寿庵堰(読み)じゆあんぜき

日本歴史地名大系 「寿庵堰」の解説

寿庵堰
じゆあんぜき

仙台藩主伊達政宗家臣で福原ふくわら領主キリシタン後藤寿庵によって開削された、胆沢いさわ地方南部の用水堰。寿庵は慶長一六年(一六一一)福原領主に任命されたが、大坂の陣に鉄砲隊長として二度従軍。帰還後の元和三年(一六一七)頃、胆沢地方の荒廃をみて神父アンゼリス、カルバリヨなどから新工法を学び胆沢川揚水を計画。同川上流の胆沢郡若柳わかやなぎ金入道かねにゆうどう(茂井羅堰取入口茂井羅の上流に位置し、標高約一二〇メートル。現胆沢町)から開削を始め、運転機を用いて堰の両岸巨石を積み、長さ二間二尺・幅八尺・高さ一丈の取入口を構えて水を導き、幅二―三間、深さ二―四間の用水路九四〇間を開通させ、小山おやま大違おおたがい(現胆沢町)に至った。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「寿庵堰」の意味・わかりやすい解説

寿庵堰
じゅあんぜき

岩手県南西部を東流する胆沢川扇状地を開拓するため,後藤寿庵が造った灌漑用水路。元和3 (1617) 年後藤寿庵が仙台藩から派遣されて,胆沢川から水を引き開拓したので,この呼称がある。その後,補強修理重ね,さらに茂井羅 (もいら) 堰,穴山堰などを造り,一帯はこれにより穀倉地帯となった。

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世界大百科事典(旧版)内の寿庵堰の言及

【胆沢[町]】より

…東西に細長い町域をもち,西部は奥羽山脈の山岳地帯,中央部は胆沢川がつくる胆沢扇状地,東部は北上川の沖積地となっており,胆沢扇状地には典型的な散村集落が展開する。1617年(元和3)に伊達政宗の家臣でキリシタンの後藤寿庵が胆沢川の水を引いて寿庵堰を開削してから扇状地の開発が始まった。1953年胆沢川上流に石淵ダムが完成して扇状地の土地改良が進み,県内有数の穀倉地帯となった。…

【北上盆地】より

…また,江戸時代の北上川は船の交通路として利用され,さらに奥州道中もこの盆地を南北に通じていたため,現在の一関,水沢,岩谷堂(江刺市),黒沢尻(北上市),花巻,日詰(紫波(しわ)町),盛岡などのおもな都市群は,街道筋の宿場町や河港集落を母体として発展した。 流域は穀倉地帯を形成しているが,これは古くから鹿妻堰(雫石(しずくいし)川から揚水)や寿庵堰(胆沢川から揚水)などのような用水路の開発によって耕地が拡大されてきたことによる。しかし洪水も多く,1619年(元和5)から最近まで約80回におよぶ洪水が記録され,特にカスリン台風(1947),翌年のアイオン台風による被害は大きかった。…

【後藤寿庵】より

…1617年(元和3)10月9日付けイエズス会管区長あて文書(バチカン図書館蔵)の署名者の筆頭に〈伊達政宗内 見分村後藤寿庵〉と記されており,寿庵が仙台藩キリスト教界の支柱的存在で,見分(みわけ)(現,水沢市)を所領としていたことが知られる。自領では宣教師J.アンジェリスを補佐して教化に努めたほか,用水路(寿庵堰)を開削して胆沢川から水を引いたといわれる。23年藩主伊達政宗は重臣石母田大膳を介して棄教を命じたが,寿庵は拒んで南部領に逃れた。…

※「寿庵堰」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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