ミュンヘン会談(読み)ミュンヘンカイダン

デジタル大辞泉 「ミュンヘン会談」の意味・読み・例文・類語

ミュンヘン‐かいだん〔‐クワイダン〕【ミュンヘン会談】

1938年、ミュンヘンで開かれたドイツイギリスフランスイタリア首脳会談ヒトラーの要求を入れてチェコスロバキアズデーテン地方のドイツへの割譲を決めた。イギリス側の対独宥和ゆうわ政策の頂点を示すとされる。

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精選版 日本国語大辞典 「ミュンヘン会談」の意味・読み・例文・類語

ミュンヘン‐かいだん‥クヮイダン【ミュンヘン会談】

  1. 一九三八年九月ミュンヘンで開かれた、チェコスロバキアのズデーテン問題の収拾に関するドイツ・イタリア・イギリス・フランスの首脳会談。ズデーテン地方のドイツへの割譲が決定された。イギリス・フランスのナチス‐ドイツ宥和(ゆうわ)政策の頂点を示した会談。

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改訂新版 世界大百科事典 「ミュンヘン会談」の意味・わかりやすい解説

ミュンヘン会談 (ミュンヘンかいだん)

1938年9月29日,ミュンヘンで開かれたドイツ総統ヒトラー,イギリス首相A.N.チェンバレン,フランス首相ダラディエ,イタリア首相ムッソリーニの四大国首脳会談。翌30日未明,チェコスロバキアのズデーテン地方をドイツに割譲する,いわゆるミュンヘン協定(日付は9月29日)が締結された。イギリスとフランスがドイツ,イタリアに対してとってきた,弱小国を犠牲にして侵略者と妥協しようとした宥和(ゆうわ)政策ピークであった。

 1938年3月,ドイツがオーストリア併合すると,チェコスロバキアは直接ドイツからの脅威を受けることになった。すでに前年11月5日,ヒトラーは秘密会議で,オーストリアおよびチェコスロバキアの占領計画という〈遺言〉を明らかにしていた(〈ホスバッハ覚書〉に記録)。チェコスロバキアと相互援助条約を結んでいたソ連は,危機収拾のための国際会議を提案したが,イギリスはこれを拒否した。4月下旬にはチェコスロバキアでは,ドイツの意を受けてズデーテン・ドイツ人の自治を要求する親ナチス運動が激化した。こうしてズデーテン問題はにわかに国際化したが,イギリスは,チェコスロバキア政府の一方的譲歩による解決を働きかけ,ついに9月初めには,後者はズデーテン・ドイツ人の要求を受けいれるにいたった。しかし自治よりも領土そのものを要求していたドイツはチェコスロバキア政府への攻撃を強め,両国関係は緊迫した。チェンバレン首相は,集団安全保障方式よりも個人外交による危機管理に頼り,9月15日,22~23日の2度にわたってヒトラーと会談し,フランスを誘ってズデーテンの割譲をチェコスロバキア政府に迫った。ドイツとの対決を何よりも恐れていたチェンバレンは,ヒトラーの決意の固さを知って,いっそうドイツに対する宥和を強め,9月27日,ムッソリーニを通じて国際会議の斡旋を依頼し,ミュンヘン会談が開催の運びとなった。

 10月1日,ドイツ軍はズデーテン地方を占領し,チェコスロバキアは最も重要な戦略的拠点を失った。ソ連はズデーテン危機の全局面を通じて交渉から排除され,さらにチェコスロバキアおよびフランスとの相互援助条約も有名無実となり,国際的孤立のなかで新しい安全保障の方向を模索せざるをえなくなった。イギリスの宥和政策がナチス・ドイツに対する恐怖と無力さに発していることを見抜いた小国は,中立主義を宣言するか,せまい民族主義的衝動に身をまかせた。たとえば,ポーランドハンガリーは,チェコスロバキアから,それぞれテッシェン地方(10月),南部スロバキアおよび南部ルテニア(11月)をもぎ取った。反ファシズム人民戦線を象徴していたスペイン国際義勇軍も11月には撤退した。しかし四大国の和解も幻想にすぎなかった。チェンバレンが〈わが時代のための平和条約〉と自賛したミュンヘン協定も,翌39年3月,ヒトラーのチェコスロバキア解体によって,わずか6ヵ月にして〈ほご〉と化した。
第2次世界大戦
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ミュンヘン会談」の意味・わかりやすい解説

