一の住宅遺構である法隆寺の伝法堂でも、ドアが使われている。ドア以外の建具は、奈良時代までは、まったくみつかっていない。
ドアには外開きと内開きとがある。日本のドアのほとんどが外開きである。内開きは外国で広く使われている。日本では内開きは町屋の通り庭への入口の大戸くらいである。内開きは雨水が入らないようにつくるのがむずかしい。したがって、板敷きや畳敷きでは外開きのほうが都合がよい。住宅に限らず、歴史的にみると、奈良時代の初めと鎌倉時代の初めの寺院、明治の初めの洋風建築に内開きが使われている。これらはいずれも外国の影響が強かった時期である。現代では、公共建築では内開きが普通であるが、住宅では内開きはめったにみられない。
平安時代の初めごろから住宅で使われるようになった建具に蔀(しとみ)がある。蔀は上が吊(つ)られていて、外か内へ吊り上げる。類似の構造の建具は中国大陸にも朝鮮半島にもあり、どちらかから伝わったと考えられる。
障子は奈良時代にもあったが、これは衝立(ついたて)か柱と柱の間にはめ込まれた壁のようなパネルであった。はめ込まれた壁のようなパネルの通路部分には初めドアがついていたが、このドアを引き戸にしたのが鳥居障子である。これが衾(ふすま)障子の最初の形式である。木の格子に紙を貼(は)った建具は中国や韓国にもあるが、その建具を引き戸にしたのは日本人の発明である。明(あかり)障子は、厳島(いつくしま)神社の『平家納経』の見返しの絵に描かれているのが、確認できるもっとも古い例である。
また、雨戸も日本独特の建具である。雨戸ができる前の中世の住宅では、外回りに引違いの板戸が使われていた。一筋の敷鴨居(かもい)にたてる雨戸ができたのは、江戸時代の初めのことである。
引き戸は気密にすることがむずかしい。ドアなら簡単に気密にすることができる。また、内開きのドアは外開きに比べて防御しやすいのも特色である。
[平井 聖]
建物の内と外との中間的な性格をもっている軒下は、日本建築独特の空間である。建物の周囲は開放的で、さらに軒下には縁側や落ち縁があって、いっそう中間的な感じが強い。視覚上のことではあるが、中から外へ空間が広がっていく。しかし、行動から考えると、縁側のガラス戸がすべて開いていたとしても、下駄(げた)や靴を履かない限り庭に出るわけにはいかない。日本の住宅では、内と外はまったく別のスペースである。たとえば、二条城では庭は家の中から眺めるだけであるが、ドアさえあればどこからも庭へ出ることのできるヨーロッパや中国の住宅は内と外とがつながっている。床があって内と外がはっきりしている日本の住宅でも、軒下は内とも外ともとれる独特のスペースである。
縁側は、冬の日に当たりながら主婦が針仕事をしたり、訪ねてきた親しい人が腰掛けて縁に座った家の人と話をする場所であった。家の中とも外ともいえない軒下や縁が、家の中と外とをつなぐ重要な役割を果たしていた。
[平井 聖]
日本ではいつの時代をとってみても上層階級の住宅では、垂木(たるき)や舟肘木(ふなひじき)などの木口(こぐち)を胡粉(ごふん)で白く塗るだけで、柱、梁(はり)、床など木造の軸部をあざやかに彩色しないのが普通である。しかし、奈良時代には大陸文化の影響から、平城京に建てる官吏の住宅に対して、木部を丹(に)で塗り瓦を葺(ふ)くように太政官(だいじょうかん)の命令が出されている。このような命令にもかかわらず、大陸的な色彩の影響はほとんどなかったとみてよい。
庶民の住宅では、上層階級の住宅と違い、さか上れる限り、内側・外側の区別なく木部に煤(すす)・べんがら(弁柄)などによって色をつけるのが普通である。これは、上層階級の住宅がヒノキを使うのに対して、庶民の住宅がスギなどそれ以外の樹種を使うのに関係があると思われるが、着色する理由は明らかでない。上層階級の住宅でも数寄屋(すきや)風の場合には通常ヒノキを使わないので、色つけするのが普通である。
土壁についても同様の傾向が認められ、上層階級の住宅では白土塗りとするのに対して、庶民の住宅や数寄屋風の住宅では色土壁とすることが多い。
上層階級の住宅では、遣戸(やりど)の内側、襖障子、張付壁に絵を描くことが多い。描かれる範囲は、通常内法長押(うちのりなげし)までである。障壁画は、たとえば近世の武家住宅では、地に金箔(きんぱく)を貼り詰め、極彩色により風景、とくに樹木、花、鳥などが描かれた。襖障子や張付壁に彩画する習慣は、平安時代の寝殿造の住宅においてすでにみられる。絵画に限らず、色紙あるいは幾何学文様を刷り出した唐紙を貼ることも多かった。内法長押の上は白土壁にするのが一般的な手法であるが、内法長押下を白土塗りにすることは少なかった。近世の初めには、白土塗りであった内法上の小壁も絵画あるいは唐紙で飾られることが多くなり、格(ごう)天井にも文様を描くようになって、柱や長押などの軸部を除いて、室内はすべて彩られるようになった。
[平井 聖]
日本では住宅の間取りを考えようとするとき、だれでもまず方眼紙を取り出す。もし方眼紙がないときにも、荒い格子を引いてから間取りを考えるのが普通である。現在はメートル法を使うように法律によって規定され、伝統的な技術によって木造の住宅を設計するときでも例外は認められていない。そこで間取りを考えるときの格子の基準となる寸法に91センチメートル、あるいはその倍の1メートル82センチを使っている。寸法体系から考えれば、メートル法の完数である1メートルあるいは2メートルを使えばよさそうなものであるが、実際には91センチメートルという半端な数値を使っている。この半端な数値は、江戸時代以来使われていた1間を基礎にしたもので、1間は1メートル82センチ、半間は91センチメートルなのである。要するに、われわれが住宅の間取りを考えるときに使う格子の基準寸法は半間なのである。
具体的に間取りを考えるにあたって、畳1畳が格子の目二つ、8畳の間が四つと四つの16目の正方形というように進めていき、部屋の外側の格子の交点に柱を立てる。
法隆寺の伝法堂や、平城京の発掘現場から発見されている住宅の遺跡をみると、柱の間隔には基準があったことがわかる。しかし、この基準は普遍的なものではなく、建物それぞれ、あるいは一つの住宅のなかのいくつかの建物に共通するくらいのものであった。平安時代においても同様であり、この基準となる寸法は、梁などに使う材木の寸法が基礎になっていたと考えられる。中世に畳を敷き詰めるようになると、畳の大きさが部屋の広さを決める基準になった。畳の寸法を基準にした格子の間隔は、室町時代の7尺(2メートル12センチ)からしだいに小さくなり、江戸時代の初めには京都では6尺5寸、江戸などでは6尺が普通になった。基本的にはこの寸法の半分を単位にした方眼をもとにして、その上で平面を考える設計方法が生まれ、現在までその習慣が続いている。さらに強く畳の寸法に拘束されているのが、近畿地方で行われているいわゆる京間(きょうま)の設計法である。この方法では、6尺3寸×3尺1寸5分の畳を敷くことを想定して部屋の大きさを決め、その外側に柱を立てる。このほうが手のこんだ設計方法である。
[平井 聖]
建築のなかで住宅は、地域によって、あるいは時代によって、それぞれ特色をもっている。日本の住宅で考えれば、年中行事絵巻に描かれた京の町屋は、間口に広い・狭いはあっても、同じような姿に描かれている。また、京都や金沢あるいは高山など古い町のたたずまいをみせている町には、よく似た形の町屋が並んで、それぞれ特色のある町並みを形成している。
外観だけでなく、農家の平面をみると、地域ごとに時代の経過を反映して平面が変遷していくのがよくわかる。
このような庶民の住宅の場合には、とくによりどころとするものがあるわけではなく、地域によって人々の暮らしに違いがないところから、きわめて似た平面になり、その平面の対応する立面にも類型が形づくられる。
近世の武家住宅の場合には、禄高(ろくだか)その他格式があって、門の形式をはじめとして、住宅をつくるにもさまざまな制限が加えられた。その一方、武家の儀礼は、対面の形式をはじめすべて幕府の例を規範としていたから、住宅の平面や意匠を規制する機能が、どの家でもその家の主人の身分によってほとんど一定であったと考えてよい。したがって近世の武家住宅には近世の武家住宅としての類型が存在したことになり、新たに建てる場合には規範が必要になったのである。このような背景から、近世の武家住宅には設計の規範となる「木割」が存在した。「木割」は、武家の住宅にだけ存在したわけではなく、神社の鳥居や本殿など、仏寺の山門や本堂あるいは五重塔にもみられたが、神社には神明(しんめい)造、春日(かすが)造など本殿の形式があり、仏寺にも宗派による決まりがあったので、武家の住宅の場合ほど一般的な規範という性格ではなかった。
武家住宅の木割は、柱間と柱の太さを基準として、その他の部材の寸法や部材の間隔を決める体系で、建物を形成するすべての部材が体系化されている。しかし、この木割は設計にあたっての目安で、そのまま厳密に適用されるものではなかった。
住宅の内部では、近世の武家住宅の場合を考えると、書院の主室の座敷飾りはどの家でも似たものであるだけでなく、そのなかで複雑に組み合わされた違い棚は、一見してそれぞれの家ごとに異なった意匠と思われるが、その意匠はおおよそ50種類に集約される。とくに型どおりの書院造の場合に使われる違い棚の形式は2、3種類に限定されている。
江戸時代には、標準となる形式を、古今の名作を尋ねるなどしてつくりあげ、実用と将来のために書き記した木割書が大工の家系ごとにつくられるようになっている。違い棚については雛形とよばれるパターンブックがつくられて、実際にはそのなかから選択するようになった。
[平井 聖]
ヨーロッパにおいて、ゲルマン民族が現在のヨーロッパの文化につながるような文化の芽をはぐくみ、他の地域に並ぶ記念性をもった建築がつくられるようになるのは、11世紀以後のことである。それ以前には、南から侵入した古代ローマ人がヨーロッパの各地に点々と兵営や都市をつくっていただけで、その他のほとんどの地域は未開であり、原始的な集落が存在したにすぎなかった。
ヨーロッパの各地に、洞窟(どうくつ)住居、竪穴(たてあな)住居あるいは湖上住居などさまざまな原始住居の遺跡が発見されている。
それらの多くは方形の1室あるいは2室の住居で、その中に竈(かまど)や炉を備えていた。南ドイツのフェーデル湖やボーデン湖にみられる住居は、湖畔あるいは湖の中に杭(くい)を打ってその上に人工地盤をつくって集落を形成していた。
[平井 聖]
建築の分野では11~12世紀のロマネスク建築から、これに続くゴシック建築までを中世として区分している。この区分は、関連する美術史などばかりでなく一般的に歴史上の区分として広く使われている。
ロマネスクに先だつプレ・ロマネスク期の住宅に関する遺構として、ドイツのアーヘンにフランク王カール大帝の宮廷礼拝堂が現存し、その付近から宮殿の一部が発掘されているが、宮殿の全貌(ぜんぼう)は明らかにされていない。
また、このころヨーロッパの各地に、キリスト教の伝道と修業のために修道院がつくられた。その一つであるスイスにつくられたザンクト・ガレン修道院の配置図が残されている。この図によると、教会堂を中心に、修道士たちの生活のための食堂、食料を生産するための家畜小屋、菜園、病院、学校などさまざまな施設が整っているうえに墓地まであって、その中で生活のすべてが完結していたことがわかる。
しだいにヨーロッパの各地に定着し始めたゲルマンは、そのなかの支配階層の住居と教会堂を中心に集落を形成するようになった。その支配階層である領主の住居を広くマナハウスとよんでいる。マナハウスは主屋といくつかの付属屋を垣根あるいは石やれんがで築いた高い塀で囲んでいるのが普通であった。ときにはその周囲に塀を巡らしている。マナハウスの主屋も狭義にマナハウスとよばれるが、イギリスではホールあるいはホールハウスとよぶのが普通である。
狭義のマナハウスあるいはホールは、1階を納屋および家畜舎とし、2階の中心に広いホールを設ける。ホールには大きな暖炉を備える。ホールのわきに台所を設けることが多い。領主の家族や武士たちが生活するのがホールである。通常、生活部分である2階へ直接入るために外部に階段を設けるが、防御のために階段をあがりきった踊り場の床を跳ね上げるなどのくふうをしていることが多い。
13世紀のマナハウスはしだいに発展分化して、主人の居間にあたるソーラーを備えるようになる。このころのマナハウスの標準的な構成は、1階を納屋とし、2階に大きなホールをとり、平側の扉を入るとスクリーンで目隠しされた入口で、その上がホールに面する楽人のギャラリーになっている。ホールは家臣たちの生活の場であったから、主人たちのために奥の壁際には床を一段あげたダイスがある。このダイスは主人たちの食事をする場所である。ダイスのあるほうのホールの奥の上階にはソーラーがあった。このころになると、主人とその家族はホールから分離したソーラーで生活するようになっている。しかし、家臣たちの生活の場は主としてホールであり、主人家族の生活の場はソーラーであったから、その中で生活のすべてが行われていた。当時の絵画をみると、ホールに簡単な長い机とベンチを並べて食事をしているところが描かれている。また、主人の部屋では、一部屋の中にベッドと風呂桶(ふろおけ)があり、同じ部屋の一隅で長い机とベンチを用意して壁を背に主人たちが食事をしている場面をみかける。
