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舎人親王 とねりしんのう

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

舎人親王
とねりしんのう

[生]天武5(676).飛鳥
[没]天平7(735).11.14. 奈良
奈良時代の皇族政治家。天武天皇の第3皇子,母は天智天皇の子新田部皇女。刑部親王死後は,新田部親王とともに皇室の長老として重んじられ,養老2 (718) 年一品。『日本書紀』の編纂を主宰し,同4年に完成,紀 30巻,系図1巻を奏上した。この年藤原不比等没後,知太政官事に就任。死に際し太政大臣を贈られた。子の大炊王淳仁天皇となったので,崇道尽敬皇帝の称が追号された。歌人としても知られ,『万葉集』に短歌3首入集。

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デジタル大辞泉の解説

とねり‐しんのう〔‐シンワウ〕【舎人親王】

[676~735]天武天皇皇子日本書紀の編纂(へんさん)を主宰し、養老4年(720)に完成。藤原不比等の死後、知太政官事(ちだじょうかんじ)となり、死後、太政大臣を贈られた。

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百科事典マイペディアの解説

舎人親王【とねりしんのう】

天武天皇の皇子。母は天智天皇の女新田部(にいたべ)皇女。《日本書紀》の編纂(へんさん)を主宰し,720年これを完成。同年知太政官事(ちだいじょうかんじ)となる。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

舎人親王 とねりしんのう

676-735 飛鳥(あすか)-奈良時代,天武天皇の皇子。
天武天皇5年生まれ。母は新田部(にいたべの)皇女。「日本書紀」編修事業の総裁をつとめ,養老4年(720)完成させる。同年藤原不比等(ふひと)の死後知太政官事となり,聖武天皇の政治を補佐。一品(いっぽん)。天平(てんぴょう)7年11月14日死去。60歳。死後太政大臣をおくられ,子の大炊(おおい)王が淳仁(じゅんにん)天皇として即位すると,天平宝字3年(759)崇道尽敬(すどうじんきょう)皇帝の追号をうけた。
【格言など】大夫(ますらを)や片恋ひせむと嘆けども鬼(しこ)の大夫なほ恋ひにけり(「万葉集」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

舎人親王

没年:天平7.11.14(735.12.2)
生年:天武5(676)
天武天皇の第3子で,『日本書紀』の編纂の責任者として著名。母は天智天皇の皇女新田部皇女。子には大炊王(淳仁天皇),船王,池田王らがいる。奈良時代初期には,皇室(宗室)の長老として尊敬された。親王が編纂責任者となった『日本書紀』は養老4(720)年に全30巻,系図1巻として完成した。同年,右大臣藤原不比等が没すると,知太政官事となり太政官を統轄する立場に任命された。元正,聖武2代の天皇に皇親として仕えて,奈良時代前半の皇親政治の中心的存在であった。神亀5(728)年に詔を出したときも,左大臣長屋王よりも上の位置に署名して希有なこととされているが,天武天皇の皇子として新田部親王と並んで政治的権威を持っていた。また『万葉集』にも「大夫や片恋せむと嘆けども醜の大夫なほ恋ひにけり」など3首の歌が残されており,歌人としての素養もあった。没後,太政大臣を贈られた。皇子のうち大炊王が淳仁天皇として即位(758)したため,翌年父として「崇道尽敬皇帝」の称号を追贈されている。なお『延暦僧録』によると親王の請いによって,僧栄叡が唐へ渡って,戒律を伝える僧を求め,鑑真渡来の契機をつくったということを伝えている。

(鬼頭清明)

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世界大百科事典 第2版の解説

とねりしんのう【舎人親王】

676?‐735(天武5?‐天平7)
天武天皇の第3皇子。母は天智天皇の皇女新田部皇女。子には御原王,池田王,船王,大炊王がおり,大炊王が淳仁天皇となった759年(天平宝字3)崇道尽敬皇帝と追号された。舎人皇子とも書き,元正~聖武朝に重用され,《万葉集》に作歌がある。官位は695年(持統9)浄広弐から718年(養老2)一品に至る。719年新田部親王とともに皇太子(聖武)の輔翼を命ぜられ,内舎人2人,大舎人4人,衛士30人を賜い,封戸は2000戸に達した。

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大辞林 第三版の解説

とねりしんのう【舎人親王】

676?~735) 天武天皇の皇子。知太政官事。母は天智天皇の皇女新田部皇女。勅により日本書紀を編纂。死去に際し贈太政大臣。その子大炊王が即位して淳仁天皇となったので、崇道尽敬皇帝の追号がある。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

舎人親王
とねりしんのう
(676―735)

天武(てんむ)天皇の第三皇子。母は天智(てんじ)天皇の娘新田部(にいたべ)皇女。知太政官事(ちだいじょうかんじ)穂積(ほづみ)親王の亡きあとは皇親の長老として重んぜられ、新田部親王とともに皇太子首(おびと)親王(聖武(しょうむ)天皇)を輔翼(ほよく)する責務を負った。またこのころ右大臣藤原不比等(ふひと)の領導のもとに、律令(りつりょう)の改修(養老(ようろう)律令)や正史の編纂(へんさん)がなされたが、なかでも正史の編纂には自ら主宰者となり、720年(養老4)に至り『日本紀(にほんぎ)』30巻(日本書紀)、系図一巻を撰上(せんじょう)した。不比等亡きあと知太政官事に任ぜられ、やがて729年(天平1)に起きた長屋王の変には王の罪を糾明し、ついで光明(こうみょう)皇后の冊立(さくりつ)を宣した。第7子が淳仁(じゅんにん)天皇になると崇道尽敬(すどうじんきょう)皇帝の称号を贈られた。[押部佳周]

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世界大百科事典内の舎人親王の言及

【知太政官事】より

…8世紀前半期におかれた令外官。大宝令施行直後の703年(大宝3)に刑部(おさかべ)親王が任ぜられ,以後穂積(ほづみ)親王,舎人(とねり)親王をへて745年(天平17)に鈴鹿(すずか)王が没するまで,断続的に存在した。その職掌また令制官職・位階との相当関係も定かではなく,左右大臣等との関連も明らかではない。…

※「舎人親王」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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