日本歴史地名大系 「小貫村」の解説
小貫村
おぬきむら
慶長六年(一六〇一)旗本福原(六五〇石)・同岡本(五五〇石)、黒羽藩主大関資増(一九〇石)の三給になるが(宝暦六年「村鑑」小貫敏尾文書、「芳香誌料」)、前掲領知高書上には、同七年当村の内一五六石余が大関氏領となり、大関寄騎浄法寺休太郎に宛行われたとある。慶安郷帳によれば上小貫村は黒羽藩領、田一〇〇石・畑五〇石、中小貫村は幕府領、田一八六石余・畑九二石余、下小貫村は旗本福原領、田四三三石余・畑二一六石余。なお同郷帳の上小貫村と下小貫村の間に、福原領の
小貫村
こつなぎむら
- 新潟県:栃尾市
- 小貫村
小貫村
おぬきむら
戦国期以降は武田郷に属し、武田氏が支配した(新編常陸国誌)。天正一九年(一五九一)同氏滅亡後、佐竹・仁賀保・皆川各氏領を経て、元禄一三年(一七〇〇)守山(松川)藩松平氏領となる(徳川加封録、寛政重修諸家譜)。
小貫村
おぬきむら
久慈川東岸の平坦地の村で、久慈川は当村の南でS字形に大きく湾曲する。東北に山を負い、西は
小貫村
おぬきむら
蛇行しながら北東流する
小貫村
おぬきむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報