マナハウスの現存遺構はほとんどなく、遺跡が伝えられているだけであるが、多くの場合周囲の壁は厚い石積みで、2階の床を石造のボールトあるいは木造の梁(はり)で支え、小屋組みは木造のトラスであったと考えられている。ホールなど居室の壁は、時代が下ると壁掛けなどで飾るようになった。屋根は石板あるいはシングル(木の薄い板)あるいは草で葺(ふ)いていたのであろう。また各地にみられる中世の城郭遺跡も、その居住部分は原則的にマナハウスと同じである。
1500年ころになると、イタリアのベネチアにある総督宮、イギリスのランカシャーにあるラフォード・オールド・ホール、同じくダービーシャーのハッドン・ホール、フランスのアビニョンにある教皇庁などの遺構が残っている。
[平井 聖]
15世紀のイタリアに始まるルネサンスは、イタリア各地に点在する都市国家の一つであったフィレンツェに始まった。フィレンツェは豪商メディチ家、パッツィ家などを中心に繁栄し、市街地は市役所に相当する共同体の建物であるパラッツォ・ベッキオとキリスト教の大会堂サンタ・マリア・デル・フィオーレを中心としている。そして、パラッツォとよばれる豪商たちの住宅が都市の中に点在していた。
ルネサンス建築の特色は、安定した比例、均衡と調和をもった古典的な静的な美しさにある。それまで建築をつくるのは、石を積む職人であり、木工にあたる大工であった。そしてその職人が意匠にかかわり、施主の意向をくんで形をつくりだしていた。このような建築と違ってルネサンスの建築は、職人のつくった構造の表面に仕上げを施すという形でルネサンス建築のもつ特色である比例・均衡・調和を求めている。そして、意匠の基本的な要素は古代ローマの建築にあったから、石を積む技術あるいは大工の技術よりも、美に対する鋭い感覚と古代ローマ建築に対する深い造詣(ぞうけい)が必要であった。そのために建築の意匠にかかわる建築家が生まれ、画家、彫刻家あるいは文学を職とする人々が建築に携わることになった。
イタリアの都市住宅は、通常3階建てで、道路に面して敷地いっぱいに建ち、中庭をとっている。壁面は石造で、屋根は見えないほど緩い勾配(こうばい)である。したがって、道路に面する平面的な方形の壁面が、意匠の対象にされている。たとえば、フィレンツェの代表的な住宅であるメディチ家のパラッツォ・リッカルディでは、壁面の石の仕上げを1階は荒々しくして、さらに目地をくぼませ、2階は平らな仕上げとして目地だけくぼませ、3階は目地もわからないようにまったく平滑に仕上げている。すなわち、下ほど力強く、上ほど繊細な表現を目ざしている。同様の傾向は、古代ローマ建築のオーダーを借りた場合にも認められ、古代ローマの建築が使っていたのと同様に、いちばん下にもっとも柱が太く力強いドーリス様式を、その上にドーリス様式より細めのイオニア様式を、もっとも上にもっともきゃしゃなコリント様式を重ねている。この時代になると現存遺構は多く、フィレンツェのパラッツォ・ピッティ、パラッツォ・リッカルディ、パラッツォ・ストロッツィなどをはじめイタリアの各地にその例がみられる。
イタリアで始まったルネサンスの建築様式は、しだいにヨーロッパの各地に広まり、住宅では宮殿や別荘などに用いられた。北部ではイタリアと違い雨や雪が多かったので屋根の勾配が急になり、屋根が意匠の対象として特色ある形式をつくりだすことになった。
静的なルネサンス建築に対して、続くバロック建築は動的で劇的である。時代が下るにつれて、たとえばローマのパラッツォ・ファルネーゼでは各階の窓を印象的に浮き出たせ、同じくローマのパラッツォ・マッシミでは壁面を曲面とするほかに、1階の柱を2本ずつ寄せてリズムをもたせるなどの変化をつけている。さらに建築家ブラマンテやラファエッロによって試みられパラディオが好んで用いた1階を基壇のようにみせ、その上に2階と3階を通して大きな柱を立てた大オーダーの形式は、バロック時代の住宅を特徴づける意匠である。また、室内の意匠的な特色をあげると、彫刻的な壁面の扱いや透視画法を駆使した壁画や、天井画による視覚的効果、鏡で構成された壁面、色彩や光による演出などきわめて多彩である。
バロックの建築様式もヨーロッパの各地に伝えられ、各国の宮殿などに用いられた。そのなかでもっともよく知られているのは、フランスのベルサイユ宮、ルーブル宮などである。
バロック様式の豪華さ華やかさに対して、続くロココ様式は、生地(きじ)や、白あるいは淡い色彩と金の縁取りなどの柔らかい印象を与える装飾が特色である。ロココ様式はバロック様式に対する反動とも考えられ、主として室内の意匠にその特色がみられる。
また、田園風景を写して農家の風をまねしたり、東洋の様式を取り入れたピクチャレスクとよばれる流行もヨーロッパにみられた。
[平井 聖]
さまざまな装飾形式の追求に対して、産業革命が進行していくなかで、ふたたび住宅のもつ本質的なものの追求がみられるようになる。たとえば、イギリスの赤い家とよばれたモリス邸(ウェッブ設計)のように、外側はれんがそのままとし、内部も簡素な装飾を施しただけの住宅がつくられた。このような傾向は、材料が、近代建築の主要な建築材料である鉄、セメント、ガラスにかわっても、あるいは木造でも、一貫して基本となっている。
第一次世界大戦後、ミース・ファン・デル・ローエ、ル・コルビュジエ、グロピウスらによって装飾を排除した簡明な意匠の機能的な住宅が求められ、世界中に広まった。このような住宅は、上下水道や暖房などの近代的設備が施されていて、気候に関係なくどのような地域にも適合できるということが特色として主張されていた。
一方、ライトによる有機的な建築といわれた住宅は、自然や人間と融合するデザインを特色とし、一部の人々に強く支持されている。
また、庶民のための住宅に対する視点の変化から、工場などに伴って多くの集合住宅を計画的に配置したジードルンクや、ル・コルビュジエのユニテに代表されるような住宅だけでなく、商店街や学校まで包含した大規模な集合住宅もつくられている。
[平井 聖]
ヨーロッパにおいて町屋の平面・構造が明らかになるのは中世の末ごろである。ヨーロッパの中世都市は、それぞれが城壁を巡らし、町屋はその中に密集していたので、しだいに4層、5層と階数を重ねるようになる。日本と同様に敷地は短冊型で建物を敷地いっぱいに建て、道路に面する間口の一端に奥にまで通った通路を設け、この通路に面して、表から店、その次に階段、奥に食堂や台所などの生活部分を並べるのが原則である。寝室などの個室は2階以上の上の階に設けている。さらに、このような住居を重ねることもある。平面は地域によって多少の変化があり、構造も、木造の柱梁の骨組にれんがを積んだり土壁を塗ったハーフティンバー、あるいは石・れんがなどの組積造などがある。屋根は平入りが多いが、北の地域では通りに屋根の妻をみせて装飾としている場合も多い。このような町屋の形式は、現代においても原則的に変わっていない。
[平井 聖]
今日までのすべての建築のなかで、もっとも強く訴えかける力をもっているピラミッドをはじめとするエジプトの建築は、紀元前2600~前1000年の間につくられた。このピラミッドをつくった労働者のための集落の遺跡が砂漠の中から発見されている。壁を巡らした方形の集落で、多くの小さな住居が規則的に密集して配置されている。そのほかに、上層階級の住宅が壁画に描かれている。これらの住宅は、いずれも日干しれんがで壁を築き、平らな屋根の窓の少ない建物であった。
[平井 聖]
紀元前3500年ごろから始まるメソポタミア地方の文明は、高い基壇の上に建つ神殿の建築をつくり、その周りに住居が密集する町を形成した。周囲を城壁で囲んだ中につくられた住居は、土の壁、土の屋根でつくられ、それぞれの家が複雑に入り組み合っている。
砂漠の中の土の家の集落は、放棄されて崩壊し、その上につくり直され、何層にも重なって発見されている。長い間に日干しれんがで壁を積むだけでなく、釉薬(ゆうやく)をかけ装飾れんがをつくったり、アーチやボールトを積む技術をもつようになった。
そのほか、前6世紀末~前4世紀につくられたペルセポリスの宮殿も、よく知られている。
[平井 聖]
エーゲ海を取り巻く地域には、もっとも古いトロヤをはじめとしてクレタ島のクノッソスなどやペロポネソス半島のミケーネなどの都市が発掘され、住宅の基本的な形式として方形の1室あるいは前室をもつメガロンとよばれる住居形式が認められている。
[平井 聖]
古代ギリシアの住宅も基本形はメガロン形式であったが、前庭を囲んで複数のメガロンから構成される住宅に発展し、中庭の周囲を多くの部屋が囲む都市住宅の形式が生まれた。古代ギリシアの都市はアクロポリスとアゴラを核として構成され、住宅が壁を接して密集していた。植民都市のように新たにつくられた都市では、格子状に通された道路に沿って住宅も整然と配置されている。
[平井 聖]
古代ローマ時代の都市やその中の住宅は、火山の噴火によって埋没したポンペイやオスティアなどの都市が発掘されたことによって、よく知られるようになった。都市住宅は、奥行の深い短冊型の敷地に建てられ、間口の中央に入口を設ける。入口を入るとアトリウムとよぶ中庭で、アトリウムの周りに部屋を配置している。さらに奥に入ると、列柱の巡るペリスタイルとよぶ中庭があり、この周りにも部屋が並んでいた。二階屋もあった。また、表通りに面して店を構えることもあった。
ポンペイやオスティアなどの遺跡は、ベスビアス(ベスビオ)火山の噴火によって短時間のうちに有毒ガスと火山灰ですべての生物が死滅し、町がすっかり埋没してしまったため、室内の壁画、家具、台所の器具、食料品などがそのときのまま発掘されただけでなく、当時の人々や家畜までが火山灰の堆積(たいせき)の中の空洞として発見され、その中に石膏(せっこう)を流し込むことによって姿を現している。
一戸建ての都市住宅のほかに、3層から4層程度の集合住宅もあった。集合住宅も中庭を囲む形式で、1階の道路に面する側には店が並んでいた。
古代ローマ人は、ヨーロッパの各地に兵営や都市を築いた。これらの都市の基本的な形態は、格子状に道路を通した方形の城壁で囲まれたもので、中央付近の広場を核とし、広場にはバシリカ、神殿、商店などがあり、街区に整然と住宅を配置している。古代ローマの都市には、そのほかに劇場、闘技場、浴場などがあった。
[平井 聖]
日本では最初につくられた住居の形式は竪穴住居であるとされている。一部の地域で洞窟を生活の根拠地としていたと報告されているものもあるが、住居としての性格を備えるに至っていたかは明らかでない。一般には竪穴住居が、縄文時代に入って日本全国に分布するようになったことが認められている。竪穴住居は、縄文時代だけでなく、稲作が伝えられた弥生(やよい)時代を経て古墳時代にまで広く使われていた。さらに、近畿地方では平安時代のなかばころまでの遺跡が確認されている。その他の地域では、さらに後まで遺跡が発見されているが、東北地方では室町時代になっても竪穴住居がつくられていたと考えられる。
稲作が日本に伝えられると、これに伴って高い床をもつ建築が伝えられ、穀物の倉庫や、しだいに明確化してきた支配階層の住居として使われるようになった。稲作は九州や四国、瀬戸内海沿岸の地域に比較的早くもたらされたが、さらに急速に東へ伝播(でんぱ)していった。そのころの遺跡の一つが登呂(とろ)遺跡(静岡県)である。
登呂遺跡では、穀物の倉庫には高床の建物が使われているが、住居は、地面を掘り下げずに竪穴住居と同じ構造をもったものに、周囲に土を盛った囲いを巡らしてつくっている。登呂遺跡の住居形式は、地面を掘り下げていないので平地住居である。登呂遺跡のある場所は低湿な所であったから、地面を掘り下げると湿気で居住に適さなかったのが、平地住居をつくった原因と考えられる。
竪穴住居や平地住居そして高床の建物なども、その姿が、銅鐸(どうたく)、鏡、刀の束(つか)の文様あるいは埴輪(はにわ)として、それぞれに象徴的な意味をもって伝えられてきた。弥生時代の銅鐸に高床の倉庫が農耕や狩猟の絵とともに描かれているのは、高床の倉庫の姿が収穫や豊かさを象徴し、それが権力の背景となっていたからと考えられる。鏡と刀の束に竪穴住居の姿がみられるのは、古墳時代の一般の住居の多くが平地住居になっていたときに、竪穴住居が権力と結び付いた祭祀(さいし)の場であったことを物語っている。このように、先史時代の建物もその姿に象徴的な意味をもっていたが、日本において本格的に建築がつくられるようになったのは、朝鮮半島を経て中国大陸から仏教建築や宮殿建築が伝わってからのことと考えるべきであろう。
[平井 聖]
住宅建築が明確に記念的な性格をもつようになるのは、支配階層が確立した古墳時代からである。古墳時代に墳墓に収められた埴輪のなかには、棟の飾りをことさら強調した竪穴住居をはじめ、茶臼山(ちゃうすやま)古墳(群馬県)出土の埴輪屋群のように一群になった複数の埴輪があって、支配階層の住宅の規模をうかがうことができる。また、茶臼山古墳出土の埴輪屋群のなかには、特別に棟飾りをつけた主屋と考えられるものがあって、主人の使う建物だけ特別であったことを表現していると考えられる。
佐味田(さみだ)宝塚古墳(奈良県)から出土した家屋文鏡には、2棟の高床の建物、1棟の平屋の建物、1棟の竪穴形式の建物が描かれている。これらの建物がそれぞれどのような役割を果たしていたのか、4棟からなる一群の建物がどのような意味をもっていたかなどは明らかでなく、さまざまな推測が行われている。4棟のうちの入母屋(いりもや)風の屋根の高床の建物は、この鏡の持ち主にかかわる住居と考えられる。
