日本大百科全書(ニッポニカ) 「治山治水」の意味・わかりやすい解説
治山治水
ちさんちすい
治山とは、安全で安心して暮らせる国土づくりのために山地災害を防止し、土砂の流出を制御することをいい、治水とは、目的に応じた水利用を実現するために水害を防止し、水の流れを制御することをいう。このように、治山と治水は、本来、別の概念であるが、水の力によって山地崩壊や土砂流出を生ずることが多く、また、そのことが治水に大きな影響を与えるところから、歴史的に両者は一体的なものとして認識されてきた。
[飯田 繁・佐藤宣子]
治水事業
日本における治水事業は、古代社会に始まるが、16世紀に至ると、戦国大名は、国力を高めるため、開田とあわせて治水事業に力を入れるようになる。武田信玄(たけだしんげん)が編み出した信玄堤(づつみ)や加藤清正(かとうきよまさ)がつくらせた乗越(のりごえ)堤は、水のエネルギーを弱めることによって洪水被害を減らそうとした治水技術として有名である。
江戸時代には、土木技術が発達し、分水路の開削や連続した堤防を建設することにより、洪水を防ぐとともに、沖積平野に存在する沼地開発や内陸水運のための水路整備が行われた。しかし、反面、堤防によって河川を狭い範囲に閉じ込めることは、それが破壊されたとき、大きな洪水災害をもたらすことになった。
明治後期に至り、内陸交通は、水運から鉄道にかわり、また、地主制の確立に伴い、水田を洪水から守ることがいっそう重要な課題となった。1896年(明治29)河川法が制定され、利根(とね)川、淀(よど)川、筑後(ちくご)川など、重要河川の堤防建設が国の直轄事業(国費)で行われ、洪水対策が強化された。
昭和に入ると重化学工業が勃興(ぼっこう)し、工業用水や都市の生活用水の需要が増大した。そして1935年(昭和10)ごろには農業用水との調整が必要になり、1937年から河水統制事業が進められた。これは主要な河川にダムをつくることによって洪水の防止、農業用水の確保、都市用水の確保、電力開発を同時に実現しようとするもので、その後の治水行政の骨格を形成した。
第二次世界大戦後、枕崎(まくらざき)台風(1945)、カスリーン台風(1947)、アイオン台風(1948)など大きな災害が続いた。これを受けて1949年(昭和24)、戦後の第一期治水事業計画が樹立された。この計画は、河川上流にダムを建設し、大雨をダムに貯水し、洪水を防ぐという、河水統制事業を強化するものであったが、おりしも国土総合開発法が制定され(1950)、国土開発と治水事業が結び付けられることになった。そして、発電などの利水と治水を兼ねた多目的ダムが建設されるとともに、大河川には高い堤防が構築された。その結果、堤防の破壊による大水害は1960年代以降大幅に減少した。
その後も、高度成長期以降、都市用水を確保するため、河川の上流に巨大な貯水ダム、洪水防止ダムが建設され、湖沼の開発が進められた。また、水利用のシステム化(水資源確保、導管網、廃水処理を体系的に整備すること)が推進された。ところが、1973年のオイル・ショック以降、水需要は横ばいないし漸増傾向に変わった。そして、ダム過剰論や「親水(しんすい)(水に親しむ)」思想が登場し、治水政策の方向転換が求められるようになった。
他方、地下水の過剰利用に伴う地盤沈下、ゼロメートル地帯の水害、水質汚濁(水銀化合物、カドミウム、シアンなど)といった問題が発生し、地下水のくみ上げや工場の排水が厳しくコントロールされることになった。
1990年代以降の特徴は、節水型のまちづくり、多自然型河川工法の導入、自然と共生した河川管理など、新しい治水政策の考え方が打ち出されるとともに、災害時の被害を最小限にとどめることを目的とした水害情報の開示(ハザードマップの公表)や避難誘導体制の整備など「危機管理体制」の整備が進められたことである。また、最近では、地方自治体による街づくりと関連した治水事業が可能となり、防災教育や都市環境の向上を兼ねた治水事業が試みられるようになった。そうしたなかで、巨大ダムの建設が、その治水の有効性や大規模公共事業の是非、河川環境保全等の観点から議論され、2009年(平成21)には民主党政権が熊本県の川辺川ダム事業の中止を決定するなど、治水事業は大きな転換点を迎えることになる。
[飯田 繁・佐藤宣子]
治山事業
日本における治山事業は、「治水は治山にあり」とする中国の思想的影響を受け、江戸時代に始まるといわれている。禿山(はげやま)の植林と水源林の禁伐がこの時代における主要な治水の方法であった。熊沢蕃山(くまざわばんざん)の荒廃山地復旧や河村瑞賢(かわむらずいけん)の治水論は有名である。
