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後藤寿庵 ごとうじゅあん

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

後藤寿庵
ごとうじゅあん

[生]天正6(1578).陸奥
[没]元和9(1623)
江戸時代初期のキリシタン。五島寿庵とも書く。豊臣秀吉の小田原征伐ののち九州へ落ち,慶長 17 (1612) 年頃,伊達政宗に仕え,1200石を領した。 L.ソテロと親しく,キリシタンの伝道に努めたが,江戸幕府の禁教政策 (→キリスト教禁制 ) の強化に伴い,元和9 (23) 年頃南部に追放された。

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百科事典マイペディアの解説

後藤寿庵【ごとうじゅあん】

江戸初期のキリシタン武士。生没年など未詳。陸奥(むつ)仙台藩士で,仙台藩キリスト教界の指導者。自領で宣教師アンジェリスを補佐して布教に努め,用水路(寿庵堰)の開削なども行う。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

後藤寿庵 ごとう-じゅあん

?-? 織豊-江戸時代前期の武士。
陸奥(むつ)仙台藩士で,胆沢(いさわ)郡見分(みわけ)(岩手県)領主。奥州キリシタンの中心人物。大坂の陣のときイエズス会宣教師アンジェリスにであって奥州にまねき,その布教を支援した。胆沢川の治水事業につくし,寿庵堰とよばれる堰が現存。元和(げんな)9年伊達政宗の棄教の命令にしたがわず盛岡藩にのがれ,以後の消息は不明。洗礼名はジュアン。

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世界大百科事典 第2版の解説

ごとうじゅあん【後藤寿庵】

江戸初期,仙台藩のキリシタン武士。生没年不詳。出自,家系,受洗年などについては諸説があり,定説はない。1617年(元和3)10月9日付けイエズス会管区長あて文書(バチカン図書館蔵)の署名者の筆頭に〈伊達政宗内 見分村後藤寿庵〉と記されており,寿庵が仙台藩キリスト教界の支柱的存在で,見分(みわけ)(現,水沢市)を所領としていたことが知られる。自領では宣教師J.アンジェリスを補佐して教化に努めたほか,用水路(寿庵堰)を開削して胆沢川から水を引いたといわれる。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

後藤寿庵
ごとうじゅあん

生没年不詳。江戸前期の奥州キリシタン。陸奥(むつ)国東磐井(いわい)郡藤沢(岩手県一関市)の城主岩淵近江守(いわぶちおうみのかみ)秀信の三男で、幼名を又五郎と称した。豊臣(とよとみ)秀吉による本家滅亡の際、長崎の五島に行き、洗礼を受けて五島ジョアン(寿庵)と称した。メキシコへ渡った田中勝介(しょうすけ)の推薦により1611年(慶長16)伊達政宗(だてまさむね)の臣下となり、胆沢(いさわ)郡水沢町見分森(みわけもり)の福原(ふくはら)(奥州(おうしゅう)市水沢(みずさわ)区見分森)の地に1200石をはんだ。奥州キリシタンの中心人物として活躍し、政宗の棄教命令も退け、信仰を守り通した。1623年(元和9)の暮れから1624年(寛永1)の初頭、追放の身となり、南部(なんぶ)藩に去り、その後の消息は不明である。現在福原の地に胆沢川から引いた「寿庵堰(せき)」が残っている。[宮崎賢太郎]
『浦川和三郎著『東北キリシタン史』(1957・巌南堂) ▽司東真雄著『奥羽古キリシタン探訪――後藤寿庵の軌跡』(1981・八重岳書房)』

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