住居と考えられる高床の建物は、湯納遺跡(福岡県)から出土した部材によって復原が試みられている。家形埴輪で高床の住居と考えられる例は、美園(みその)遺跡(大阪府)出土の柱に飾りをつけた二階屋である。この埴輪屋の2階には、壁際にベッドと思われるアンペラ風の敷物を敷いた床より一段高くなった台が認められる。飛鳥(あすか)時代になると権力者たちの宮殿が建てられたが、実態はほとんどわからない。
[平井 聖]
平城宮の朝堂院(ちょうどういん)や内裏(だいり)などが発掘によって明らかにされている。朝堂院は基壇上に建つ唐(から)風の建築で、柱を丹土(につち)で塗り、屋根は瓦葺(かわらぶ)きであった。一方、内裏の正殿は、日本的な板敷きの床のある檜皮葺(ひわだぶ)きの建築で、柱などの木部は素木(しらき)のままであったと考えられている。奈良時代の住宅建築の遺構である法隆寺の伝法堂は板床のある建築で、屋根は法隆寺に移される前は檜皮葺きであった。
飛鳥・藤原の地域や斑鳩(いかるが)、あるいは平城京で発掘された住宅の遺跡から明らかになる平面は、梁間2あるいは3間(間は柱と柱の間のこと)、桁行(けたゆき)が5から10間ほどの規模で、その桁行を二つに分け、狭いほうを土間、広いほうを板敷きにしていたと考えられている。正倉院に伝えられている古文書でも、当時の住宅の主屋には板床が張られていたことが記録されている。その他の建物には床はなく、土間に藁(わら)などを敷いて生活していたと考えられる。
[平井 聖]
初期の住宅は記録も少なく、遺構はまったくないが、近年平安京の中心部から遺跡が発掘されて、ようやく手掛りが得られるようになった。なかばを過ぎれば、記録や生活を主題にした文学が多くなり、断片的ではあるが住宅の主要部分が組み立てられるようになる。末期になると、絵巻物などに描かれるようになって、具体的な姿を知ることができるようになる。
平安時代の藤原氏を中心とする公家(くげ)貴族住宅は寝殿造とよばれ、中心に建てられた寝殿の東西あるいは北にも対屋(たいのや)を配し、寝殿と対屋の間を廊でつないでいた。東西の対屋から廊が南に延びる。この廊は途中に中門があるので中門廊とよばれていた。寝殿の南には寝殿と中門廊で囲まれた平らな南庭があり、そのさらに南に中島をもつ池をつくる。中門に相対する外回りの築地(ついじ)には、四脚門あるいは上土門(あげつちもん)形式の表門を設ける。表門の内側の中門廊との間には、殿上(てんじょう)、随身所(ずいじんどころ)、車舎などがあった。これらのほかに、台所やこの屋敷で働く人々の生活の場がなければならないが、その位置は明らかにされていない。円柱で構成された寝殿は、床は板敷きで屋根裏をそのままみせていた。東西両面の端の間など通路となる柱間を妻戸とするほかは、外回りの建具は蔀戸(しとみど)である。屋根は、檜皮葺きあるいは板葺きであった。平面は梁間2間、桁行5~7間の母屋(もや)の周囲に幅1間の庇(ひさし)を巡らしている。奥にあたる母屋の端2間ほどは壁を巡らした塗籠(ぬりごめ)で、寝室である。母屋には置畳をし、周りに棚などを置いて座をつくった。対屋も寝殿に準じた平面である。儀式や行事は、多くの場合寝殿と南庭を使って行われていた。
規模の小さな寝殿造では、付属屋が少なくなるだけでなく、短い中門廊が寝殿から直接突き出している。
[平井 聖]
寝殿造が中世の武家の生活にふさわしく変化してできたのが主殿(しゅでん)造である。その中心となる建物が主殿で、主殿を中心に表には武士の詰める遠侍(とおさむらい)、客を取り次ぐ式台など、奥には遊びのための会所(かいしょ)、女性の生活する局(つぼね)などを配し、このほか台所、厩(うまや)をはじめとする付属屋から構成されている。主殿の南には庭園がつくられる。
主殿は、寝殿造の中門廊の名残(なごり)である中門を表に面した隅に差し出し、中門と中門の取り付くあたりの部分に妻戸、はきあげ連子(れんじ)、車寄せなどを設ける。車寄せに続く表に面した部分に蔀戸を吊(つ)るほかは、柱間ごとに舞良戸(まいらど)2枚と明(あかり)障子1枚を組み合わせて用いている。内部は、機能の上から大きく南北に分けられ、さらにそれぞれを襖(ふすま)障子で間仕切りしている。南は中央を主室とする接客、対面の場で、北は常御所(つねのごしょ)、帳台の間などからなる生活の場であった。会所は和漢の詩歌、楽、茶などで遊ぶための建物で、会のときには、大陸から渡来した絵画や道具などを飾った。
柱は角柱を用いるようになり、しだいに畳を敷き詰めた部屋が多くなっている。また、天井を張るのが普通になった。おもな部屋には、押板床、違い棚、出文机(だしふづくえ)(後の付書院(つけしょいん))、上段が、必要に応じて設けられるようになった。
[平井 聖]
戦国時代を経て世の中がしだいに治まってくるにつれて、武将の格式によってさまざまな対応の関係が生まれることになり、屋敷を構成する主要な建物の数が増え、また屋敷に詰める武士の数も多かったので、中世の武家屋敷に比べて、台所、長屋、倉庫などの付属屋も増えている。とくに江戸時代の初期、寛永(かんえい)(1624~44)のころには、幕府をはじめ武家の繁栄を背景に、表門とその周辺の建物に極彩色の彫刻や彩色が施されて、華やかな景観がつくりだされた。
江戸時代の初期の武家屋敷に成立した書院造は、大書院、小書院の2棟の書院を中心に、表側には出入りおよび接客のための門、玄関、式台などを、奥には主人の生活空間である居間、寝所などを配置し、両書院の北には台所をはじめとするその屋敷で働く人々が労働し生活する建物を付属して全体が構成されていた。以上の主人のための部分の奥には、夫人のための一群の建物がつくられる。
書院は、8畳あるいはそれより大きな畳敷きの部屋を2、3室一列に並べ、周囲に入側(いりかわ)を巡らしている。奥の部屋の床(ゆか)を一段あげて上段の主室とし、座敷飾りを設ける。座敷飾りは床(とこ)を中心に配置し、これに違い棚、付書院、(帳台構)で構成されている。天井は、部屋の機能により、あるいは格式に応じて折上格天井(おりあげごうてんじょう)、格天井、猿頬(さるぼお)天井などを使い分けている。壁や襖には絵を描くか唐紙(からかみ)を貼(は)る。部屋と部屋との間の襖の上部には、欄間(らんま)を用いることが多い。外回りの建具は、障子と引き通しの雨戸である。大書院の前庭には能舞台が、小書院の庭には茶室がつくられるのが常である。
江戸時代には黄色、弁柄(べんがら)色、青色などの色土壁が好まれ、藍(あい)色、薄い臙脂(えんじ)などの色紙、あるいはさまざまな文様を木版で刷り出した唐紙を壁や建具に使い、木部に色付けをし、丸太や面皮材を用いて意匠を凝らした数寄屋(すきや)風の書院がつくられた。
数寄屋風の書院の特色は、以上のほかに座敷飾りの意匠や構成に自由度があること、平面に変化がみられること、屋根に反りではなく起(むく)りがみられるものが多いこと、天井、欄間、障子の桟(さん)、錺(かざり)金物などに幅の広い意匠上の変化がみられることなどである。
数寄屋風の意匠の原形は、農家など庶民の住居にあり、農家などの意匠を取り入れるなど古くからあった田舎(いなか)風の意匠に対するあこがれのような心が昇華したものと考えられる。
[平井 聖]
町屋の基本的な形式が具体的に確かめられるのは、平安時代の末期に描かれた『年中行事絵巻』が最初で、『年中行事絵巻』には平安京の町屋のようすが描かれている。その町屋は間口3間半の平入で、母屋は奥行2間、表側と裏側にそれぞれ1間の庇を差しかけている。隣との間にすきまはまったくなく、次々に接して建っているようすが描かれている。屋根は板葺き、壁は下見板あるいは網代(あじろ)であった。間口3間半のうち、端の1間半を奥に通ずる通り庭とし、入口に1間の観音(かんのん)開きで内開きの板扉をたてている。残りの2間は突き上げ窓のある店になっている。『信貴山(しぎさん)縁起絵巻』に描かれた町屋では、店の奥の身舎の部分が板敷きで、壁に囲まれているところから、寝室と考えられる。
中世の京都の町屋は絵巻物や屏風(びょうぶ)絵に描かれているが、一部に二階屋がみられる程度で大きな変化はない。『洛中(らくちゅう)洛外図屏風』には京の町の全景が描かれているので、周囲に町屋が巡る街区の内部に共同の井戸や便所があったことが明らかになる。
近世に入ると、二階屋が多くなり、瓦葺きの屋根や外部に木の柱などをみせないようにしっくいで塗り込めた塗屋(ぬりや)がみられるようになる。店の表の格子も細かくなり、2階の窓にも格子がつけられる。2階は、一般に表側の丈の低い厨子(ずし)二階である。『江戸図屏風』をみると、江戸の町屋も江戸時代の初期には京都の町屋と大きな違いはなかった。しかし、時代が下るにつれて、通り庭のない江戸特有の形式ができあがった。江戸の町屋は、間口いっぱいに店を開き、隣との間の路地を入って裏の勝手の土間に回るのが一般的であった。
地域によって土蔵の中に座敷を設けたり、道路に妻側を向けて並ぶ場合もある。農家ほど地域による変化は顕著でないが、防火のために外側を土蔵のように塗り込めた土蔵造や、外側に黒色のしっくいを塗ったものなどもある。
[平井 聖]
農家の姿が、絵巻物などによって明らかになるのは鎌倉時代からである。『信貴山縁起絵巻』や『一遍上人(いっぺんしょうにん)絵伝』に描かれた農家は、板葺きや茅(かや)葺きの単純な形式であった。室町時代になって、『洛中洛外図屏風』に描かれた洛外の農家は裕福な農家なのか、敷地の中に幾棟もの建物が描かれている。
農家の標準的な平面が明らかになるのは18世紀に入ったころからで、1712年(正徳2)の下横倉村(栃木県)の31戸は、6坪から60坪までに分布し、基本的には広間型平面で、規模の大きなものは土間を分離した分棟型であった。農家の平面は一般的に広間型から四間取型へと発展する。太平洋側の地域では分棟型が広く分布していた。
外形は地域によって異なり、合掌造(富山・岐阜県)、本棟造(長野県)、曲屋(まがりや)(岩手県)などがよく知られている。
[平井 聖]
幕末から神戸、横浜などの居留地では、ヨーロッパやアメリカの建築様式や技術が導入され、明治になると政府が積極的に洋風の建築を役所や学校に取り入れたが、住宅では上層の官僚や財閥の邸宅にようやく洋風が取り入れられ、在来の和風の住宅に加えて西郷邸や岩崎邸のように洋館が別棟として建てられた。一般には明治末から接客のための応接間という形で洋風を取り入れ、玄関のわきに洋間の応接間を設けた住宅形式が都市住宅を代表するようになる。
明治以降になっても封建時代の武家の対面や接客を重視した形式が一般的であったが、明治末から接客本位を改めて家族本位へという生活改善運動を受けて、座敷とともに家族生活の中心になる茶の間を南面して並べ、これらの部屋の北側に中廊下をとって家族の生活と使用人の場とを区分した新しい形式の都市住宅が生まれた。
茶の間が南面した新しい都市住宅の成立と並行して、住宅に対する建築計画学上の研究が昭和10年代から始まり、食事、就寝などの生活機能の分化が図られるようになる。また、動線の考え方も導入され、住生活の労力を省き、住宅を機能的につくることが近代化の方向となった。同時に、畳に座る生活と椅子(いす)に腰掛ける生活を住宅の中で使い分ける二重生活の不合理、不経済が唱えられて、椅子に腰掛ける生活への方向づけが決定的となった。
戦争に向かって、むだを省くことが至上の目標となり、物資の不足から必然的に住宅は小さくならざるをえなかった。そして、戦災、敗戦の結果、住宅はもはや最低限となった。
戦後の傾向は、個人のプライバシーの確立と、就寝機能を排除して食事の場を確立すること(食寝分離)など、もっぱら機能分化の方向にあった。その結果、ダイニングキッチンといくつかの小さな個室をもった住宅形式が一般化することになった。
[平井 聖]
現代の住宅は、住み手の家族全体が目ざす生活観がもとになり、来客用の空間を部分的に重ねて構成し、生活を営むうえでの楽しさと快適さを確保し、それを個性的なデザインに表現するとともに、居住地の景観として社会的な評価をも得られるようにつくることが求められる。
一家族で住む独立住宅のほか、テラスハウス、タウンハウスなどの低層集合住宅から、アパート、マンションなど中高層集合住宅、医・農・工・商家、事務所、アトリエなどとの併用住宅、別荘などの別、分譲用を含めた持ち家に対する賃貸用(借家)の別など、多様化している。
[茶谷正洋]
建築主の資産となる敷地は、交通至便ながら、落ち着いた風格のある住宅地に求めたい。不動産業者は、互いに情報をコピーしあっており、総合的に相応の時価になっているが、誇大表示がないか、自分の目と足で確かめる必要がある。安いものは、将来の道路計画に入ったり、新築のむずかしい状況が潜んでいることがある。古い建物は資産としての評価はない。できるだけ家族で、曜日や時刻を変えて何度も訪れると、最初気づかなかったことがわかってくる。同時にいくつかの候補地をみると長所・短所が比較できる。
建築基準法などによる土地の地域地区指定で、建物の建てられる種類、大きさや高さの限度が定められている。それを調べると、敷地内に建つ規模に見当がつき、敷地の周囲の状況も近い将来どのように変わるか予測できる。
一方、建築主と家族の生活観、家族構成の変化、長年住む状況も、予断はできないが想定しておく。
敷地の形と大きさは、測量士の作成する測量図で確かめる。測量は、隣接土地所有者と立会い確認した境界点にコンクリート杭(くい)で表示し、いくつかの三角形に分けて長さを実測し、面積を計算したもので、法務局登記の不動産表示の地積とは一致しないことが多い。傾斜地の場合、測量図に高低差が必要である。日当りのよい南面傾斜は眺望もよいが、台風の風当りも強い。斜面の一部を土盛(ども)りした部分は、建物に適さない。擁壁(ようへき)の裏側に雨水がしみ込まないように排水を考える。たまった水が水抜き孔から出ない状況になると、土圧に水圧が大きく加わって崩壊のおそれがある。
