富吉村(読み)とみよしむら

日本歴史地名大系 「富吉村」の解説

富吉村
とみよしむら

[現在地名]山之口町富吉

花木はなのき村の南西に位置し、東と南は丘陵をもって石寺いしでら(現三股町)と接する。留吉とも記される。江戸時代は鹿児島藩領で、山之口郷に所属(「三州御治世要覧」など)。天文一三年(一五四四)一一月二六日の福王寺鎮守山王棟札写(三俣院記)に富吉衆として黒木喜之助・安楽喜右衛門の名がみえる。「三俣院記」によると福王ふくおう寺は薬師如来本尊とし、建武三年(一三三六)福王寺に下向した土肥実重が建立したと伝え、実重は福王寺姓を名乗ることとなる。同書には「往昔福王寺・薬王寺・立石庵、此寺今寺ケ迫ト云所江為有之由候」とあり、三ヵ寺とも山之口村修善しゆぜん寺の末寺と記される。てらさこの地については、「宮崎県史蹟調査」に載る富吉地内の字地に寺ヶ迫がみえることから、当地内と考えられる。

福王寺の薬師如来の厨子は享禄三年(一五三〇)三月一二日に檀越の源(野村氏か)忠綱らの手で造られ、天文一〇、一一年には川野氏らが薬師如来の眷属である十二神将を造り、同一〇年には脇侍である日光・月光菩薩が高野氏らの施入で造られており、当時の住持は別当海久であった(同書)。天文一三年の前掲山王棟札写は福王寺鎮守の山王社の造営棟札で、山王社は近世は永留(花木地内か)にあったが、以前は「池ノ谷頭之中尾」にあったと伝える(三俣院記)


富吉村
とみよしむら

[現在地名]宮崎市富吉

柏原かしわばる村の西に位置する。宮崎郡に属し、北東は諸県もろかた有田ありた村、西は同郡倉永くらなが(現高岡町)。観応元年(一三五〇)一〇月一三日の畠山直顕田地宛行状写(伊東文書)穆佐むかさ院富吉名とみえ、垂水九郎右衛門秀道は祖母の尼信蓮相伝の地である当名を宛行われている。垂水氏はその後も当地を所領としたようで、「日向記」の御代々覚書事に「垂水ハ冨吉ノ住人」とみえ、伊東祐重の下向の際には忠節を尽したという。年月日未詳の某坪付写(伊東文書)には「冨吉黒田分人ママ」一四町七反三〇(うち五町一〇は蔵人持)・冨吉神講田四町四反二〇とある。天正一一年(一五八三)一〇月七日の島津勢による肥後堅志田かたしだ(現熊本県中央町)攻撃の際、冨吉衆は宮崎地頭上井覚兼の手勢に組込まれていた。


富吉村
とみよしむら

[現在地名]藤岡町富吉

巴波うずま川と川の間の台地にあり、南は中根なかね村、南東蛭沼ひるぬま村。弘安六年(一二八三)四月五日大見行定置文(中条家文書)に、「下野国中泉西荒居冨吉東西郷」とみえ、行定から次男右衛門尉家政に地頭職が譲られている。同一〇年一〇月八日には将軍惟康親王家政所下文(大見水原文書)によって鎌倉幕府から安堵された。富吉東西郷地頭職は嘉元二年(一三〇四)六月八日家政から子家貞に譲られている(「平家政譲状写」中条家文書)


富吉村
とみよしむら

[現在地名]気高町富吉

河内こうち川の東岸、母木ははき村の南西に位置する。南は常松つねまつ村、河内川を挟んで南西に下坂本しもさかもと村。集落の北東方、母木村地内の山上に戦国時代の宮吉みやよし城跡がある。同城は田公氏の居城と伝え、富吉城ともよぶ。藩政期の拝領高は一八三石余、本免は五ツ二分。藪役銀四匁五分が課せられ(藩史)、堀庭氏・東館家家臣大塚氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」では家数一九。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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