日本大百科全書(ニッポニカ) 「大多喜藩」の意味・わかりやすい解説
大多喜藩
おおたきはん
上総(かずさ)国(千葉県)夷隅(いすみ)郡大多喜に藩庁を置いた譜代(ふだい)藩。1590年(天正18)徳川四天王の一人本多忠勝(ほんだただかつ)が10万石を領有し大多喜城主になったのが藩のおこりである。忠勝は1601年(慶長6)伊勢(いせ)(三重県)桑名(くわな)に移封、あとには忠勝の二男忠朝(ただとも)が5万石で入封した。忠朝が大坂夏の陣で戦死すると、そのあとには甥(おい)の政朝が5万石で入封した。1617年(元和3)政朝は播磨(はりま)国(兵庫県)龍野(たつの)に移封し、かわって武蔵(むさし)国(埼玉県)鳩ヶ谷(はとがや)(川口市)より奏者番(そうじゃばん)の阿部正次(まさつぐ)が3万石で入封した。1619年正次は相模(さがみ)国(神奈川県)小田原に移封された。そのあとは青山忠俊(ただとし)―阿部正能(まさよし)―阿部正春―稲垣重富(しげとみ)と、頻繁に領主が交替した。青山忠俊は将軍家光(いえみつ)への諫言(かんげん)が因で蟄居(ちっきょ)、以後15年間廃城となっていた。1703年(元禄16)相模甘縄(あまなわ)(玉縄(たまなわ))より大河内(おおこうち)(松平)正久が2万石で入封し、そのあと正貞、正温(まさはる)、正升(まさのり)、正路(まさみち)、正敬(まさかた)、正義、正和(まさとも)、正質(まさただ)と9代、約170年間在封した。1871年(明治4)廃藩となり、大多喜の地は大多喜県、木更津(きさらづ)県を経て、千葉県に編入された。
[川村 優]