敷地の購入に際しては、抵当権のない売買契約であること、手数料、登記費用も見込んでおく。
[茶谷正洋]
●建坪(蔽)率 敷地面積に対する建築面積の割合で、住居地域60%など。
●容積率 敷地面積に対する延べ面積(各階の床面積の合計)の割合で、150%など。
●斜線制限 道路、隣地、北側に対しての高さの制限である。
●防火地域 地階を含む階数が3以上か、延べ床面積が100平方メートルを超えるものは耐火建築とし、そのほかは簡易耐火建築でもよい。
●準防火地域 防火地域に準じ、2階以下の木造でよい場合は、外壁と軒裏で延焼のおそれのある部分を防火構造とし、その部分の開口部を、網入りガラス入りアルミサッシなどの防火戸とする。
●敷地境界線と建物のあき 民法第234条では、敷地境界線と建物の外面は50センチメートル以上離さなければいけないが、着工後1年たっていたり、竣工(しゅんこう)したあとは、隣地の所有者は損害賠償の請求しかできない。第1種住居専用地域で、1メートルか1.5メートルの外壁後退距離を定めている地域がある。また、防火地域または準防火地域で耐火構造の外壁は、特例として敷地境界線に接することができる。
●木造の高さ 屋根の高さ13メートル以下、軒の高さ9メートル以下とする。
●居室 居住、作業などの目的で継続的に使用する部屋のことで、天井高は2.1メートル以上、採光面積は床面積の7分の1以上(天窓は3倍の面積に換算できる)、窓の自然換気面積は床面積の20分の1以上とする。
●地階 床が地盤面より下にあって、床から地盤面までが、天井高の3分の1以上のときをいう。
●階段 幅は75センチメートル以上、蹴上(けあ)げは23センチメートル以下、踏面(ふみづら)は15センチメートル以上とする。
[茶谷正洋]
建築費の資金は、建築時期、地域での相場から、まず見当をつける。現在では、坪(3.3平方メートル)当りから、1平方メートル当りの単位として予想し、予算総額のうち、貯金などによる自己資金のほかは、銀行などからの融資、勤務先から、勤務年数に応じた退職金の額も勘案しての借金を、その時期と条件、返済期間と金額を検討し、せっかく家はできたが家庭が壊れたということのないよう検討する。
[茶谷正洋]
建築費の資金のめどがたつ範囲で、建築費の予算を考える。家具、調度、造園などで建築工事費に含まないもの、別途工事、新しい住居にふさわしく新調する寝具、什器(じゅうき)、食器、調理器具、引越し費用など、それに設計者の設計監理料を考えておく。建築主の予算に対応するのが、建築工事費(建設会社の請負工事見積金額)である。その一致をみるためには、建物の広さ、高さ、仕上げ条件、工事範囲についての変更や、支払い条件を含む話合いを重ねる。物価上昇で予算を増す必要も生ずることがある。
[茶谷正洋]
主体構造として、材料別に、木造、鉄骨造、コンクリート造、ブロック造、それらを組み合わせた混構造がある。各部構造として、建物の部位別に、基礎、柱・梁(はり)、床、壁(外壁、内壁)、天井、屋根がある。防災別に、防火、耐火構造がある。構造に近いことばとして、構成法を示す構法がある。工法は、施工法を示すことばである。
木造は普通、柱と梁を組み立てる軸組(じくぐみ)式(架構式)構造であった。このうち、壁体の作り方として、柱と柱の間を土塗り壁でふさぐ真壁(しんかべ)、柱の内外面を板壁で覆う厚い中空の大壁(おおかべ)、屋根を支える小屋組(こやぐみ)として、太い丸太梁をかけ渡す和小屋、三角形(トラス形)に組む洋小屋があり、真壁に和小屋で和風構造、大壁に洋小屋で洋風構造とした。
最近、住宅産業で増えている木造には、アメリカやカナダから伝わり、ツーバイフォーといって、2インチ×4インチの厚板断面を基本とする製材を骨組としたパネルで、床・壁・屋根を組み立てる簡易な壁式一体構造がある。これは、太い断面が必要なときは厚板を重ねる。またフィンランドから入り、小丸太の角材を横に組む校倉(あぜくら)風の壁式組積造が別荘用にみられる。木造は、外壁と軒裏を、不燃材のモルタルや金属板で仕上げれば防火構造となる。いずれにせよ、木造のよさは、暖かみのある肌合いが目に触れるところにある。
鉄骨造(鋼構造)は、H形鋼などの鉄骨(重量型鋼)を柱や梁として、ボルト接合や溶接で軸組式構造とするもので、細い部材構成では、鉄筋などの斜材(ブレース)を加えて構面に剛性を与える必要があり、太い部材のときは不要で、ラーメン(剛接)構造になる。
肉厚4.5ミリメートル以下の軽量型鋼を用いる軽量鉄骨造の多くは、パネル化され、プレハブ(組立式)とよばれる。鉄骨造の鉄骨は、すべて工場で防錆(ぼうせい)や接合部の準備が済んで、プレハブ的になっている。鉄骨造は不燃防火構造であるが、耐火被覆材によって耐火構造となる。
鉄筋コンクリート造(コンクリート造)は、現場で鉄筋を組み、型枠で囲い、コンクリートを打ち込んで硬化後、型枠を外し、表面を仕上げた一体式構造である。この現場打ちに対し、工場生産のコンクリートパネルを現場で組み立てるのを組立式鉄筋コンクリート造(コンクリート・プレハブ)という。
太い柱と梁で構成するラーメン式コンクリート造は、平面計画に融通性があり、柱のかわりに壁で構成する壁式コンクリート造は経済的になる。壁式の場合、梁の幅は壁厚と同じで、すっきりする。鉄筋コンクリート造は、それ自体で耐火構造となっている。
打ち放しコンクリートは、ほかの仕上げを加えずに、コンクリート独特の素肌を表現するもので、耐久上コンクリートの厚さを1センチメートル増し、型枠も吟味し、入念にコンクリート打ちしている。
補強コンクリートブロック造(ブロック造)は、基本寸法が高さ19センチメートル、長さ39センチメートル、幅10、12、15、19センチメートルのブロックを成型し、鉄筋を挟むように、モルタルで積みながら、コンクリート打ちして壁体とする簡便な組積造で、基礎と梁(臥梁(がりょう))のコンクリート造で上下から挟むようにする。床と屋根はコンクリート造にしないで木造にすることもできる。ブロック造の塀(へい)にも、規準がつくられているが、鉄筋が基礎とつながっていないと、地震で倒れやすくなる。
ブロックの積み方には、れんが積みのようにずらしていく破り目地(やぶりめじ)と、竪(たて)目地の通る芋(いも)目地があり、いずれも積むときに、モルタル目地幅1センチメートルを加えて、高さ20センチメートル、長さ40センチメートルの割付け寸法となる。関東大震災で被害を受けたため、日本では、れんが造などの組積造やコンクリート造で無筋のものはごく小さな規模しか建てられない。
混構造とは、コンクリート造の上に木造をのせたりする組合せで、構造的な特徴である閉鎖性と開放性が、外観や居住上の条件にかなった場合に効果的である。しかし、コンクリート造の横に鉄骨造が接するような組合せでは、地震によって、揺れ方が異なるための被害が生じないよう、別個の構造としておく。
構造別の比較をすると、経済性では、かつては、重量鉄骨造、コンクリート造が高く、ブロック造や木造は安かったが、鉄骨やコンクリート施工の技術が普及し、木材が貴重になったため、あまり変わらなくなっている。むしろ、設備やインテリアのレベルで差がある。
安全性比較では、すべての構造は同じ地震の強さに対応した構造計算になっており、同じはずであるが、安全性や耐久性では、やはり、コンクリート造が大、鉄骨造が中、木造が小となる。
[茶谷正洋]
設計者(建築家)は、建築主の依頼により、提示される条件をもとに、建築主と家族の生活観を理解し、将来像を含めて、予定される敷地と環境に最適の造形表現とするために、設計図書を作成し、工事を監理して実現を図る。
設計は、構想を練るスケッチの段階に始まり、基本的な概念(コンセプト)を示す基本設計を経て、具体的な実施設計に至る。最初のスケッチは、外観の特徴であったり、大まかな輪郭の平面であったり、部分的な思い付きであったり、脈絡がないようにみえるが、頭のなかでは住宅全体と各部の立体的な空間のイメージを具体化しようと検討し、アイデアの取捨選択を行っている創造行為のたいせつな時期であり、設計者が自分のためにする仕事である。
やがて基本設計に進むと、設計意図が、具体的な形や寸法のなかで立体的な位置関係を占めてくる。これは設計者が建築主に示して案として決定するために行う。
設計内容を建築主が理解するには、模型や透視図(パース)が有効である。実施設計に入ると、基本的な変更はむずかしくなる。これは建築工事の内容と、できあがりの目標を、建築工事業者に示すものである。
設計図のうち確認申請に必要なものは、建物概要のほか、設計図書として、付近見取図(案内図)のほか、意匠図として、配置図、各階平面図で、敷地の条件、建物の規模構造により、立面図、断面図が加わる。また構造用として、伏図(ふせず)(基礎、各階床、小屋)、構造詳細図、構造計算書が加わるほか、室内仕上表、日影図その他が必要になる。
意匠図は、ほかに矩計(かなばかり)(基準的な断面詳細)、展開図、天井伏図、屋根伏図、建具表、各部詳細が加わる。
設備図は、電気(配線図、照明器具図、電話、動力など)と機械(ガス、給排水、衛生、暖冷房など)に大別される。
設計図書には、材料や工事の程度を示す仕様書を含む。
このほか、工事が始まって、工事業者がつくる各種施工図がある。
[茶谷正洋]
設計が完了すると、設計図書により建設会社(請負)が見積もる。信頼できる会社に特命としたり、数社から合(あい)見積りをとって比較する。設計者は内容を吟味して、最適な会社を推薦する。建設会社が設計・施工する場合はとくに信頼と誠実が前提となっている。
[茶谷正洋]
建築主は注文者として、建設会社は請負者として、設計者は監理技師として、契約約款と設計図書を綴(と)じ製本した契約書に、請負代金の支払方法等を記入し、記名捺印(なついん)する。支払いは、契約時に前払いとしてたとえば3割、部分払いとして着工時と上棟時に3割ずつ、完成引渡しのときに残金、などと相談して決める。
[茶谷正洋]
建築主は、設計図書が建築基準法、消防法などに適合しているかどうか確認を求める申請書を、必要図書を添付して官庁(市区町村の建築主事、または国土交通大臣の指定を受けた指定確認検査機関)に提出し、確認通知書が出されると、建築工事届を出して着工に入る。
[茶谷正洋]
建築の外観は、人に例えると姿、入口は顔のように印象強いが、住宅として周囲から際だつほど、造形的にくふうするか、あるいは樹木に遮られるように奥ゆかしくするかで、住み手や作り手の性格・好みが表現されてしまう。また、着替えのできる衣服と違って、手軽に変更できない外部だから、雨風にさらされてみすぼらしくならないように、屋根の庇(ひさし)を出すか、耐久的な材料で仕上げ、おのずから品格の出るようにデザインしたい。
外観は、設計図でいえば立面図(姿図(すがたず))に相当する。立面図は二次元的にしか表現できないから、奥行や彫りの深さ、造園、門塀との取り合わせ、遠望など、実際の状態を勘案したり、模型で推察し、実際に工事していく途中でも、衣服の仮縫いのようにできぐあいを確かめていく。展示場の住宅や建て売りの住宅、マンションなどは、できあがりのわかる点は気楽だが、わが家だけの特色を表現する自由度は小さくなる。道路から、門を経て入口までのアプローチは、住む人にとっても、訪れる人にとっても、しばし独特の感興がある。距離感をもたせるか、気軽さに徹するか、第一印象になるところである。自動車のカーポートを、建築の一部となる車庫にするかどうか、自転車なども含めて必要な条件を決め、配置する。
配置図は、上空から見下ろした全体の配置を示し、平面図も、上空から天井下を見透して眺めている。
[茶谷正洋]
日本の木造建築では、柱間(はしらま)1間(けん)や畳の幅3尺を単位寸法にして平面を計画する伝統があり、だれでも間取りをつくれ、理解しやすい特色をもっている。これに対し、壁の厚いれんが造であったヨーロッパなどの外国では、部屋ごとに、壁から壁までの内法(うちのり)寸法で広さや容積を表現する習慣であったが、鉄骨やコンクリート造では、柱の中心間隔による心々(真々)(しんしん)寸法で表示する傾向が強くなっている。既製品を用いる場合は、流通している市場寸法(定尺(ていしゃく))から、むだや継ぎ目の少ないように考えて寸法を決める。このことは壁の高さなど、立面や断面を計画するときにも考慮される。
平面計画では、各室の広さもさることながら、各室のつながり方(動線)が重要で、実際上の便利さを検討しておく。動線計画は、住宅以外のすべての建築から、一室の中での動作、機能に至るまで、基本的な重要事項で、たとえば厨房(ちゅうぼう)では、冷蔵庫、調理台、流し、レンジ、配膳(はいぜん)台の並べ方しだいで、使い勝手が変わってくる。しかし機能主義に徹すると、土間や和室、縁側など汎用(はんよう)的な空間の効果を忘れがちになる。
なお、日本人としては、洋風化が進んでいる現代でも、少なくも一部屋は和室が欲しい。
屋外では、テラス、パーゴラ、池、庭石、植木の配置など、外庭、内庭の造園計画で、そこを眺めたり歩くときの、空間的・時間的な印象の変化(シーケンス)、建物との調和や対比を計画する。
[茶谷正洋]
