1891-94年にかけて成立した露仏同盟,1904年の英仏協商,07年の英露協商により生じたイギリス,ロシア,フランス3国間の友好関係の総称。三国協商についての特定の規約はない。フランスはドイツ帝国宰相ビスマルクの外交政策(三帝同盟)によって国際的に孤立したが,1890年の彼の辞任後ロシアはフランスに接近し,91年8月に露仏政治協定,92年8月には軍事協定が成立,94年1月4日に露仏同盟は正式に発効した。ドイツ,オーストリア・ハンガリーとイタリアの三国同盟に対抗する内容をもち,フランスは孤立から脱出した。一方,イギリスは〈光栄ある孤立〉を伝統としてきたが,19世紀末には世界各地への列強の進出に直面したうえ,ドイツの三B政策や艦隊拡張計画に遭遇して政策転換をせまられた。1902年,イギリスは極東でのロシアの南下に備えて日本と同盟(日英同盟)に入り,フランスにも接近を試みた。フランスではデルカッセ外相が対英関係の改善に奔走していたが,日露戦争勃発を契機として,イギリス,フランス両国は戦争を局地的に収拾しようとして接近を急ぎ,04年4月8日に英仏和親協商Entente Cordialeが成立した。この協商は,ニュー・ファンドランドと西アフリカに関する協約と,シャム,マダガスカル,ニューヘブリデスに関する宣言,およびエジプトとモロッコの取決めに関する宣言からなり,世界分割をめぐる両国の歴史的対立は解消された。05年にロシアが日露戦争に敗北,代わってヨーロッパでのドイツとの対立が顕著になると,イギリスは同様に近東でドイツの三B政策に脅かされていたロシアに接近し,07年8月31日にペテルブルグで英露協商に調印した。これは,ペルシア,アフガニスタンおよびチベットでの両国の勢力範囲を画定した三つの協定からなり,ロシアはペルシアとアフガニスタンへの進出は断念したが,ダーダネルス,ボスポラス両海峡地帯およびバルカンへの進出についてはイギリスの了解をとりつけた。英露協商の締結によってイギリス,フランス,ロシア3国は同一陣営に結集し,三国協商体制が成立したが,ドイツのほうは頼みとする三国同盟のオーストリア・ハンガリーが軍事的に弱く,その一員であったイタリアが協商国側に接近したため,実質的に協商国側の包囲政策の術中におちいった。三国協商は,1912年の露仏海軍協定,14年の英露協定の締結によって軍事同盟の性質を強め,スペイン,日本も接近したため強力な陣営となった。三国協商は,第1次世界大戦中に領土分割を画定した多くの秘密条約によって多数の中立国を自己の陣営にひきいれたが,17年にアメリカ合衆国が参戦すると戦争の主導権を喪失し,さらに同年のロシア革命の結果ソビエト政権が戦線から離脱したため,協商体制は崩壊した。
執筆者:義井 博
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第一次世界大戦前のイギリス、フランス、ロシア3国の協力体制。それは、相互に同盟や協商によって結ばれた3国間の友好関係の総称であって、特定の条約が存在したわけではない。三国同盟と対立するフランスは、ドイツから離反したロシアに近づき、1891~94年にロシア・フランス同盟を成立させた。イギリスは長らく「光栄ある孤立」を守ってきたが、1902年に日本と日英同盟を結んだのち、04年日露戦争勃発(ぼっぱつ)を機にフランスとイギリス・フランス協商を結んだ。ついで日露戦争に敗れたロシアもイギリスに接近、07年イギリス・ロシア協商を締結して、三国協商体制が成立した。これら3国を結び付けたのは、まずドイツの急速な台頭で、三国協商は、ドイツを中心とする三国同盟に対抗して大戦前の世界政治を二分した。また三国協商は、帝国主義列強がその植民地支配を維持するため互いに協力する世界体制でもあった。すなわち、イギリス・フランス協商成立にあたり両国は、世界の諸地域での両国間の対立を解消し、とくにエジプトとモロッコとを互いに勢力圏として認め合った。また、イギリス・ロシア協商でも、ペルシア、アフガニスタン、チベットで両国はそれぞれの勢力圏を確認した。協商は初め軍事同盟の性格をもたなかったが、モロッコ事件などを通じてドイツとの対立が強まるにつれ、種々の軍事協定により補強され、ついに第一次世界大戦に突入した。大戦前、協商体制に日本、スペインも参加していたが、大戦中には参加国が激増した。しかし、アメリカの参戦で戦争の主導権が協商国の手を離れ、さらにロシア革命でロシアが脱退したため、協商体制は崩壊した。
[木谷 勤]
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1891年成立の露仏同盟,1904年の英仏協商,07年の英露協商によって生まれたイギリス,フランス,ロシア間の結合関係を総称していう。英仏協商や英露協商は,それぞれの国の間の植民地の勢力範囲の調停を内容とし,特に軍事的結合を規定していないが,第一次世界大戦に至る国際関係のままで,事実上三国同盟に対抗するイギリス,フランス,ロシアの陣営構成が形成されたことを意味し,帝国主義国間の矛盾激化を画するもの。12年の英仏また露仏間の軍事協定はこの協商関係を軍事的に補強した。ロシア革命による帝政ロシアの崩壊によりこの協商関係は消滅する。
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第1次大戦前の露仏・英仏・英露間に締結された帝国主義的権益の相互保障協定を基調にした協力体制。ドイツの急激な軍事的膨張と三国同盟に刺激され,1891年8月27日に露仏協商,1904年4月8日に英仏協商が成立。英露は長らく対立していたが,日露戦争敗北の結果ロシアがイギリスに接近し,07年8月31日に英露協商が成立した。勢力圏確定の性質のこい協力体制からしだいに軍事同盟の様相をおび,12年の露仏海軍協定,英仏海軍協定,14年の英露海軍協定として結実。17年,革命によるロシアの脱落で解体した。
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…ついで05年の日露戦争終結とともにこれまでの英露対立も解消すると,イギリスは07年8月31日に英露協商を締結することができた。これは第1次大戦前史における三国協商体制の成立を意味する画期的な出来事であるが,さらに巨視的に展望すると,ドイツの急激な膨張により,かえってクリミア戦争以来の長年にわたる英露両超大国の対立が解消したことを示す,国際関係史上の一大変動であった。
[戦争の原因]
ところで,第1次大戦の原因としては,建艦競争や三B政策で対立の先鋭化したイギリスとドイツの関係,アルザス・ロレーヌ2州やモロッコの問題をめぐるドイツとフランスの対立関係,オスマン・トルコ帝国の衰退に伴って発生したバルカンにおけるパン・ゲルマン主義とパン・スラブ主義の角逐,またそれと結びついた複雑な民族相克の問題,さらに同盟国(独墺伊)と協商国(英仏露)との対抗関係などがあげられるが,第1次大戦は極東問題やアフリカ分割の問題からでなく,結局は〈ヨーロッパの火薬庫〉といわれたバルカンから発火した。…
※「三国協商」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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