ミュンヘン会談
みゅんへんかいだん

1938年ドイツのミュンヘンにおいて、当時チェコスロバキア領であったズデーテン地方をナチス・ドイツに割譲することを決めたイギリス、フランス、ドイツ、イタリアの四国会談。

 1933年にドイツで政権をとったヒトラーの対外侵略計画の当面の目標は、37年11月5日の秘密演説に示されているように、オーストリア、チェコスロバキアの併合であった。この計画どおり38年3月13日のオーストリア併合後、ドイツの侵略の手はチェコスロバキアに伸びていった。チェコスロバキアの内部では、ドイツと国境を接するズデーテン地方のドイツ人の間でつくられたズデーテン・ドイツ人党(指導者ヘンライン)がナチスと連絡をとりつつ、4月に「カールスバート綱領」を作成、自治を求める姿勢を示したが、その目的はドイツによる同地方併合のきっかけをつくることであった。ズデーテン地方をめぐる危機がヨーロッパでの戦争につながるのを恐れて、英・仏政府がズデーテン・ドイツ人党への譲歩をチェコスロバキア政府に働きかける方針をとったこともあり、チェコスロバキア政府は9月6日、「カールスバート綱領」の要求に沿う案をズデーテン・ドイツ人党側に提示した。ヒトラーを背後にしたヘンラインは、もちろんこのような形での収拾を望まず、交渉打ち切りを通告、ヒトラーも同月12日ズデーテン・ドイツ人の民族自決(ドイツとの合併)を求める演説を行った。このようにして危機が深化するなかで、イギリス首相N・チェンバレンはヒトラーとの会見を希望し、15日にベルヒテスガーデンで会談をもった。ここでヒトラーは、ズデーテン地方のドイツへの併合要求を正式に提示、それを受けた英・仏政府は、この要求を飲むようにチェコスロバキア政府に圧力をかけた。チェコスロバキア政府はやむなく21日にそれを承諾したが、22~23日にゴーデスベルクで再度開かれた会談で、ヒトラーはチェンバレンに対して、ズデーテン地方の引き渡し時期を早めるなど、さらに拡大した要求を突きつけた。

 これによって緊張が戦争前夜を思わせる状況にまで高まるなかで、当事国のチェコスロバキアとその同盟国ソ連を除外し、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアの四国によって開かれたのが、ミュンヘン会談である。会談は、9月29~30日に行われ、ゴーデスベルクでのヒトラーの要求を大幅に受け入れる形で、ズデーテン地方のドイツへの割譲を決定した。これはドイツの侵略に対する宥和(ゆうわ)政策の頂点となるできごとであったが、その時点では戦争の危険が回避されたことに注意が集まり、チェンバレンは「われわれの時代の平和」を唱えて、イギリス国民の賞賛を浴びた。

[木畑洋一]

『斉藤孝著『第二次世界大戦前史研究』(1965・東京大学出版会)』『綱川政則著『ヒトラーとミュンヘン協定』(教育社歴史新書)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ミュンヘン会談」の意味・わかりやすい解説