高さの基準となる地盤面(グランド・ライン)から、地下階、ドライエリア(採光・換気を図るための地下外部)、1階、中2階、2階、屋根、屋上までの断面図を検討し、立体的にみてわかるむだな空間を生かすように配慮する。その基準は、人が昇り降りできる階段やスロープで、高さ寸法を調整し、人の頭がつかえないよう、また見上げたときや、見下ろしたときの吹抜けが安定感のあるように設計する。断面は、当然、外観や平面にもかかわっており、三次元としての空間を空想し、その相互関係が理解できている必要がある。傾斜地や、道路と敷地に高低差のある場合、半階分ぐらいずつ高さのずれる間取り(スキップフロア、メゾネットなど)ではとくに慎重に計画する。
[茶谷正洋]
出入口は、小住宅や集合住宅では、勝手口のように簡単になっているが、公的な生活が洋風化された日本でも、私的な住宅での靴を脱ぐ習慣は続いており、玄関として嫌味のない象徴的な表現とするのがよい。また、玄関で勝手口まわりを兼ねた土間の効用が再認識されている。玄関扉が開きの場合、内側に向かって開くと、入りやすく、丁番(ちょうつがい)は抜かれないが、雨仕舞(あまじまい)はむずかしくなる。集合住宅や避難用のように、中が狭い場合は外開きになる。開閉の多い錠前を吟味し、靴・傘・コートの収納、呼び鈴や郵便受けの便利さ、開けたときの寒い空気の入り方を考え、訪問者の視線に対して、階段、便所、浴室の出入りをさらけ出す感じがないように考える。世帯主の職業上の客が多い場合は、家族の生活が乱されないような配置を考える。
[茶谷正洋]
客間のように考えると、応接セットに占領されただけのよそよそしい雰囲気になりやすい。お客はリラックスし、家族も自由に立ち居ふるまいのできるホールのように考えたい。庭のテラスに続いたり、床に段差をつけて腰掛けられるようにしたり、吹抜けや2階のギャラリーとの立体的な構成をくふうすると、多人数のパーティーでも狭さを感じない。雨の日のインドア・ガーデンになると楽しい。
[茶谷正洋]
和室では、茶の間とよばれ、掘りごたつがあったり、だんらんの間であった。単なる食事の場でなく、家族が水入らずの時を過ごすことで精神的な絆(きずな)を確かめる空間として、住居の中心となる。ぜいたくなホテルのように住めても、これがないとさびしい。食卓は食事だけでなく、新聞を読んだり、ながら族が仕事もできるくらいの細長いテーブルが置けると、だんらんも続く。
[茶谷正洋]
食堂に隣接し、調理から配膳、そして後かたづけがスムーズに運べるとよい。厨房設備と食器棚のスペースを確保する。集合住宅では、ダイニングキッチン(DK)が一般化しているが、食事の雰囲気は損なわれているので、調理台があまり近く見えないようにくふうしたい。
[茶谷正洋]
主婦に便利な部屋に続けたり、そのコーナーに設ける。主婦としてはとくに、乳幼児に危険なアイロン、針仕事、そのほか火熱水、コンセントなど、家中総点検を怠らないこと。
[茶谷正洋]
●洗面所 陶製の洗面器と化粧台、鏡と棚、タオル掛け、換気、鏡に映りのよい採光と照明、防水型コンセントを整える。大きな鏡は気分をゆったりさせる。浴室前室としては、脱衣籠(かご)、足拭(ふ)き、浴用タオル掛け、棚、体重計、暖房、給排水をつなげて洗濯機と乾燥機を整える。便所が一つしかないとき、ホテルのバスルーム型や、洗面所から便所と浴室に入る間取りはコンパクトだが、使用が重なるとき都合が悪い。
●便所 中途半端な大小兼用型から、洋風腰掛型に一般化し、座をヒーターで暖かくし、洗浄乾燥装置も増えている。和風のしゃがみ型にしても、前後の寸法が足らず不便なところが多い。便所の中に手洗い器とタオル掛けが欲しい。手洗いを兼ねたロータンクは便利である。
●浴室 洋式は浴槽内で身体を洗うから、カーテンを吊(つ)って洗い場に水を流さないが、1人ごとに湯量を要し、バスタブの清掃がとくに必要となり、日中シャワーを使う回数も多くなる。バスタブは陶製が清潔で長もちする。
日本人は浴槽にゆっくりつかって温泉気分に浸れることが理想で、洗い場は水はけ乾燥が速く滑りにくいこと、天井は緩い傾斜では結露した水滴の落ちる不快さは防げないので、換気を図る。浴槽はヒノキかサワラの木製が耐久的で肌ざわりがよいが、手入れが悪いと、かびたり腐食する。洋和折衷式というか、小さい寸法のタイル貼(ば)りで腰掛型にし、背中と首をもたせかけるように斜めにつくり、湯のあふれる縁を白い大理石でまわすと快適である。外から気づかれずに、小さな庭が見えるのもよい。
ボイラーは、じか焚(た)き循環式が効率よいが、換気が悪いと不完全燃焼で危険になる。給湯式は、めんどうが少なく新鮮な湯を得られるが、配管を要する。両方式併用もある。浴室の照明器具は防水型にする。木造の場合、土台や壁が腐食しやすいので、コンクリートの基礎を高くしてまわす。また下階があるときは床の防水を入念にする。プラスチックのバスユニットは継ぎ目がないので防水が楽になる。
[茶谷正洋]
●夫婦の寝室 洋間の場合、寝台は、新婚当初セミダブル(幅120センチメートル)でよくても、やがてダブルベッドのクインサイズ(幅140センチメートル)やキングサイズ(幅180センチメートル)の2人用から、乳用児のベッドが挟まって、シングル(幅100センチメートル)を二つ並べるツインベッド式にかわっていくようだが、ゆったりするにはダブルベッドを二つ並べる。夫婦の1人が病気などで寝込むとき一時的に続き間の都合よくなるときがある。寝たときに窓の日差しや照明の向きがまぶしくないようにくふうする。和室ではさまざまの寝方に応じられ、着物の着付や、畳むのに都合よい。和だんすと洋だんすの置き場にくふうを求めたい。
●子供部屋 小学生のころまでは親の目が届く必要があるが、やがて男女別になり、子供の独立心(反抗心)が芽生え、プライバシーを強く求めるようになる。ベッド、机、椅子(いす)、本棚、洋だんすが一つずつですむ単純な構成から、趣味に近い物が急速に増えてくる変化があり、多目的に使える和室で応ずるか、増改築、居間への進出などが始まる。
●老人・身障者の部屋 室内から道路面までの階段や段差に注意し、斜路にする場合は勾配(こうばい)は8分の1以下に緩くし、滑りにくい粗面に仕上げ、手摺(てすり)を増やす。身体の向きを変える浴室や便所にも同じ注意が必要になる。リハビリの屋内運動スペースとして廊下や縁側が見直される。階段は、病院、小・中学校の数値の制限が参考になる。
[茶谷正洋]
季節の異なる衣服や、当座使わない物の収納は必要だが、納戸はいくらあっても足らなくなる。新しい物を増やすときは慎重に、増やした分だけ捨てないときりがない。
[茶谷正洋]
客室、アトリエそれぞれに適当な位置を考える。外国では地下室が工作室などに利用できるが、日本では湿気が多いので除湿のくふうを要する。
[茶谷正洋]
防火と防音、防振にとくに注意する。
[茶谷正洋]
四季の変化に富む日本は、春と秋の気候は快適だが、夏の暑さは通風でしのぎ、梅雨時のしめっぽさと冬の寒さにはもっぱらがまんで過ごした。夏の自然通風も、蚊の入らないように網戸をつけると、風が通りにくくなり、体裁が悪くなる。
最近は、壁や屋根裏に断熱材を使い、部屋全体を暖冷房しやすくなったが、気密なアルミサッシの普及で、戸や窓のすきまがなくなり、自然換気が不足しがちになっている。また、自然に対する感受性が弱まり、物理的居住性は比較しやすいが、たいせつな心理的・精神的居住性は気づかれにくい傾向がある。外国のように、夏の湿気が少ないと涼しく感じ、冬の湿気が多いと暖かく感ずるが、日本の太平洋側では逆の所が多く、夏に除湿、冬に加湿が必要である。
石油危機以来、省エネルギーとして積極的な太陽熱利用のくふうが始まった。屋根にのせる太陽熱温水器は以前から普及しているが、体裁や取り付けは付け足しという感じがある。太陽高度を考え、冬の昼間の日照を積極的に取り入れておく自然流から、集熱器を設置して蓄熱する装置、あるいは夏の太陽熱を冬まで地下に蓄熱するくふうもあり、日照が得にくい場合、鏡で反射させて送り込む方法など、実験的な段階を経ている。
[茶谷正洋]
●給水設備 水道管の水圧で普通、2階建てくらいまで直結して給水できるが、高台や夏の渇水期で水圧が不足する所は、受水槽にいったん受けて圧力タンク付きモーターポンプで加圧して給水する。集合住宅のような規模の場合、地下受水槽に受けてから屋上の高架槽に、停電時に備えた2~3時間分の使用水容量をポンプで揚水し、そこから水洗便所などに5メートル以上の高さの差を利用した重力で給水する。
●排水設備 排水管の中がからになると、臭気や虫があがってくるので、排水器具の先に、U、S、P字型のトラップをつなぎ、水封といってつねに水でふさがっている封水の状態にする。また、その先で別の排水があるとき、サイホンの原理で、封水が吸い出されたり、跳ね出したりしないように、トラップの先に、屋外への通気管を立ち上げる。便所の排水は汚水といい、その他の雑排水と区別している。下水処理場のない地域では、汚水は浄化槽を通してから雑排水といっしょにする。衛生陶器に代表される衛生器具には、洗面器、手洗い器、洗濯槽、大小便器、浴槽など、基本的な種類のなかで、デザインが豊富になっている。
●給湯設備 浴室、台所、洗面、手洗いあるいは暖房用の貯湯式灯油ボイラーは、十分な給気と排気が必要である。
●ガス設備 給湯用の瞬間湯沸かし器や調理用のガスレンジも、万一のガス漏れに対し、冷蔵庫やスイッチで引火のないよう、都市ガスの場合、不完全燃焼による一酸化炭素中毒のおそれがないよう、十分な給気と排気が必要である。都市ガスは空気より軽いから上へあがり、プロパンガスは重いから下へ集まる。
●暖房設備 冬の快適温度は、居間・食堂では16~20℃とされ、便所・脱衣場18~20℃、台所15~18℃、寝室12~15℃、廊下など10~15℃で、湿度は45~60%とされる。運動には5℃、作業には3℃、幼児には2℃、小児には1℃低くし、老人には1℃加えて設定する。
中央暖房(セントラル・ヒーティング)のうち、ボイラーでつくる80~90℃の温水を各室の放熱器に配管する温水暖房が一般的だが、温水をつくる予熱時間がかかる。ボイラーで暖めた空気をダクトで各室の吹出し口に送り、ボイラーに環気しながら外気も取り入れ、加湿できる温風暖房は、すぐ暖まるが、音がしやすい。床内に温水管か温風ダクト、電熱線のパネルを配して、床面を26℃くらいに温め、その輻射(ふくしゃ)熱が人体に直接当たって暖かく感じさせる放射暖房(パネル・ヒーティング)は、室内温度が低くてすみ、放熱器のスペースは不要で、余熱も大きいが、予熱に時間がかかり、工事費もかかり、修理はめんどうになる。この床暖房のよさは、ソフトな暖かさが足元からくることで、室内を換気してもよく、頭寒足熱の原理にかなっている。しかし、輻射熱が直接当たらないと暖かく感じないし、極端な寒さには頼りない。厳冬期は、温水管の水の凍結膨張からの漏水が生じやすいので、暖房しないときは完全に排水するか、不凍液を加える必要がある。熱源としては、灯油が安く、ガスが次ぐ。電力は高いが、単純で操作が楽で、安全性も高い。これらをよく比較して選びたい。
個別暖房として古くからある火鉢やいろり、こたつは、部屋を暖める暖房というより局所的な採暖といわれる。外国では、ロシアのペチカ、欧米の暖炉、朝鮮半島のオンドル、ドイツのカッフェルオーフェンなどがある。北海道にも多いペチカは、れんが積みの壁面からの輻射熱で、ペチカに面するいくつもの部屋を暖房できるので中央暖房に近い。煙突のつく場合、石炭や薪(まき)を使う固定式ストーブがある。移動式の手軽なストーブには、電気、ガス、石油(灯油)を使うが、火事、ガス漏れ、不完全燃焼に注意したい。
●冷房設備 夏の快感温度は19~23℃とされ、外気温が32℃、湿度68%のとき、室内は26~28℃、湿度50%を冷房の目標とする。あまり冷えすぎると、外に出るときホットショック、入るときコールドショックで、夏風邪(かぜ)になる。
冷房の仕組みは、冷凍機の原理になっていて、密封した冷媒のフロンガスが、低温高圧の液体状態から、低圧にして膨張させ、蒸発器(エバポレーター)で蒸発するときに、周囲の室内の熱を奪って冷やしたあと、高温になったガスを圧縮器(コンプレッサー)で高圧にしてから、凝縮器(コンデンサー)で熱を外部に放出させて液化させ、この循環を繰り返す。直接空気を冷やす空冷式のウィンド型クーラーやパッケージ型クーラーは個別冷房(ルームクーラー)で、室内に蒸発器、屋外に音の出る圧縮器と凝縮器を置く分離(セパレート、スプリット)型が普及している。冷水管によって空気を冷やす水冷式は、ファンコイル(ケリング)ユニット式といい、熱を奪って暖まった水を、屋上の冷却塔(クーリングタワー)で、外気の通風で冷やす。冷水で冷やした空気を送風機とダクトで送り、天井の吹出し口で冷房する方式は規模が大きくなる。これらは中央冷房に相当する。
なお、暖房と併用するクーラーのうち、ヒートポンプ方式は、暖房の際に、冷房を切り替えて逆サイクルにする。冬に外気や水の熱を蒸発器で吸収するため、厳冬期の効率が落ちないよう、18℃くらいの井戸水を使ったり、ボイラーや電熱を使う。
●換気・除湿設備など 天井固定型や移動式スタンド型などの扇風機で、風によって身体の熱を奪う。換気扇で室内の汚れた空気を排気する。冷凍機による除湿器、フィルターなどによる空気清浄器(エアクリーナー)、加湿器がある。これら、空気を循環させる設備では、内蔵されている空気濾過(ろか)器(エアフィルター)の目詰まりで能率が落ちやすいので、週ごとくらいに外して水洗いする。
