小田喜城跡・大多喜城跡(読み)おだきじようあと・おおたきじようあと

日本歴史地名大系 「小田喜城跡・大多喜城跡」の解説

小田喜城跡・大多喜城跡
おだきじようあと・おおたきじようあと

[現在地名]大多喜町大多喜

夷隅川中流左岸の丘陵地に築かれた中世および近世の城跡。平山城、県指定史跡。中世の城は小田喜(小多喜)城・小田喜根古屋おだきねごや・小滝城など、近世の城は大多喜(大田喜)城のほか大滝城とも記される。従来中世の小田喜城を泉水せんずい地区の城跡に比定し、近世に入って本多忠勝が中世の城の南方に新たに築城したと考えられてきた。しかし近世の大多喜城の北側対岸の太鼓たいこ山とよばれる丘陵一帯に堀・土塁・腰曲輪等の中世の城郭遺構、さらに太鼓山丘陵と近世の大多喜城が立地する丘陵が合する地点に四条の堀切が確認されたことから、中世の小田喜城と近世の大多喜城は同一地に立地していたことが明らかになった。ただ太鼓山地区は近世の城域には含まれなかったため、中世の小田喜城の遺構を残している可能性が高い。

〔中世〕

南北朝―室町期には鎌倉府政所執事であった二階堂氏一族の所領が当地にあって、復庵宗己を開山に円照えんしよう寺を創建するなどしたと伝える。また二階堂小滝氏として上杉禅秀の乱や享徳の乱で名をみせる。大永元年(一五二一)真里谷まりやつ(現木更津市)城主武田信興が里見氏の進出に備えて次男信春に城を築かせたと伝える。信清のあと直信・朝信と在城したが、天文一三年(一五四四)八月、苅谷かりやはら(現夷隅町)での戦いで正木氏に敗れ武田氏は滅び、その旧領は里見氏が押え、当城には里見方の正木時綱の嫡男時茂が入城した(「正木家譜」「里見九代記」など)。正木氏にはほかに勝浦に本拠を置いた系統、江戸湾岸に勢力を伸ばした系統があるが、里見氏重臣であったのは小田喜の正木氏とされる。永禄五年(一五六二)当時は信茂が当主であったと推定されているが(同年六月二九日「正木信茂書状写」正木武膳家譜所収文書)、同九年一一月までには憲時が家督を継いでいる(同月一五日「正木憲時判物」上総妙泉寺文書)。天正八年(一五八〇)七月憲時が里見氏に背き(同年一一月「日我書状」椙山文書)、翌九年九月家臣に殺害された(一〇月一八日「梶原政景書状写」武州文書など)。憲時の後に里見義頼の次男時尭が入り、同一六年以後しばしば万喜まんぎ(現夷隅町)の土岐氏と戦った。同一八年と推定される関東八州諸城覚書(毛利家文書)では小田喜城主は正木大膳で、城代は正木石見守であった。なお当時小田喜衆として当地に所領をもつ逸見信時らがいた(五月一二日「逸見信時書状」西門院文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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