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小協商 しょうきょうしょうLittle Entente

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

小協商
しょうきょうしょう
Little Entente

第1,2次世界大戦間に結ばれたチェコスロバキアユーゴスラビアルーマニア3国間の同盟で,三国協商になぞらえてこう呼ばれた。上記3国は,オーストリアハンガリー帝国から独立あるいは領土を獲得したため,ハンガリー,ブルガリアによる報復,ハプスブルク王朝の復活などに対してその独立と領土を守ろうとした。チェコの外相 E.ベネシュの努力によって,1920年8月 14日チェコ,ユーゴ間に,21年4月 23日チェコ,ルーマニア間に,6月7日ユーゴ,ルーマニア間にそれぞれ同盟条約が結ばれ,ここに小協商が成立した。さらに同年7月チェコ,ルーマニア,8月チェコ,ユーゴ間に軍事協定が結ばれ,また 22年8月 31日チェコ,ユーゴ間に政治・経済協力条約が締結され,協力関係が強化された。一方ドイツに対する安全保障とバルカン進出への足掛りの確保,ソ連からの革命の影響に対処しようとするフランスは,21年ポーランド,24年チェコ,26年ルーマニア,27年ユーゴとそれぞれ同盟条約を結び,ベルサイユ体制の維持に乗出した。しかし 1930年代にはドイツの影響力が次第に東欧に浸透していき,38年9月 30日のミュンヘン協定の結果,フランスとチェコの同盟関係は崩壊し,小協商も消滅した。

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デジタル大辞泉の解説

しょう‐きょうしょう〔セウケフシヤウ〕【小協商】

《〈フランス〉Petite Entente》第一次大戦後の1920年、チェコスロバキア・ルーマニア・ユーゴスラビアの3国間に結ばれた政治同盟。ベルサイユ体制を維持するため、フランスの強力な支援を受けたが、39年、ナチスによるチェコスロバキア解体によって崩壊。

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百科事典マイペディアの解説

小協商【しょうきょうしょう】

第1次世界大戦後,オーストリア・ハンガリー二重帝国が崩壊するさなか,1920年のユーゴスラビア・チェコスロバキア条約,1921年のルーマニア・チェコスロバキア条約とユーゴスラビア・ルーマニア条約の3条約によって実現された3国間の同盟関係。
→関連項目ベネシュ

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世界大百科事典 第2版の解説

しょうきょうしょう【小協商 Little Entente】

第1次世界大戦後,オーストリア・ハンガリー二重帝国が崩壊するさなか,新生チェコスロバキア,ユーゴスラビア,ルーマニアの3国間に個別に締結された同盟関係の総称。この呼称はハンガリー人ジャーナリストが1920年に嘲笑(ちようしよう)気味に用いたのが最初とされる。オーストリアとハンガリーによるハプスブルク帝国再建を阻止することを目的として,チェコスロバキアの外相ベネシュが中心となり,ハンガリーの領土回復要求に脅威を感じるユーゴスラビアやルーマニアと相互援助を取り決めるための交渉に入った。

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大辞林 第三版の解説

しょうきょうしょう【小協商】

第一次大戦後、チェコスロバキア・ユーゴスラビア・ルーマニア三国間で結成した防御同盟。イタリア・ドイツのファシズムに対抗したが、1939年ドイツのチェコスロバキア併合で崩壊。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

小協商
しょうきょうしょう

第一次世界大戦後のチェコスロバキア、ユーゴスラビア、ルーマニア3国の友好関係をいう。当初、オーストリア・ハンガリー帝国崩壊のなかから生まれた3国の対決的態度をあざけって、ブダペストの新聞『ペスチヒルラップ』(1920年2月21日号)が用いた表現であったが、のちハンガリーやブルガリアに備えるチェコ―ユーゴ(1920.8.14)、チェコ―ルーマニア(1921.4.23)、ユーゴ―ルーマニア(1921.6.7)の防御同盟条約による提携関係を意味するに至った。
 小協商は、経済統合にも努め、東欧で独自の存在となったが、とくにその親仏的性格が重要である。当初好意的でなかったフランスは、ポーランド・ソビエト戦争(1920)を契機にポーランドに小協商への接近を促し、自らもポーランド(1921.2)、チェコ(1924.1)、ルーマニア(1926.6)、ユーゴ(1927.11)との同盟関係を確立強化し、この東欧同盟網をヨーロッパ政策の支柱に据えた。しかし、この地域はしだいにドイツへの経済的依存を強め、さらに世界恐慌以後、急速に不安定化した。
 東欧ロカルノ案など、ドイツ、ソ連、ポーランドを含む集団安全保障構想が挫折(ざせつ)したのち、これら小国は「宥和(ゆうわ)政策」の犠牲に供され、1939年3月16日ヒトラーのチェコ解体により小協商も崩壊した。[濱口 學]

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世界大百科事典内の小協商の言及

【協商】より

…協商の事例は19世紀後半から第1次世界大戦前後に多くみられる。イギリス,フランス,ロシアの三国協商(1894年の露仏同盟,1904年の英仏協商,07年の英露協商により成立),日仏・日露協約(1907),第1次世界大戦後のチェコスロバキア,ユーゴスラビア,ルーマニアの3国間に締結された小協商など。この英仏露三国協商は,第1次世界大戦が近づくにつれて,実質的に軍事同盟的傾向を強めていった実例である。…

【ベネシュ】より

…18年のチェコスロバキア独立とともに外相に就任した。国際連盟の場で,小国の利益を代弁し,連盟の強化を唱えると同時に,パリ平和条約で生み出されたいわゆるベルサイユ体制の維持を目的として,ユーゴスラビア,ルーマニアとの間に小協商と呼ばれる同盟をも結び,さらに列強の中ではフランスとの関係を重視した。35年には大統領に就任したが,38年にナチス・ドイツに譲歩してズデーテンの割譲を認めたミュンヘン協定(ミュンヘン会談)が結ばれると,ロンドンへ亡命した。…

※「小協商」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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