ミュンヘン会談
ミュンヘンかいだん
Munich Conference

1938年9月 29~30日,ミュンヘンで行われたズデーテン地域 (ドイツと国境を接したチェコスロバキア北西部) の帰属をめぐる英仏伊独の首脳会議。同地域には中世以来ドイツ人が植民,定着していたが,第1次世界大戦後同地域がチェコスロバキア領となったため,K.ヘンラインを党首とするズデーテン・ドイツ人党が結成され,版図の拡大をはかる A.ヒトラーのひそかな支援のもとに,38年4月 24日民族自決権を要求した。これに対し,7月 26日チェコスロバキア政府はいったんこれを拒否したが,同年3月 13日のオーストリア合併にみられるドイツの領土拡張欲を恐れた英仏伊の圧力に屈し,9月5日ヘンラインの要求をほぼ全面的に認めざるをえなかった。しかしヘンラインはさらにドイツへの帰属を主張,ここにいたって緊張はその極に達し,ヒトラー,B.ムッソリーニ,イギリスの N.チェンバレン首相,フランスの E.ダラディエ首相による4ヵ国首脳会議の開催となった。ヒトラーの「これが最後の領土的要求である」との言質のうえにドイツへの割譲が承認された。同地域は第2次世界大戦後,チェコスロバキア領に復帰し,それとともに約 300万のドイツ人は国外に脱出あるいは追放された。チェコスロバキア政府は西ドイツとの国交正常化交渉においてミュンヘン協定の無効を主張したが,自国に在住する同地域出身者の圧力を無視できない西ドイツ政府はそれを認めなかった。 73年6月 20日,両国間に結ばれた相互関係条約により,ミュンヘン協定は無効であるが,協定締結時から終戦時までの期間に私人および法人に適用された法律は有効とする妥協的解決が成立,一応の解決をみた。

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百科事典マイペディア 「ミュンヘン会談」の意味・わかりやすい解説

ミュンヘン会談【ミュンヘンかいだん】

1938年ミュンヘンで開かれた英・仏・独・伊の首脳会談。チェンバレン,ダラディエ,ヒトラー,ムッソリーニが出席。ドイツが,チェコスロバキアのズデーテン地方を併合する意図を明らかにしたために激化した緊張を緩和する目的で開かれた。英・仏は宥和(ゆうわ)政策をとって,ズデーテン地方の対独割譲を決定。
→関連項目第2次世界大戦ダラディエチェコスロバキア独ソ不可侵条約ベネシュ

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旺文社世界史事典 三訂版 「ミュンヘン会談」の解説

ミュンヘン会談
ミュンヘンかいだん
Münchener Konferenz

1938年9月に開かれた,ズデーテン問題についてのドイツ・イギリス・イタリア・フランスの首脳会談
オーストリアを併合したヒトラーは,ついでズデーテン地方の併合を企て,チェコ政府に迫った。この問題に対処してヒトラー(独)・ネヴィル=チェンバレン(英)・ダラディエ(仏)・ムッソリーニ(伊)の4巨頭会談が開かれたが,ヒトラーの強硬な態度にイギリス・フランスは譲歩して,ドイツの要求を認めた。ナチスの東欧侵略を容認するこの宥和 (ゆうわ) 政策が第二次世界大戦への道を開いた。

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世界大百科事典(旧版)内のミュンヘン会談の言及

【スペイン内乱】より

…一般に〈エブロ川の戦〉と呼ばれるこの戦闘は,内乱における最後の大規模な戦いであり,まさに全面戦争であった。 エブロ川の戦の最中,38年9月に開かれたミュンヘン会談は,西欧民主主義国がヒトラーと対決する用意がないことを示した。戦局の劣勢を挽回する唯一の活路を西欧諸国の対ドイツ戦争に求めていた共和国政府は,この結果,運命を自らの手で切り開かねばならなかった。…

【戦間期】より

…37年11月ヒトラーは秘密会議の席上,オーストリアおよびチェコスロバキアの占領計画を打ち明けていたが,果たせるかな38年3月オーストリアを併合し,次にチェコスロバキアのズデーテン・ドイツ人党を使嗾(しそう)して自治を要求させ,混乱に乗じての介入をねらった。共産主義よりもナチズムを〈より小さな悪〉として選んだイギリス保守党政府はチェコスロバキア政府に圧力をかけて対独譲歩に同意させたが,最後には38年9月,イギリス,フランス,ドイツ,イタリアの4ヵ国会談でズデーテン地方のドイツへの割譲を一方的に決定した(ミュンヘン会談)。この動きからソ連が一貫して排除されたことは宥和政策の反ソ的性格を雄弁に物語るものであり,それまで現状維持陣営にコミットしていたソ連は徹底した現実政策に立ち戻るほかなかった。…

※「ミュンヘン会談」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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