●電気設備 配線工事により、屋内外の照明器具、暖冷房機器、電気製品に対してコンセントから電力を供給する。機器によっては、一般の電圧100ボルトでなく、200ボルトの配線となる。ほかに通信設備として、電話、インターホン、ブザー、チャイム、テレビアンテナ、防犯、機器の遠隔操作用などの配線がある。照明の点滅は直接行うより、部屋の出入口の壁にスイッチや調光器をつけるほうが便利である。電灯は、白熱灯、蛍光灯、ハロゲン灯などで、取付け方は、天井からコードで吊り下げるペンダント、天井に下向きに埋め込むダウンライト、壁から持ち出すブラケットなど、場所の使い方に応じて選ぶ。
[茶谷正洋]
工事は、建設会社による工程表に、着工から竣工までの期間に行われる各種工事の進み方が記されており、これにより進める。まず地鎮祭を行う。工事関係者が集まって、神主により祝詞(のりと)を捧(ささ)げ、土地の神に工事の無事を祈る。省略することもある。
[茶谷正洋]
●整地 草木を整理し、工事部分がよくわかるようにする。
●地縄張 「じなわばり」と読む。建物の配置を、地面に縄を張って確認する。
●遣方 「やりかた」と読む。地縄の周囲に杭(水杭(みずくい))を立て、水盛りといって水平に板(水貫(みずぬき))を渡し、水糸を張り、測量器械によって確かめながら、柱や壁の中心線や基礎の高さを記す。水杭は頂部を斜めにとがらせ、触ったり動かしたりしないこととする。
●仮設物 工事中の下小屋(したごや)や、資材置き場、足場などを整える。
[茶谷正洋]
●根伐 「ねぎり」と読む。基礎をつくるため土を掘る。
●地業 「じぎょう」と読む。基礎の下の地盤を強くするため、割栗石(わりぐりいし)を突き固めたり、杭を打ったりする。
●基礎作り 基礎のコンクリート用型枠で囲む。鉄筋を組み、木造や鉄骨造の場合、アンカーボルトが正確に立つように固定してコンクリートを打ち込む。ブロック造はアンカーボルトでなく鉄筋を立ち上げ、コンクリート造も柱や壁の鉄筋を立ち上げておく。コンクリートが固まったら型枠を外す。
[茶谷正洋]
●建方 木造では土台、鉄骨造では柱をアンカーボルトに固定し、骨組を組み上げていく。ブロック造ではブロックを鉄筋の間に積んでいく。コンクリート造は、鉄筋を立ち上げて、型枠で囲み、コンクリート打ちしていく。
●上棟式(棟上げ) 構造体ができあがったところで祝いをする。木造や鉄骨はあっという間に建っていくのでみごとである。
●屋根など 下地(したじ)の防水をしてから屋根を仕上げる。これで、雨の日でも工事が進められる。外壁、外まわりの窓、床の下地など、順を追ってつくっていく。
[茶谷正洋]
設備のうち、壁や床の中に配管や配線を通し、仕上げ工事のあとで器具を取り付ける。
[茶谷正洋]
内壁、天井、床と汚れない順序で仕上げていく。建具、塗装、畳で仕上がりに近づく。
[茶谷正洋]
建物の内部工事に並行して、門塀、庭などがつくられていく。
[茶谷正洋]
後かたづけ、清掃、竣工検査、鍵(かぎ)の引き渡し、支払い、引越し、買い物、登記、税金、借金の返済等々。
[茶谷正洋]
室内の空間を構成する床、壁、天井の材料は、雰囲気を出すうえで、距離感のある外壁などの見え方よりずっと近くなり、また人の身体や動作に近接するため、素材の質感、色、形、触感の好ましさが重要になってくる。木は自然で暖かみがあり、肌ざわりがよいが、乾燥収縮により寸法が狂いやすく、傷みが早い。鉄は強く細くしなやかだが、人工的で冷たく、さびやすく、音や熱が伝わりやすい。コンクリートは硬く厚いが、冷たく、ひびが入りやすい。プラスチック系のものは色や形の選択がやさしく、水に強く、汚れをとりやすいが、傷がつきやすく、火に弱く、静電気で汚れやすい。材料の長所を生かし、短所を補うために、取り替えやすくするか、古くなって味わいの出るように使いたい。
[茶谷正洋]
配置式の置き家具や組立て式の既製品をそろえたり、部屋にあわせて作り付けとする。長もちする家具を選ぶとインテリアをたいせつにする気持ちが育つ。本来的な選び方のほかに、洋家具を和室に、和家具を洋室に置くくふうの成功することがある。床の敷物、窓のカーテン、ブラインド、すだれ、照明器具、観葉植物など、インテリアの雰囲気を効果的にする。
[茶谷正洋]
住生活の快適と安全のために、建物の管理、美観の維持が必要である。地震、火災、盗難のように急激にくるもの、台風のように予報されるもの、腐食、ひび割れ、汚れなど、徐々に進んで気づくもの、雨漏り、水漏れ、結露、ゴキブリのように繰り返されるものに対し、抜本的な対策、ときどきですむ補修、続けなければならない清掃や保険などがある。材料の耐用年数は、使われる場所によって違ってくるが、ていねいに住まい、手入れして長もちさせる楽しみが欲しい。
[茶谷正洋]
●基礎 軟弱地盤で、不同沈下して家が傾いたときは、ジャッキで家全体を持ち上げ、じょうぶな基礎につくり直す。床下が湿気で腐食しないよう換気口からの通気をよくする。
●土台 シロアリがつかないように、薬品処理済みの木材とするか、銅板やアルミ板の見切縁を基礎との間に挟む。シロアリがついたときは、通路を追って、立ち枯れの木など巣の元を確かめ、木屑(きくず)なども徹底的に除き、取り替える。
●外壁 延焼のおそれがある範囲は、屋根の庇(ひさし)とともに、防火不燃材料とする。地震や台風に対しては、筋かいや控え柱などの斜材で補強する。
モルタルやコンクリートのひび割れは、表面だけではなく、幅の小さいひびほど幅の伸縮率が大きいものである。同色の非硬化性(ゴム性)コーキングを詰めるか、むしろ幅を大きく手術して直す。根本的には下地(したじ)からつくり直す。
●屋根 端部の材料が台風で飛びやすいので、緊結し直す。雨漏りする部分は晴れた日に水をかけ、天井裏に登って、徹底的に原因の箇所をつきとめ、ホースで水をかけても漏らないように直す。雨樋(あまどい)をのぞいてみたり、雨の日に見て回る。
●建具 建てつけが悪くなったら、蝶番や戸車を替え、溝に滑る材料を敷く。傾くときは、見栄えがよいように付け縁や枠をまわし、ソフトテープですきまを防ぐ。ガラスは水ぶき、からぶきですむが、ふくときに危険がないようにくふうする。ひどい汚れに洗剤を使ったあとは、よく水ぶきする。アルミサッシは清掃してクリアラッカーを塗る。鉄部は、さびをよく落とし、亜鉛系の防錆塗装をしてから仕上げる。
防犯の戸締りは、小さな窓にも注意する。
●照明 屋外の照明は、表札以外は、家のほうでなく外に向け、暗がりがないようにする。暗いほうからはガラス越しに中がまる見えになる。
[茶谷正洋]
●床 重いピアノや大きな水槽、本棚は、1平方メートルにつき150キログラムと計算した住宅の床の荷重を部分的に超えるので、床板の下の根太(ねだ)の数を増やし、束(つか)を立てるなど補強する。木の床は、水ぶきを避け、からぶきする。ワックスで手入れするときは、乾いたのちからぶきする。
畳は、目に沿って掃くほか、からぶきする。インキの汚れは中性洗剤のあと、からぶきし、墨汁はご飯粒をすりつけてふき取り、油はベンジンのあと水ぶきとからぶき、焼け焦げはオキシドール漂白か、スチールウールでこすったあと同質の紙を貼(は)るか、同じ畳表を重ねて同じ寸法にうまく切り取り、体裁よく糊(のり)貼りする。
●柱 白木(しらき)の柱は、専用ワックス、はたくだけ、からぶきとする。水ぶきは、汚れがしみ込む。汚れやすいところは、つや消しのクリアラッカーを使う。床(とこ)柱(床の間の柱)は、昔は糠(ぬか)袋で磨いて深いつやを出したが、いまは仕上げ済みで、からぶきか、ときどきワックスをかける。
●内壁 汚れはきれいな消しゴムでとる。塗ったり貼ったりした仕上げは、何年かごとに全面的に仕上げし直す。部分的に直しても目だってしまう。かびや、押入れの結露は、断熱材を貼り、換気をよくして、仕上げ直す。衣類など保存するものは、ポリエチレン袋にしまう。コンクリート部分の湿気や結露は、新築後1年間は、コンクリート自身の水分による。1年以後の湿気や結露やかびは、表面が冷えるためなので、断熱性のある材料で、表面が冷えないようにする。
●建具 襖表(ふすまおもて)や障子紙の張り替えは、畳替えとともに気分一新の日本人の知恵である。ガラス窓の結露は、ガラス自身を二重にするか、乾燥空気を閉じ込めた複層ガラスにする。あるいは、結露を前提にして、水のたまる縁を皿状にして、外部に細いビニル管で排水する。
●天井 照明器具と同様に、はたく程度にして、見苦しくなったら取り替える。
[茶谷正洋]
●台所 電気、ガス、火、煙、熱気、におい、水、排水、厨芥(ちゅうかい)と、工場よりも厳しい場所なので、汚れも早く、防火的で換気よく清潔なことが要求される。レンジフードの排気扇を汚す油を定期的に除き、においが残ったり移らないよう、流し、調理台、ガスレンジ、食器戸棚、冷蔵庫、食品庫の清掃を心がける。
食物を扱う場所で、一年中、病原菌やウイルス、寄生虫の卵を伝えるゴキブリの絶えないのは残念である。ゴキブリの出入りするすきまをなくすくふうや、ゴキブリの嫌う弱電流などに期待したい。
●浴室 浴槽はクレンザーやたわしでこすると表面に傷がついて、次の汚れがつきやすくなる。スポンジに中性洗剤で洗うのがよい。
●便所 陶器はクレンザーや塩素系洗剤を棒たわしにつけてこする。タイルの目地は白セメントモルタルで、酸に弱いので、塩素系洗剤は避ける。
[茶谷正洋]
防火、準防火地域外で、床面積が10平方メートル以内の増改築は、木造2階建てか平家で延べ面積が500平方メートル以下、その他の構造で平家建て延べ面積200平方メートル以下ならば、建坪や容積率の範囲内で確認申請を要さない。
家族が増えたり成長しての増築を詳しく予定しても、そのときになると変わっていることが多いから、敷地の中にあとから建てられる空間を残しておく程度にする。別棟や平家建ての増築は容易だが、2階への増築は、柱や階段の位置が限定されるので少し複雑になり、取り壊し部分の工事費が増え、工事中の不便も強いられる。木造の増改築は、他の構造に比べれば容易である。構造的に重要な柱と壁を確かめ、他の部分を動かして間取りを進めたいが、どうしても重要な柱や壁を動かす場合は、補修方法を慎重に計画すればよい。釘(くぎ)を使った古材の再使用は大工道具を傷めやすい。
大規模な改築になるときは、取り壊し新築の場合と比較して決める。古い建物が木造で建っていても、新築のときはいまの建築基準法等の適用を受ける。
改装の場合、仕上げの変更は、下地まで調べてみる。設備の変更のうち、古い配管はそのままにして殺しておき新しく配管することが多い。冬寒く夏暑い家でも、床や壁、天井に断熱材を入れれば快適になる。
[茶谷正洋]
賃貸住宅、賃貸マンションも含めて、これらを選ぶときの心構えは、敷地を選ぶときと共通している。いずれも、方位、環境、交通の便など、実際に建っているからわかりやすく、住む側にたっての値うちを納得して決められる。
新築の場合は、工事中や着工前に売り出されることが多く、部分的な、ときには根本的な注文が可能になる。完成後や中古の場合には、買ってしばらく住んでみて手を加えるかどうか決めたり、あらかじめ費用と時間を見込んで改修後に入居する。
雨漏り、ひび割れ、補修のあとを見て回り、設備は生きているか、口頭で確かめたうえに、見せかけになっていないか実際に運転して確かめる。
分譲マンションの場合には、構造体や共用部分に手を加えることはできない。賃貸の場合は、改装が済んでおり、自分で手を加える必要はないようになっている。退居時に元どおりにすれば、好みの改装は可能である。極端に傷めた部分は、補修費として請求される。
これらを買ったり借りる立場にたつと、構造体は古くても、仕上げや、まして設備が新しくしてあると、すぐ快適に住めそうで、とても印象がよい。仕上げや設備が古いままだと、すぐ改装するにせよ、安くても買う気にならないのは不思議である。売る立場になると、どうせ買う人が好きな仕上げにするのだからむだはしたくないと思うが、実際には違っているのがおもしろい。
[茶谷正洋]
『M・ポーター、A・ポーター著、宮内悊訳『絵でみるイギリス人の住まい1 ハウス』(1985・相模書房)』▽『M・M・フォリー著、八木幸二・野口昌夫訳『絵でみる住宅様式史』(1981・鹿島出版会)』▽『太田博太郎著『日本建築史論集Ⅱ 日本住宅史の研究』(1984・岩波書店)』▽『太田博太郎著『床の間』(岩波新書)』▽『平井聖著『図説・日本住宅の歴史』(1980・学芸出版社)』▽『平井聖著『日本住宅の歴史』(NHKブックス)』▽『『新家庭百科事典6 住宅、インテリア、園芸』(1968・講談社)』▽『日本建築学会編『設計製図資料8 住宅平面図集1』(1970・彰国社)』▽『清家清・森下清子著『新しい住居の科学』(1977・同文書院)』▽『日本建築学会編『建築設計資料集成1~10』(1978~83・丸善)』▽『清家清著『住宅設計ハンドブック』(1979・オーム社)』▽『清家清著『住宅設計の手法』(1980・新建築社)』▽『清家清編著『住居論』(1982・旺文社)』
住宅とは人間生活を入れる器と考えることができる。あらゆる建築は程度の差こそあれ人間の住に対する要求を実現するためにつくられたものであるが,住宅はその中でもっとも直接的,基本的な要求にこたえ,家族生活の拠点となるものを指すことが多い。原始時代には建築の種類は住宅だけであったが,生活が複雑になるにつれ,住宅からいろいろな機能が外に分化,集約化されるようになる。例えば,古代における倉庫,宗教建築に始まり,近代の学校,病院,娯楽施設,宿泊施設,商店,飲食店,工場,事務所などの発生がそれである。また,今後の情報技術の発達によって外部化した機能の一部が再び住宅内に戻る可能性もある。こうした流れの中で現代の住宅の主たる機能を考えると,それは家族の休息と家族間の交流にあるということができよう。住宅の機能は時代によって変化すると同時に,気候,風土,文化といった地域性によっても異なり,その形態も人々の生活に応じてさまざまな形をとる。また,現実の住宅の形態が人々の生活を空間的に規制する面もあり,住宅と生活とは密接に影響しあっている。ここでは現代における住宅の機能,構成などを中心に話を進めることにし,住宅の歴史については〈住居〉の項目を参照されたい。
