改訂新版 世界大百科事典 の解説
オーストリア・ハンガリー二重帝国 (オーストリアハンガリーにじゅうていこく)
1867年から1918年までオーストリアとハンガリーが対等の2国家として連合して構成したハプスブルク帝国をさす。1848年革命を鎮圧したのち〈新絶対主義〉体制をうちたて,自国内の諸民族の抑圧をはかってきたハプスブルク帝国も,59年の対イタリア戦争以来,体制の再編成を迫られた。連邦制や中央集権制などの試みの末,66年の普墺戦争の敗北を経て,決定的にハンガリーとの二重国家の形成に向かい,67年オーストリアとハンガリーのアウスグライヒAusgleich(〈妥協〉の意。ハンガリー語でKiegyezés)が成った。その原因は,皇帝筋が帝国内のスラブ諸民族との対抗上非スラブ系のハンガリー人の協力を求めたこと,オーストリアの資本家階級とハンガリーの地主階級および一部大資本の利害が一致したことなどにある。
構造
アウスグライヒにより,オーストリア(正しくは〈帝国議会に代表される諸領邦と諸王国〉)とハンガリーは,君主のほかに,外交,軍事,一定の財政を共通にするだけで,他は自治的な2国となった。それぞれに議会と内閣を持ち,議会の代表60名ずつが二重帝国の共通議会をつくり,両国首相と共通外相,共通国防相,共通蔵相が共通内閣を構成。このほか両国は共通関税を設けた。チェコ人のボヘミア,ポーランド人やウクライナ人のガリツィア,南スラブ人のスロベニアとダルマツィアなどをふくむオーストリアは,連邦的な立憲君主国となったが,スロバキア人やクロアチア人やルーマニア人などをふくむハンガリーは中央集権的な立憲君主国にとどまった。ハンガリー側では,クロアチアとは別個に〈妥協nagodba〉を1868年に結び一定の政治的自治を認めた。
問題点
(1)二重帝国はちょうど帝国主義時代に存続したから,その時代に共通する経済的矛盾を抱えていた。とくに従属的帝国主義に特徴的な不均等発展が著しく,工業発展の不均衡,金融業の肥大,工業労働者内部の分化,農業発展の不均衡,農業労働者内の封建的要素などが顕著であった。これらは西欧資本の流入により促進されていた。また帝国内の民族的格差にも対応していた。(2)次は民族問題である。オーストリア側では,ガリツィアのポーランド人に大きな自治が与えられた反面,ハンガリー並みの地位を要求したチェコ人の試みが1871年に挫折してからは,チェコ人の不満が残り,80年代,90年代に〈言語令〉をめぐってドイツ人と対立した。ハンガリー側では,クロアチア人を除く諸民族は1868年の民族法で下級の教育などに文化的自治を得たにすぎず不満を残し,90年代にハンガリー化が強化されると反発を強め,20世紀初めから激しい運動を展開した。さらに二重帝国は,1878年のボスニア・ヘルツェゴビナ占領以後南スラブ問題に悩まされ,1908年の同地域の併合によりさらに泥沼に入りこんだ。(3)こうした民族問題は外交にも影響した。二重帝国は2州占領後のバルカン進出にあたり,ドイツの後押しを必要とし,1879年には独墺同盟を結び,82年には三国同盟を結んだ。80年代からはドイツ資本の流入を見,しだいにドイツへの依存を高めた。1908年のボスニア・ヘルツェゴビナ併合後,セルビアとロシア,フランスの圧力を受けると,ますますドイツ依存を強めた。
第1次大戦前までには二重帝国の経済的・政治的・民族的緊張は非常に高まっていたが,どの民族も帝国の解体を具体的に望んではおらず,その枠内での民族的発展をめざしていた。これは帝国のどの民族の社会民主党の場合でも同じであった。結局二重帝国は1918年10月に解体するが,それは1917年以降の大戦の戦況変化,ロシア革命,欧米列強の政策など新しい要因によるところが大きい。50年代までは二重帝国の根本的矛盾を強調し,解体を必然と見る立場が支配的であったが,近年では,二重帝国の〈多民族国家〉としての統合力を再評価しようという傾向が強まってきている。
執筆者:南塚 信吾
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報