江戸時代なかばごろから山地における焼畑や肥料として利用する採草地が拡大し、森林は減少した。明治期に入ると、木材伐採の増加や足尾銅山などの鉱毒被害のため、森林の減少はさらに進み、禿山が増加した。こうした森林の荒廃に対して、1897年(明治30)森林法が制定され、森林開墾の許可制や土砂崩壊などを防止するための保安林制度が設けられた。
明治の終わりごろまでの治山政策の特徴は、取締り行政にあったが、1911年(明治44)から始まる第一期森林治水事業では、荒廃林地の復旧や公有林野の植林などが進められた。この事業は、1935年(昭和10)にいちおう終了し、1937年からの第二期森林治水事業に引き継がれた。第二期事業では、事業の内容も植林政策から荒廃地の地盤保護工事を主とするものへ変わり、1947年まで続けられた。
第二次世界大戦後における治山事業は、「国破れて山河あり」とする精神面を強調した緑化運動をばねに再建された。また、木材不足のもとで水害が多発したため、木材生産(伐採)と治山治水(植林)を調和させることが重要な課題となった。
1953年(昭和28)全国的な大水害発生を契機に、治山治水基本対策要綱が作成され、保安林の整備拡充、禿山・地すべりなどの復旧・防止、森林の伐採規制、植林の推進などが決定された。さらに、狩野川(かのがわ)台風(1958)、伊勢(いせ)湾台風(1959)を経験し、1960年に治山治水緊急措置法が制定された。これによって、治山治水事業に対する財政措置が強化され、計画的な治山治水事業が実施されるようになった。そしてこの年から第一次治山事業五か年計画が始まり、保安林の造成・整備と土石流、山崩れ、地すべりなどの山地災害危険箇所への治山ダム等の防災構造物の設置や土留め工(地下の構造物をつくるための仮設構造物)といった山腹工事などの事業が実施された。このうち水源地域の保安林造成は分収造林が推進され、おもに森林開発公団(廃止後、現在、森林研究・整備機構森林整備センターが業務を継承)が担った。治山事業計画は治山治水緊急措置法が廃止される2003年(平成15)まで、第九次にわたって計画が策定・実施された。同法廃止以降、治水事業を国土交通省所管の公共事業とともに社会資本整備重点計画に一元化し、治山事業は森林整備事業計画と統合されて、2004年度から森林整備保全事業計画に再編された。
つまり、現在、治山事業とは、国民生活の安全と森林の多面的機能の維持・増進を目的とした森林整備保全事業の一環として、森林法に基づく水源涵養(かんよう)、土砂の流出防備、土砂の崩壊防備等の治山関連保安林の造成、維持事業、ならびに地すべり等防止法による山地災害の防止工事に関する事業の二つをさす。2004年の森林法改正では、間伐等の適切な手入れや伐採後の森林造成がなされず災害の発生等が危惧(きぐ)されるような保安林を指定し、土地所有者に保安林の機能回復を勧告、従わない場合には所有者の同意なしに造成事業を実施できる特定保安林制度が導入された。
近年、災害が頻発した戦後当初に比べると樹木の根によって土砂移動を抑える機能が高まり、表層崩壊は減少したものの、局所的な集中豪雨と関係する深層崩壊が増加する傾向にある。一方で、景観や生物多様性等に配慮した防災構造物への要求も高まっている。そのため、崩壊地の予測と集中豪雨時における住民の避難確保などソフト対策の充実、および現地材料を利用した構造物の開発等が求められている。
2007年度で急傾斜地崩壊危険箇所33万か所、土石流危険渓流数18万か所、地すべり危険箇所数は全国で1万を超えているが、国家財政の悪化の下で公共事業費が抑制されており治山事業費の確保がむずかしくなっている。
こうしたなかで、1990年代以降、下流の自治体(水の使用者)が、(1)水源林の整備費用を上流自治体に援助する、(2)分収造林を造成する、(3)水源林を取得する、といった形で水質保全や洪水防止などを図ろうとする試みが広がっている。さらに、地方分権の流れのなかで、2003年度の高知県を皮切りに、森林の整備をおもな目的とする独自の課税制度(通称、森林環境税)を導入する動きが広がり、2016年の時点で37府県に達している。その税事業は多岐にわたるが、導入県の多くは荒廃森林を対象にした間伐を推進し、森林の水源涵養機能や防災機能を高めることを目標に掲げている。
[飯田 繁・佐藤宣子]
『日本治山治水協会編・刊『治山事業八十年史』(1992)』▽『遠藤日雄編著『現代森林政策学』(2008/改訂版・2012・日本林業調査会)』▽『林野庁編『森林・林業白書』各年版(全国林業改良普及協会)』▽『建設省編『建設白書』各年版(ぎょうせい)』▽『国土庁長官官房水資源部/国土交通省土地・水資源局水資源部編『日本の水資源(水資源白書)』各年版(大蔵省印刷局)』▽『高橋裕著『国土の変貌と水害』(岩波新書)』