住宅は用途,世帯の属性,所有形態,集合化の程度,立地,様式などによって分類される。用途別には専用住宅と併用住宅とがある。居住以外の用途を含んでいるものを併用住宅といい,店舗,作業場,倉庫などが居住部分に併置されたものや農家などがこれにあたる。また,居住部分以外に診療室をもつ医者,アトリエをもつ芸術家や建築家などの住宅も,これに近い性格のものといえる。世帯の属性別には一般世帯用住宅,複数世帯用住宅,単身者用住宅があり,居住者の属性によりやや特殊な配慮を必要とするものとして老人向け住宅,身体障害者向け住宅などがある。所有形態別には,居住者がみずから所有する持家(個人住宅),所有せずに借りて住まう借家(賃貸住宅),会社や官庁がそこに勤める人のために用意する給与住宅に分類できる。また,集合化の程度により戸建住宅(独立住宅),2戸建住宅,連続住宅,共同住宅に,立地により都市住宅,別荘,農山村住宅,漁村住宅などに,様式により和風住宅,洋風住宅,折衷住宅などに分けることもできる。
敷地のもつ条件は,そこに住む人の生活に直接関係し,住宅の計画に大きな影響を与える。通勤通学などのための交通,日常の買物,学校,病院,図書館,公園などの公共施設の有無といった立地条件は,家族が社会生活を営むうえでの利便性に大きくかかわる。敷地の広さ,形状,傾斜,地盤,水はけなどの物理的条件や,近接する建物の形態や種別,騒音源の有無などの敷地周辺の状況は,日照,通風,眺望,プライバシー,静かさなどの居住性や,地震,台風,火災に対する安全性にかかわる。これらの物理的な条件は,住宅の計画・設計を強く規定するが,多少条件が悪くても建築上の配慮やくふうで住宅の居住性や安全性を確保することは可能である。このほか,敷地との関係で住宅の構造・規模・高さを制限する法的条件,敷地と道路との関係,上下水道,ガス,電話の整備状況なども住宅の計画に影響を与える。これらの諸条件は相互に関係し,また人によって重視する度合も異なるので,敷地選定の際には,土地に投じうる資金を勘案のうえ,総合的に判断する必要がある。住宅まわりの外部空間は,住宅内部と相補って住生活を支える重要な場で,植木草花の観賞・手入れ,軽い運動,物干しなどの戸外生活や駐車に使われると同時に住宅内部の居住性を確保するための緩衝空間でもある。このため建物の計画や敷地内の住宅の配置はこれらを考慮し外部空間の計画と一体に検討しなくてはならない。
住宅の構造は地域の風土,材料,技術と密接に関連しながら発達してきた。構造方式には,荷重を壁によって支える壁構造と,柱,はりによって支える軸組構造とがある。壁構造は,部屋の形成に必要な壁を構造的にも活用したもので,壁の量や配置には構造上の制約を受ける。これに対し軸組構造は,壁に関しては自由で,大きな開口部をとることができ,日本のように湿度の高い気候には,通風を確保しやすく有利といえる。軸組構造による木造住宅は日本の気候,風土にはぐくまれてきた長い伝統をもち,身近な親しみある素材であることや増改築が容易で生活の変化に対応しやすいことから普及率は高く,筋かいや方杖などを有効に配すことで,2階程度であれば耐震性を確保できる。また近年,壁構造による木造住宅として,アメリカやカナダにおける一般的な住宅工法である枠組壁工法(ツーバイフォー工法などがこれにあたる)も日本で用いられるようになっている。これら木造住宅では,耐久性の向上には,雨や地面からの湿気に対し,木部の乾燥,換気に十分留意しなくてはならず,また,都市内の高密な場所では,防火に対する処置が必要となる。一般的な鉄骨造は軸組構造で,耐震性に優れ,現場での加工が少なく工期は短くてすむ。高熱下での鉄の耐力低下に対する耐火性,防錆,断熱,遮音には配慮を要するが,軽量気泡コンクリート板を外壁に用いることなどにより,これらの弱点を補うことができる。鉄筋コンクリート造は耐震・耐火・耐久・遮音性にたいへん優れるが,工期は長く,重量が大きいことから地盤によっては基礎工事に多大な費用を要する。ラーメン構造と呼ばれる軸組構造と,壁構造とがあるが,前者の場合,柱,はりが太くなり,これらが室内に突出し家具の配置を制約することもある。壁構造の典型である煉瓦造や石造などの組積造は地震に弱く日本では一般的でないが,部材が小さく,運搬,施工は容易である。補強コンクリートブロック造は,この利点を生かし,工場生産されたコンクリートブロックを鉄筋とコンクリートで補強したものである。なお近年では,専門労務者や技術者の減少を背景に,工場生産の比重を大きくし,品質の向上,コストダウン,工期の短縮を意図したプレハブ住宅が発展しており,その構造は各種多様である。
→プレハブ建築
住宅は,風雨,地震,火災から安全であり,衛生的で,明るさ,温湿度などの室内気候が適当でなくてはならない。また家事労働や生活のある部分については便利さや労力の軽減が計画目標となる。しかし,住宅が居心地のよい場所であるためにはこれら生物的側面への配慮,機能性の追求だけでなく,人間の社会的・精神的側面への適否が考えられなくてはならない。これらの条件を満たすためには,敷地,構造,部屋の構成と各部屋の広さ,意匠,設備などの要件が相互に関係しており,おのおのについての十分な検討と総合的な判断が必要となる。
住宅の構成とは,住宅内でのさまざまな生活を相互の関係で大きくいくつかに分類し,各生活ができるだけその目的に沿って円滑に営まれるよう,場や部屋を計画し配列することを指す。住生活は生活の主体,行為によって分類することができる。主体別には,家族構成員別,性別,おとなと子どもといった主体の属性によって分けたり,個人的な私的生活と集団的な公的生活とに分ける方法などがある。住宅内での生活行為,活動は多岐にわたる。生物として生存していくために必要な行為には,食事,睡眠,休養,排泄,生殖,育児があり,これら生理的生活を補助する行為として家事,整容などがある。また,家族間あるいは家族以外の人との関係を維持・強化していくためのだんらんや接客といった対人的な行為,精神的な休息や充足を得るための娯楽,読書,音楽の鑑賞,創作,学習,思索といった行為があり,これに職業上の行為が加わることもある。これらの生活行為は,騒がしいか静かか,活動的か静的か,家具や道具との関係で場所が限定されるかどうかによっても分類できるし,行為の頻度によって日常的行為と非日常的行為とに分類することもできる。ヨーロッパでは,生活を行為別に機能分化してとらえ,おのおのに〈食事室〉〈寝室〉といった部屋をあて,個人の場の独立性を重視するのが一般的な構成原理となっている。これに対し第2次世界大戦前の日本の住宅では,主人中心の接客を主体とする〈おもて〉と,家族の日常生活を主体とする〈うち〉とを大きく分け,おもてとなる座敷を重視するのが基本原理となっており,日常生活空間においては行為別に部屋が分化してはいなかった。戦後になって西欧からの影響もあり,食事と就寝の分離,家族の就寝室の独立と居間の確立が提唱され,伝統的な住宅の構成と西欧型あるいは近代化型の構成とが混合しているのが現代の日本住宅の姿といえる(図)。住宅の構成を決める生活の分類は地域や時代によっても異なり,また,多面的な意味をもつ生活を一つの軸のみで分類することはむずかしく,いくつかの分類軸を複合させて住宅の構成を考える必要がある。生活の分類にある程度の妥協は避けられないが,どのような軸で分類するかは各家族の性格や重視する生活と住宅の規模を総合的に判断し,妥協による損失が各家族にとって最小になるよう決定するのが望ましい。
分類された生活どうしの関係には,一体的,連続的であるほうが望ましいものから,生活を安定させるためには明確に他の生活と分離するほうがよいものまでさまざまな程度が存在し,場の設定や部屋の配列にはこうした生活間の関係を考慮しなくてはならない。分離の度合には動線的,視覚的,音的な要素が関係する。動線的には,距離や連結方法,すなわち直接的な連結,通路を介しての連結,階段を介しての連結によって分離の度合が異なる。境界に用いる材料によっては,石やコンクリートのような厚い壁による明確な分離,ふすまのように視線は遮断するが音的遮断性の弱い分離,透明ガラスのように視覚的な連続性を保ちつつ音を遮断する分離などを実現することができる。また吹抜けや中庭を介することで直接的な動線を遮断しながらも視覚的,音的な連続性を生み出すこともできる。
住宅の各部は居住部分,サービス部分,収納部分および通路に分けることができる。寝室,子ども室,書斎,勉強室などの個人的な使用が主となる場,食事室,居間,遊戯室など家族が集まり共用する場,応接室,客間といった接客の場が居住部分にあたる。サービス部分には,便所,浴室,洗面所などの生理・衛生のための場,台所,洗濯室,家事室,機械室などの家事作業のための場がある。収納部分は納戸,押入れ,戸棚など,通路部分は玄関,ホール,勝手口,廊下,階段などである。住宅の構成によってこれらおのおのが独立した部屋になるとは限らず,いくつかが複合して一つの部屋を形成することも多い。住宅はあまり細かくくぎると各室が狭くなりかえって使いにくく,生活の連続性や家族の一体感を損なうことにもなる。広い空間をつくるためには一つの部屋をうまく使い分け兼用することも考えなくてはならない。以下に主要な住生活の場をこれらの室名に対応させて計画上の考え方を説明する。
主たる目的は就寝にあるが,更衣,整容や個人的な生活の場ともなる。睡眠のためには,外部や浴室,便所からの騒音に対する遮音性,明け方の光に対する雨戸,カーテン,ブラインドによる遮光,換気などが基本的条件となる。夫婦の寝室(主寝室)は性愛のための場でもあり部屋の独立性が確保されなくてはならない。就寝形態には布団とベッドの両様があるが,布団の場合には室内にその収納場所が,ベッドの場合にはベッドメイクのための空間がベッドの周囲に必要となる。また室の広さの決定には,衣類の収納場所,たんす置場の検討が必要であるし,乳幼児をそばに寝かせる場所も考慮しなくてはならない。また主寝室に多少の余裕をもたせ,夫婦ふたりだけのくつろぎの場とする住み方もあり,このように主寝室は単に寝るためだけの場所としてではなくその前のさまざまな行為まで含めて考える必要がある。
→寝室
子どもの就寝の場であると同時に遊びや勉強などの個人的生活の場ともなる場合が多く,その様態は子どもの成長段階によって大きく変化する。学齢以前の段階では,親と同室に就寝することが多く,この時期は家全体が子どもの遊び場となるが,将来の子ども部屋を遊び場,玩具置場にあて,他室が散らかるのを最小限に抑える住み方もある。小学生くらいになると親とは別の部屋で就寝するようになる。この段階では必ずしも個室を与える必要はなく,一室の子ども部屋を子どもたちが共用することも多いが,この場合ある程度の広さが必要となる。中学生前後になると自分専用の個室をもつようになるが,同性の子どもの場合には同室でもよいとする考え方もある。このような変化に対応するには増改築によるのが一般的であるが,子どもが小さい間は広い一室を子ども部屋とし,個室が必要になった段階で間仕切ることができるように計画しておくという方法もある。個の確立を促すために,適当な時期に子ども専用の場を与えることはたいせつであるが,部屋の広さ,独立性は必要最小限におさえ,食事室や居間などの家族共用の場との連続性を保つことが望ましい。
家庭での食事は,単にものを食べるということだけでなく,食べるという基本的な生活行為を核に家族や友人が集まることに重要な意味がある。また食事は調理,配膳,後片づけといった台所作業と密接に関係する。食事の場と台所を一体にしたいわゆるダイニングキッチン(DK)形式は,機能的には便利で,台所作業をしながら家族と会話することができるという利点もある半面,落ち着いた食事や改まった食事には雰囲気上好ましくない面もある。これに対し,台所から独立した食事室は雰囲気的には落ち着くが,日常的な使用には家事労働面での負担が大きくなる。DK形式をとる場合,食事をする部分にはゆとりある広さを与え採光などの部屋の居住性には十分注意し,台所部分には雑然としないよう十分な収納を用意すると同時に機能性のみならず意匠面での配慮が必要である。また食事の場を台所と別にもうける場合には,台所内に簡単な食事程度はとれる場所を用意するのが望ましい。居間との関係については,居間と食事室とを分け場所や雰囲気の変化を楽しむ住み方もあるし,部屋を分けずに広さを確保し台所作業と食事とくつろぎの場の連続性を重視する,いわゆるリビングダイニングキッチン(LDK)形式の住み方もある。
居間とは家族共用のくつろぎの場である。また対話や共同の行為を通して家族間のきずなを維持,強化する場でもあり,家族の精神的共同性を支える住宅の中心と考えることができる。居間での生活は多岐にわたるが,そのしつらえに定型はなく,その家族の個性が自由に表現され居心地のよい場所となるよう心がけるべきである。ソファは絶対に必要なものではなく床にじかに座る生活もある。また居間に置かれるものもそこでの家族の生活によってさまざまに異なるが,それらの配置,収納を考慮して部屋の広さ,壁面の量を決めなくてはならない。ある程度のまとまった壁面は絵画や写真を飾るうえでも必要となる。居間での生活あるいはしつらえの自由度は,部屋の広さ,プロポーション,壁面量,開口部の位置に影響され,なかでも広さの与える影響が大きい。
