1938年9月29日,ミュンヘンで開かれたドイツ総統ヒトラー,イギリス首相A.N.チェンバレン,フランス首相ダラディエ,イタリア首相ムッソリーニの四大国首脳会談。翌30日未明,チェコスロバキアのズデーテン地方をドイツに割譲する,いわゆるミュンヘン協定(日付は9月29日)が締結された。イギリスとフランスがドイツ,イタリアに対してとってきた,弱小国を犠牲にして侵略者と妥協しようとした宥和(ゆうわ)政策のピークであった。
1938年3月,ドイツがオーストリアを併合すると,チェコスロバキアは直接ドイツからの脅威を受けることになった。すでに前年11月5日,ヒトラーは秘密会議で,オーストリアおよびチェコスロバキアの占領計画という〈遺言〉を明らかにしていた(〈ホスバッハ覚書〉に記録)。チェコスロバキアと相互援助条約を結んでいたソ連は,危機収拾のための国際会議を提案したが,イギリスはこれを拒否した。4月下旬にはチェコスロバキアでは,ドイツの意を受けてズデーテン・ドイツ人の自治を要求する親ナチス運動が激化した。こうしてズデーテン問題はにわかに国際化したが,イギリスは,チェコスロバキア政府の一方的譲歩による解決を働きかけ,ついに9月初めには,後者はズデーテン・ドイツ人の要求を受けいれるにいたった。しかし自治よりも領土そのものを要求していたドイツはチェコスロバキア政府への攻撃を強め,両国関係は緊迫した。チェンバレン首相は,集団安全保障方式よりも個人外交による危機管理に頼り,9月15日,22~23日の2度にわたってヒトラーと会談し,フランスを誘ってズデーテンの割譲をチェコスロバキア政府に迫った。ドイツとの対決を何よりも恐れていたチェンバレンは,ヒトラーの決意の固さを知って,いっそうドイツに対する宥和を強め,9月27日,ムッソリーニを通じて国際会議の斡旋を依頼し,ミュンヘン会談が開催の運びとなった。
10月1日,ドイツ軍はズデーテン地方を占領し,チェコスロバキアは最も重要な戦略的拠点を失った。ソ連はズデーテン危機の全局面を通じて交渉から排除され,さらにチェコスロバキアおよびフランスとの相互援助条約も有名無実となり,国際的孤立のなかで新しい安全保障の方向を模索せざるをえなくなった。イギリスの宥和政策がナチス・ドイツに対する恐怖と無力さに発していることを見抜いた小国は,中立主義を宣言するか,せまい民族主義的衝動に身をまかせた。たとえば,ポーランドとハンガリーは,チェコスロバキアから,それぞれテッシェン地方(10月),南部スロバキアおよび南部ルテニア(11月)をもぎ取った。反ファシズム人民戦線を象徴していたスペインの国際義勇軍も11月には撤退した。しかし四大国の和解も幻想にすぎなかった。チェンバレンが〈わが時代のための平和条約〉と自賛したミュンヘン協定も,翌39年3月,ヒトラーのチェコスロバキア解体によって,わずか6ヵ月にして〈ほご〉と化した。
→第2次世界大戦
執筆者:平井 友義
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1938年ドイツのミュンヘンにおいて、当時チェコスロバキア領であったズデーテン地方をナチス・ドイツに割譲することを決めたイギリス、フランス、ドイツ、イタリアの四国会談。
1933年にドイツで政権をとったヒトラーの対外侵略計画の当面の目標は、37年11月5日の秘密演説に示されているように、オーストリア、チェコスロバキアの併合であった。この計画どおり38年3月13日のオーストリア併合後、ドイツの侵略の手はチェコスロバキアに伸びていった。チェコスロバキアの内部では、ドイツと国境を接するズデーテン地方のドイツ人の間でつくられたズデーテン・ドイツ人党(指導者ヘンライン)がナチスと連絡をとりつつ、4月に「カールスバート綱領」を作成、自治を求める姿勢を示したが、その目的はドイツによる同地方併合のきっかけをつくることであった。ズデーテン地方をめぐる危機がヨーロッパでの戦争につながるのを恐れて、英・仏政府がズデーテン・ドイツ人党への譲歩をチェコスロバキア政府に働きかける方針をとったこともあり、チェコスロバキア政府は9月6日、「カールスバート綱領」の要求に沿う案をズデーテン・ドイツ人党側に提示した。ヒトラーを背後にしたヘンラインは、もちろんこのような形での収拾を望まず、交渉打ち切りを通告、ヒトラーも同月12日ズデーテン・ドイツ人の民族自決(ドイツとの合併)を求める演説を行った。このようにして危機が深化するなかで、イギリス首相N・チェンバレンはヒトラーとの会見を希望し、15日にベルヒテスガーデンで会談をもった。ここでヒトラーは、ズデーテン地方のドイツへの併合要求を正式に提示、それを受けた英・仏政府は、この要求を飲むようにチェコスロバキア政府に圧力をかけた。チェコスロバキア政府はやむなく21日にそれを承諾したが、22~23日にゴーデスベルクで再度開かれた会談で、ヒトラーはチェンバレンに対して、ズデーテン地方の引き渡し時期を早めるなど、さらに拡大した要求を突きつけた。
これによって緊張が戦争前夜を思わせる状況にまで高まるなかで、当事国のチェコスロバキアとその同盟国ソ連を除外し、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアの四国によって開かれたのが、ミュンヘン会談である。会談は、9月29~30日に行われ、ゴーデスベルクでのヒトラーの要求を大幅に受け入れる形で、ズデーテン地方のドイツへの割譲を決定した。これはドイツの侵略に対する宥和(ゆうわ)政策の頂点となるできごとであったが、その時点では戦争の危険が回避されたことに注意が集まり、チェンバレンは「われわれの時代の平和」を唱えて、イギリス国民の賞賛を浴びた。
[木畑洋一]
『斉藤孝著『第二次世界大戦前史研究』(1965・東京大学出版会)』▽『綱川政則著『ヒトラーとミュンヘン協定』(教育社歴史新書)』
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…一般に〈エブロ川の戦〉と呼ばれるこの戦闘は,内乱における最後の大規模な戦いであり,まさに全面戦争であった。 エブロ川の戦の最中,38年9月に開かれたミュンヘン会談は,西欧民主主義国がヒトラーと対決する用意がないことを示した。戦局の劣勢を挽回する唯一の活路を西欧諸国の対ドイツ戦争に求めていた共和国政府は,この結果,運命を自らの手で切り開かねばならなかった。…
…37年11月ヒトラーは秘密会議の席上,オーストリアおよびチェコスロバキアの占領計画を打ち明けていたが,果たせるかな38年3月オーストリアを併合し,次にチェコスロバキアのズデーテン・ドイツ人党を使嗾(しそう)して自治を要求させ,混乱に乗じての介入をねらった。共産主義よりもナチズムを〈より小さな悪〉として選んだイギリス保守党政府はチェコスロバキア政府に圧力をかけて対独譲歩に同意させたが,最後には38年9月,イギリス,フランス,ドイツ,イタリアの4ヵ国会談でズデーテン地方のドイツへの割譲を一方的に決定した(ミュンヘン会談)。この動きからソ連が一貫して排除されたことは宥和政策の反ソ的性格を雄弁に物語るものであり,それまで現状維持陣営にコミットしていたソ連は徹底した現実政策に立ち戻るほかなかった。…
※「ミュンヘン会談」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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