小栗山村(読み)こぐりやまむら

日本歴史地名大系 「小栗山村」の解説

小栗山村
こぐりやまむら

[現在地名]六日町小栗山

六日町村の西、桝形ますがた山東麓にある。南は思川おもいがわ(現塩沢町)、北は君帰きみがえり村・余川よかわ村。西方へ八箇はつか峠越の道が通り十日町(現十日町市)へ至る。途中枝村上台うえのだい(現在は上ノ原)がある。犬伏いぬぶせ(現東頸城郡松代町)松苧まつお神社内陣奥嵌板の墨書によると、天文二三年(一五五四)九月一九日に同社に参籠した「上田庄小栗山之住僧源入□堅宗」なる僧がいた。年欠の上葺萱注文(雲洞庵文書)雲洞うんとう(現塩沢町)へ上葺萱を供出する地に「二千八百五十把 小栗山 今泉」がみえる。

小栗山村
こぐりやまむら

[現在地名]弘前市小栗山

弘前城下の南、土筆つくし森の北端にある。東は松木平まつきたい村に接し、西北は原ヶ平はらがたい村、西南は大和沢おおわさわ村に続く。村の北を大和沢川が北東流する。

貞和三年(一三四七)五月日の曾我貞光申状案(遠野南部文書)に「同年建武三五月廿七日 向小栗山楯御敵倉光孫三郎 致軍忠之処 親類曾我弥三郎光俊討死畢 并家人小林六郎時重 紀佐市 弥八盛忠 以上三人討死畢 次若党平賀又次郎貞泰 中間彦五郎等被疵 御敵三人生捕之者也 此段同家季一見状在之」とあり、小栗山楯は小栗山村にあり、建武三年(一三三六)当時は南朝方の倉光氏の拠点であったと推定できる。

小栗山村
こぐりやまむら

[現在地名]大内町小栗山

いも川左岸の河岸段丘上にあり、北は中田代なかだしろ村、南は岩野目沢いわのめざわ村に接する。

慶長一七年(一六一二)の由利郡中慶長年中比見出検地帳(由利郡中世史考)新沢あらさわ郷の内に村名がある。寛永二年(一六二五)の油利之内修理大夫様御知行御検地帳免定之目録写に村高一〇〇石二斗五升八合、納米八〇石二斗六合、免八ツとある。高免のため同年打直しが行われ、新高一七八石八斗三升、納米七六石八斗九升七合、免四ツ三分(由利御知行之内打直分免定覚)に改められた。正保三年(一六四六)の出羽国油利郡内高目録(秋田県庁蔵)に一四八石一斗八升八合とあり、そのうち畑は四斗二升で、「水損所 はへ山有 川有 新潟有」と記される。

小栗山村
こぐりやまむら

[現在地名]色麻町小栗山

現色麻町最西部に位置し、船形ふながた山で出羽国村山むらやま(現山形県尾花沢市)と境し、鳴瀬なるせ川の支流保野ほの川の源流部には、前船形まえふながた(一三一二・四メートル)花染はなぞめ(一〇一八・四メートル)などがあり、保野川の中流段丘上に細長く耕地が開け、民家は丘陵を背に散在する。上流おお滝付近には広くブナの原生林が群生し、山頂付近は亜高山落葉低木林に覆われ、四季折々の景観をつくり、県立自然公園船形連峰となっている。東西に縦走する道は、町道から登山道につながる。

小栗山村
こぐりやまむら

[現在地名]見附市小栗山町

指出さしで村の東、北は小滝こたき(現南蒲原郡栄町)、東は東山丘陵の山地、南は黒坂くろさか村。集落は丘陵西麓にある。天正二年(一五七四)九月吉日の安田氏給分帳(北方文化博物館蔵)に「小栗山」とみえ、大見安田氏領であった。文禄三年(一五九四)頃の安田堅親知行定納覚(大見安田氏文書)に村名がみえ、高二六五石六斗五升、永不作六貫五〇〇文。慶長一〇年(一六〇五)新発田藩の給知方村々高目録(新発田市史資料)によると毛付四三四石二斗余・荒三八石一斗余。

小栗山村
こぐりやまむら

[現在地名]小国町小栗山

森光もりみつ村の北。北は相野原あいのはら村に続く。小国西組に属する。近世初めは高田藩領、天和元年(一六八一)から幕府領、文久二年(一八六二)長岡藩領。正保国絵図に高一二三石余。天和三年の越後中将御領覚には「北条之内」と朱注があり、高一六〇石余、ほかに高五石四斗余の新田がある。元禄五年(一六九二)の小国西組郷鏡帳(柏崎市立図書館蔵)では田九町四反余・畑屋敷四町六反余・山四町三反余。新田は中田のみ四反余。

小栗山村
こぐりやまむら

[現在地名]小千谷市小栗山

朝日あさひ川北側の急傾斜地の岩にしがみつくように小栗山・中山なかやま寺沢てらさわ対岸に朝日の集落が散開する。小栗山は金倉かなぐら(五八一・四メートル)南麓にある。これらの集落は現在地よりさらに奥の黒倉くろくらにあったが、数度の地滑りのため移転したという。正保国絵図には古志こし郡に「山二十村ノ内」として朝日村・寺沢村・中山村・小栗山村がみえる。

小栗山村
こぐりやまむら

[現在地名]金山町小栗山

川口かわぐち村の南二五町に位置し、北流する野尻のじり川東岸の崖地に散居し、小名大穴おおあな・端村間瀬口ませぐちともに田島たじま(現田島町)への道に沿う。端村後沢うしろのさわ牧場まきば皆田みなだは野尻川西岸にある。寛永七年(一六三〇)の加藤氏蔵入高目録(大沼郡誌)には「三百弐拾壱石者小栗山村」とあるが、文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では川口村に含まれて記載される。

享保六年(一七二一)の南山御蔵入騒動では、小栗山喜四郎生誕の地として知られる。江戸詮議裁許留書(福島県史)によると、喜四郎など一揆の首謀者六名は死罪獄門の処罰を受けた。文政四年(一八二一)の大石組地震では震源地に近く、四二軒中一二軒全壊、一六軒半壊の大被害を受け、野尻村(現昭和村)に強制疎開させられた(「変難実録」佐藤家文書)

小栗山村
おぐりやまむら

[現在地名]五泉市小栗山

阿賀野川左岸の低湿地にあり、南は小山田おやまだ村、北は笹堀ささぼり村と接する。天正二年(一五七四)九月の安田氏給分帳(北方文化博物館蔵)に「小栗山村」「小栗山」「大谷小栗山村」などの地名が散見する。慶長三年(一五九八)村上藩領となり、元和五年(一六一九)の堀主膳宛堀直寄知行宛行目録(新潟大学蔵)には「百四拾壱石四斗弐合 菅名組大谷村、小栗山村」とある。正保国絵図には二〇石余とあり、貞享元年(一六八四)郷村高辻帳には高三七石一斗余とある。宝永七年(一七一〇)幕府領となり、明和二年(一七六五)の石瀬代官所村々高辻帳(北条一也氏蔵)によれば村高は一三七石二斗余で、笹堀組に属し、小山田村落合彦右衛門が支配した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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