小戸村
おうべむら
[現在地名]川西市小戸一―三丁目・栄町・丸の内町・中央町・火打一丁目・絹延町・美園町・霞ヶ丘一―二丁目・出在家町・日高町・花屋敷山手町・花屋敷一丁目・松が丘町・小花二丁目
現川西市域の南部、池田村五月山の西方、猪名川右岸に位置する。地内に壱ノ坪の地名がある。中世は小戸庄に含まれた。慶長国絵図に「ヲウヘ村」とみえ、高一千六九一石余とあるが、滝山村・出在家・萩原村・「ヲハナ村」などを含むものと考えられる。元和三年(一六一七)の摂津一国御改帳では「北戸庄村」と記される。寛永元年(一六二四)に「小戸庄」として年貢一千二二一石余のうち一六八石余は大豆納とされ、庄屋・百姓中に免状が下付されているが(小戸村文書)、同三年頃には村切が行われたらしい。
小
戸村
こすりどむら
[現在地名]入善町小摺戸
黒部川扇状地の扇頂部に近く、南東に浦山新村、北東には新屋村、北西には一宿新村・若栗新村がある。黒部川は村の南を北東流する。下山村の出村といわれる(松雲公採集遺編類纂)。寛永一六年(一六三九)富山藩が創られると、加賀藩領小摺戸村と富山藩領小摺戸新村があったらしく、小摺戸村の明暦二年(一六五六)の草高六七石、小摺戸新村の翌三年の草高二〇石(入善町史)。
小戸村
おどむら
[現在地名]丸山町小戸
珠師谷村の南東、温石川上流の山間に位置する。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録に村名がみえ、高三五〇石余、うち二四五石余は田方。里見氏直轄領。同一一年・同一五年の里見家分限帳でも同高、直轄領。元和四年(一六一八)検地が行われ(「検地帳」小戸区有文書)、同六年三三五石余が東条藩西郷氏に与えられた(東条藩領知目録)。正保郷帳では田高二六一石余・畑高七四石余。元禄五年(一六九二)西郷氏の移封により上知されて幕府領。宝永七年(一七一〇)旗本織田信門に与えられ、天保一四年(一八四三)まで同家領として続くが(「寛政重修諸家譜」・元文村高帳など)、同年武蔵忍藩領となる(忍藩領郷村高帳)。
小戸村
おどむら
[現在地名]新発田市小戸
山内村の東北、加治川の右岸に位置し、東南方に扉山(三六四・九メートル)がある。当地辺には縄文時代の遺跡が数ヵ所あり、河岸段丘突端部には中世の館跡、その背後の字城山には山城跡が残る。近世ははじめ村上藩領で、元和四年(一六一八)の堀主膳宛堀直寄知行宛行目録(新潟大学蔵)に村名がみえ、三七二石五斗余(物成一一六石二斗余)。延宝九年(一六八一)頃の高反別免割家数人数帳(寛政一二年写、新発田市史資料)によると大友組に属し、高二二六石六斗余、免三ツ七分、田畑一九町四反余、家数二五、人数二〇四。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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