→居間 →台所
第2次大戦後,主人のための座敷や応接間といったそれまでのいわゆる〈おもて〉としての接客空間に対する批判もあり,客は家族の日常生活の場でもてなすべきであると主張された。また戦後の狭小な住宅の中で,家族の生活を犠牲にしてまで専用の接客室を確保することは困難でもあり,接客行為は居間に内包されるようになった。しかし,改まった客を意識してきちんと整えられた居間のしつらえは家族の日常のくつろぎには必ずしも適さず,家族主体の自由な部屋の使い方を規制する結果となることもある。客に対する考え方は家族によって異なり,居間で改まった客をもてなすことに問題の少ない場合もあるが,居間を家族中心の部屋としてその本来の目的を取り戻すために,専用の接客室を確保することが有効な場合も多い。また人間が社会の中で生きていく以上,たとえ頻度が少なくとも家に客を招きもてなすことの意義は大きく,住宅の中にもそれにふさわしい空間が用意されることは必要である。またこれからは接客室は単なる接客の場としてだけでなく,おとな中心の静的な生活の場,あるいは家族の日常生活における改まった場として,くだけた居間と使い分けるような住み方のくふうが考えられてよい。
→応接間 →客間
住宅は家族の所有物を収納,保存するところでもある。日常使う物はできるだけ使う場所に近いところに収納するようにすれば,とくに気を使わなくても室内は片づきやすい。また自分のなじみの物を自分のまわりに置くことで領域感が生まれ居心地がよくなることも多い。日常的には使用しないが季節や行事によって使う物もあるし,現在では使わなくなっているが家族の思い出がこめられていて簡単には捨てがたい品々も多い。これらの収納には,納戸や物置のほかに,通路の壁面を利用した収納も面積の節約には有効である。現代の消費文明は住宅の中の物を年々増加させる傾向にあり,将来に対しても十分な収納空間を確保しておく必要がある。
通路は各部屋間の動線を処理する空間であると同時に各部屋の独立性を保証する空間でもある。住宅の面積を節減するために通路を省略し部屋の中を動線処理にあてる方法もあるが,独立性や落着きを必要とする部屋に通過動線をもち込むことは避けるべきである。また移動時の意識の変換という精神的な意味を考えれば,通路は単なる移動のための空間としてだけではなく採光や庭とのつながりにも留意したい。
→廊下
近年,生活の西欧化が進み,床にじかに座ったり横になったりする座式の伝統をもつ日本の住宅の中にもいす式の起居様式が浸透しつつある。食事室,子ども室のいす座は一般化しており,今後夫婦寝室でのベッドの使用も増加することが予想される。一方,座式の生活に対する愛着も根強く残っており,とくにくつろぐときにはソファのある居間においても床の上にじかに座る起居様式が生きている。座式の生活を前提に成立した和室においては座ったり寝たりするための特別の家具を必要とせず,部屋を自由に広く使え,簡単なしつらえの変更で部屋の用途を転用することが可能である。これに対しいす式の生活は機能的ではあるが,生活行為ごとに目的に合った家具,すなわちテーブル,いす,ソファ,ベッドなどが必要となり,これらの家具の置かれた部屋の用途は限定され,家具を配置するためにある程度の広さが必要となる。日本では古くから人体寸法に基づく1間,すなわち6尺を単位とする寸法体系が生産とも結びつき,住宅の寸法や広さの感覚の基盤を形成してきた。現在でも10m2の部屋というより6畳というほうが広さを実感できる人が多い。洋室の計画においてもこの寸法体系に規制される面があるが,洋室は家具の大きさ,配置を検討したうえで部屋の寸法,広さを決定する必要がある。また玄関での履き替えの習慣のある日本では,洋室の中でも座式の生活が可能であり,床面を生活面として活用することも検討されてよい。和室は伝統的な日本の住い全体の構成やそれを支える住様式や文化と一体となり今日まで生き続けており,精神的安らぎの場としての和室に対する憧憬は強い。日常生活でのいす座の一般化が予想されるこれからの住宅において,和室らしい和室を残すとすれば非日常的な使われ方をする接客空間が考えられ,和室のもつ転用性は客との応接,食事や客の宿泊といった数種の接客行為に対応しやすい。
住宅の外観や内部の意匠には居住者や建築家の個人的な好みや美意識が強く反映される。ただし,住宅の外郭は内部の生活を保護するだけでなく,敷地周辺の環境を形成する一つの要素でもあり,その意匠は周囲との調和あるいは周囲の環境の向上に寄与するものでなくてはならない。一方,内部(インテリア)の意匠は,住生活における精神的な安らぎや満足感に深く関与し,室内の雰囲気を決める床,壁,天井の材質や色彩,家具,照明,カーテン,絵画・観葉植物などの室内装飾品や室内小物など居住者自身によるくふうや演出によるところが大きい。室内の意匠には,日本の伝統的な座敷のように物をほとんど置かず床の間の飾りつけに凝縮するやり方もあるし,西欧住宅の居間のように家族の歴史を物語る写真,記念品や絵画,装飾品で室内を飾りたてるやり方もあり,方法はさまざまであるが,住む人の考え方や美意識にかかわる個性が表現されているのが好ましい。また,現代の日本住宅の中にも,季節を表現したり行事にかかわる簡単な飾りつけができるような床の間にかわる場を用意しておくことはたいせつであろう。
住宅の室内環境は温度,湿度,空気の清浄さ,明るさ,静かさなどの状態によって決まる。快適な室内環境は建物と設備によってつくり出される。設備はそれを機能させるために費用を要し耐用年数も限られているから,きびしい自然条件を緩和すると同時に自然の恩恵をできるだけ活用するような建物のくふうを第一とし,設備は補助的な手段と考えるべきである。室内の温熱環境の調整には,日射の制御,通風,建物の断熱などの建築面での配慮が重要となる。太陽の高度が夏は高く冬低いことを利用すれば,ひさしの出によって夏は太陽を遮断し冬はとり入れることができる。住宅の南面での太陽からの受熱量は夏に最小で冬に最大となり,南向きの住宅は熱的には有利といえる。また芝生などによる照返しの緩和や植栽による日射の制御も考えられる。夏の蒸暑さを緩和するには通風の確保が有効で,その地域での夏の風向に合わせて風が通り抜けやすいように風上と風下の両方に開口部を設けるようにするとよい。日本では,通風が確保されれば冷房設備なしにすますことのできる地域が多いが,冬は暖房設備がどうしても必要となる。暖房設備の選択には設備や維持の費用,安全性,空気の汚染,温度制御の容易さなどを考慮する。また暖房機器が室内の家具配置を規制することもあるのでその設置場所には注意を要する。天井の高い部屋には放射式の床暖房が有効であり,この方式は,頭部より足もとのほうが暖かい快適な室内温度分布が得られ家具配置に制約を受けることも少ないが,暖まるまでに多少の時間を要し設備にも少なからぬ費用を要する。外部の温度変化を緩和し冷暖房の効率を上げるには,気密性の高いサッシュや断熱材を用いるなどにより断熱性の高い建物にする必要がある。開口部分の多い日本の住宅において開口部からの熱の出入を防ぐには,雨戸やカーテンのほかに複層ガラスの普及が望まれる。
室内の明るさは採光と照明によって確保される。自然光には直射日光と大気中の微粒子によって拡散された天空光とがある。直射日光は明るすぎ室内の明暗の対比を大きくするので目が疲れやすく,採光には天空光を利用するのが望ましい。直射日光はひさしで遮断したり,障子,カーテン,ブラインドなどで柔らげる。採光は窓の位置や大きさに関係するが,窓が取りにくい場所や,取っても採光上有効でない場合には天窓の活用が考えられる。照明はその部屋での生活や行為によって選択する必要があり,とくに細かい作業や読書には十分な明るさの確保と陰をつくらないよう光の方向に注意する。
おとな1人当り1時間に約6畳1部屋分の新鮮な空気が必要とされ,汚れた空気を新鮮な空気と交換し必要な酸素量を確保するために,換気は不可欠である。最近の住宅は気密性が高く,換気には十分注意しなくてはならない。外部の騒音から室内の静粛性を守るためには,隙間をなくす,外壁や屋根に重量のある厚い材料を用いる,二重サッシュとするなどして住宅の遮音性を高める必要がある。
住宅の設備には以上のような室内環境を調整するためのもののほかに,排泄,洗面,入浴などの衛生にかかわるもの,調理,洗濯,掃除などの家事にかかわるもの,電話,テレビ,防犯,防災など情報にかかわるものがある。衛生設備はこれまで漏水に対する配慮から1階部分に設置されるのが一般的であったが,現在ではユニットバスの利用や防水技術の改良で2階に設置することも可能となり,今後は生活との関係を重視してその位置を決めることが望ましい。また給水,給湯,排水のための配管は短いほうが経済的で熱の損失が少ないことを考慮し,台所,洗濯場,機械室と関連させて考える必要もある。コンセントの位置は機器の使用場所を想定して決めるべきであり,さらに電気製品の増加を考えればその数にも余裕をもたせておく必要がある。
→換気 →採光 →室内気候 →照明
住宅の耐用年限は,建物が老朽化し物理的に使用不可能になる場合と,住宅が生活様式や社会的要求の変化に対応できなくなる場合とによって決まる。物理的な耐用年限は日常の手入れや欠陥の早期発見・早期補修によって延ばすことができる。木材は湿気が多くなると細菌の繁殖やシロアリなどの発生で腐朽が進むため,木造住宅では湿気に十分注意しなくてはならない。雨水に対しては,屋根の破損による雨漏り,雨どいの破損や落葉,ちりの詰まりによる壁面の濡れに注意し,木壁や木製の外部建具は3年に一度くらいの塗料の塗直しが必要である。土台や柱脚などの床下部分は通風を確保することで土中からの湿気を除去する必要があり,床下換気口を箱や植木鉢などでふさがないよう注意する。結露は外気温が低く部屋を閉めきりがちな冬期に起こりやすく,これを防ぐには,断熱材や複層ガラスの使用による建物の断熱性の向上,十分な換気,水蒸気を含む燃焼ガスを直接外部へ排出するような暖房設備の採用などが考えられる。とくに多量の水蒸気を発生する浴室や空気のこもりがちな押入れなどでは換気を心がける。住宅の室内はそこで生活する以上どうしても汚れもするし消耗もするが,これを放置しておくと染みや傷となって残り,対処がむずかしくなる。一方,汚れや損傷を気にしすぎて日常の生活がゆがめられることも問題で,住宅の計画時には材料の種類や掃除や交換のしやすさまで考えておく必要がある。
和風住宅の手入れは長年の習慣として受け継がれているが,洋風住宅については経験も浅く手入れに関する知識も少ない。住宅の手入れや簡単な補修に関する基礎的な知識を身につけ,工具類も用意し居住者がみずから行うようにすれば,費用も少なくてすむ。ただし専門的な判断や技術を要する事柄も多く,定期的な点検を専門家に頼むようにするとよい。維持補修のための費用は建築後年数がたつほど多くかかるが,毎年建築費の1~3%くらいを積み立てておけばいざというときにあわてないですむ。持家では生活や家族人数の変化にあわせて増改築することが多く,新築の場合より制約を受け費用も割高となる。住宅計画の最初から増改築まで考慮しておけば,空間的なむだや費用のむだは少なくなる。
執筆者:初見 学
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…
【総説】
住居の類語としては,すぐに住宅・住いがあげられる。住宅と住居を比べると,住宅のほうが人間のすみかとしての建物の側面を強く含意する。…
…資本主義経済下では住宅市場の価格メカニズムが十分機能せず,住宅の量的不足や質的低下の問題が社会現象として現れやすい。これを住宅問題という。…
…住居は人間の生存と生活の基盤であり,生命の安全と健康と人間の尊厳を守り,家庭生活の器として市民をはぐくみ,まちと文化をつくる最も基本的な人間環境であり,社会の基礎単位である。住居は都市の構成要素であるから,低質住宅の集積は不良都市形成の原因となる。住居は風土と生活に根ざして生活文化をつくり,人々の安定した居住はコミュニティを形成して暮しを支え,民主主義の土壌形成に寄与する。…
…
【日本】
民家は一般概念では庶民の住宅を意味する。しかし,民俗学や建築学の分野で使われる〈民家〉の概念はかなり限定されており,地域に密着した素材や技術を使って建設された庶民の住宅を意味する。…
…それは,平安時代の宮廷美術に代わる,新しい貴族趣味の美術としての側面をそなえている。義満が建てた北山殿の遺構である鹿苑寺の金閣(舎利殿,1398)は,それまでの住宅建築になかった三層の楼閣であり,禅宗寺院の影響が指摘されている。しかしながら,北山殿の主屋は寝殿であり,独立して建てられた会所は,唐物,唐絵の陳列場でもあった。…
※「住宅」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
一粒の種子をまけば万倍になって実るという意味から,種まき,貸付け,仕入れ,投資などを行えば利益が多いとされる日。正月は丑(うし),午(うま)の日,2月は寅(とら),酉(とり)の日というように月によって...
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