デジタル大辞泉 「寺坂吉右衛門」の意味・読み・例文・類語 てらさか‐きちえもん〔‐キチヱモン〕【寺坂吉右衛門】 [1665~1747]赤穂義士の一人。名は信行。赤穂藩の足軽で、吉良邸門前で逃亡したとも、討ち入り後、広島の浅野家などに事を報じたともいうが未詳。 出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例 Sponserd by
精選版 日本国語大辞典 「寺坂吉右衛門」の意味・読み・例文・類語 てらさか‐きちえもん【寺坂吉右衛門】 赤穂義士の一人。名は信行。吉田忠左衛門の組下足軽。元祿一五年(一七〇二)討入りの直後、同志と別れ広島の浅野家に事を報じたともいう。寛文五~延享四年(一六六五‐一七四七) 出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例 Sponserd by
朝日日本歴史人物事典 「寺坂吉右衛門」の解説 寺坂吉右衛門 没年:延享4(1747) 生年:寛文5(1665) 江戸中期,赤穂事件四十七士のひとり。名は信行,通称が吉右衛門。身分は赤穂藩の足軽(3両2分2人扶持)。加東郡奉行兼足軽頭で,大石良雄の相談相手の吉田忠左衛門に属した。実直・誠実な性格で重宝がられ,事件発生後は連絡係を務めることが多かった。元禄15年12月14日(1703.1.30)の「吉良邸討入り」に参加するが,泉岳寺の前あたりで消えた。諸所へ連絡のためといわれ,あるいは逃亡したかともいわれ,良雄,忠左衛門らの「かろき者の儀」という発言もあり,四十七士・四十六士説の分かれるところである。のち江戸に帰り,自首。御構いなしとされる。延享4年,江戸麻布曹渓寺の寺男として83歳で死去。その翌年「仮名手本忠臣蔵」が作られ,上演された。 (松島榮一) 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報 Sponserd by
デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「寺坂吉右衛門」の解説 寺坂吉右衛門 てらさか-きちえもん 1665-1747 江戸時代前期-中期の武士。寛文5年生まれ。赤穂(あこう)四十七士のひとり。吉田忠左衛門の組下の足軽。元禄(げんろく)15年吉良(きら)邸討ち入り後姿をけす。広島浅野家への密使説,逃亡説,身分がかるいための遠慮説などがある。幕府の処分はうけず,のち姫路藩士につかえ,晩年は江戸麻布曹渓寺の寺男となった。延享4年10月6日死去。83歳。名は信行。 出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「寺坂吉右衛門」の意味・わかりやすい解説 寺坂吉右衛門てらさかきちえもん [生]寛文5(1665)[没]延享4(1747)江戸時代中期の赤穂藩の足軽。赤穂浪士の一人。名は信行。播州浅野家に仕え,主君長矩の仇討ちに参加。吉良邸襲撃途中より姿を消し,のち自首したが不問に付された。 (→赤穂義士 , 赤穂事件 ) 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by