寒水村(読み)しようずむら

日本歴史地名大系 「寒水村」の解説

寒水村
しようずむら

[現在地名]中原町大字原古賀はるこが西寒水にししようず東寒水ひがししようず石井いしい

原古賀村の南、中津隈なかつくま板部いたべ両村(ともに現北茂安きたしげやす町)の北に位置し、寒水川右岸の段丘が北から延びてきて標高二五―一〇メートルと南へ緩傾斜する平地に立地する。長崎街道が村内を東西に通る。慶長絵図に「寒津」とみえる。

現西寒水がもとの親村で街道から外れている。菅原道真を祀る天満神社には明治初期まで修験道当山派の宮司坊がいた。浄土真宗本願寺派長善ちようぜん寺は、もと原古賀村にあって禅宗であったが、のち改宗。一向宗由緒(寛政初の差出と考えられる)に「承平十八年草創其節ハ大聖山持福寺と申候由再興永正五年戊辰観智山長善寺と改」とある。


寒水村
かのみずむら

[現在地名]明方村寒水

吉田よしだ川支流の寒水川流域に位置し、和良わら筋と上之保かみのほ筋を最短距離で結ぶ山道の交通の要衝で、東は伊妙いみよう峠を経て西気良にしけら村、西方へは北から順に大洞おおぼら峠で栃洞とちぼら(現白鳥町)母袋もたい峠で母袋村(現大和町)東俣ひがしまた峠で東俣村(現同上)に通じる。真宗大谷派本光ほんこう寺の大永三年(一五二三)二月四日の絵像裏書に「郡上郡寒水道場」とある。村域内に領家りようけの地名があり、気良庄の領家支配地の名残と思われる。


寒水村
かんすいむら

[現在地名]今帰仁村玉城たましろ

仲宗根なはじゆに村の南西、北流する大井おおい川の左岸に位置し、南西は玉城たもーし村。地元では当地をパーマ、あるいはソーリともよぶ。パーマは浜の意で、大井川流域の上流部をさす。また寒水の名は当村の生活用水として利用されたパーマソーリガーのソーリ(清い水の意)に由来すると思われる。「琉球国由来記」に村名がみえ、祭祀玉城ノロの管轄。「球陽」尚泰王一五年(一八六二)条によると、当村および玉城村・岸本きしむとう村の三ヵ村は山間にあって多年にわたり疲弊していた。そこで三ヵ村は地理師をよんで風水をみてもらったところ、このままではますます困窮するという見立てであったので、村を移転することにし、首里王府に願出て許された。


寒水村
そうずむら

[現在地名]安心院町寒水

もと村・福貴野ふきの村の南にある。寒水川左岸に位置し、ほぼ全域が山間部である。寒水川の名は立石たていし山麓から流れ出る水の温度が低いことから名付けられたという。西方深見ふかみ川流域の黒床並くろとこなみ大平おおひらは当村の枝郷である。小倉藩元和人畜改帳に村名がみえ、高二三三石、人数一一三、百姓一二(うち庄屋一)・名子一一、牛一五・馬六。その後の郷村帳類では畳石たたみいし村の枝郷扱いで、同村に含まれて高付されていたが、実際には一村であったと思われる(享保二年中津藩郷村高帳など)


寒水村
そうずむら

[現在地名]杷木町寒水

古賀こが村の東にあり、南は筑後川を挟んで筑後国生葉いくは古川ふるかわ(現浮羽町)。古賀村との境を寒水川が南流し筑後川に合流する。応仁元年(一四六七)一〇月二八日の少弐教頼書下(歩行御判物帳/長崎県史 史料編一)で宗孫次郎が安堵された所領のなかに「杷木郷内寒水三町八段」があり、当地は杷木郷に属していた。小早川時代の指出前之帳では寒水村の田一〇町八反余(分米一一〇石余)・畠二町四反余(分大豆一二石余)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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