小貫村(読み)おぬきむら

日本歴史地名大系 「小貫村」の解説

小貫村
おぬきむら

[現在地名]茂木町小貫

いい村の南、さか川の源流部に位置する。西は深沢ふかさわ村。東は常陸国で、境に八溝やみぞ山系南端部の標高四三〇メートル余の鶏足けいそく山、南も同国でほぼ同標高の仏頂ぶつちよう山があり、両山を結ぶ峰を分水嶺として流出する逆川が中央を北流する。常陸笠間かさま(現茨城県笠間市)と茂木を結ぶ往還が、仏頂山の北の仏の山ほとけのやま峠を越えて通り、逆川に沿って北上する。川上から上小貫村・中小貫村・下小貫村と位置し、慶安・元禄・天保の各郷帳には各々独立村として記されるが、通例小貫村一村として把握される。黒羽藩領知高書上(宇都宮大学附属図書館蔵)では真壁まかべ郡とあるが、慶安郷帳では芳賀郡となっている。しかし寛文年間(一六六一―七三)まで真壁郡小貫村の名称を用いており(寛文一一年「酒造米高書上」小貫敏尾文書)、この頃に当地域で郡の再編成が行われたことがうかがえる。

慶長六年(一六〇一)旗本福原(六五〇石)・同岡本(五五〇石)、黒羽藩主大関資増(一九〇石)の三給になるが(宝暦六年「村鑑」小貫敏尾文書、「芳香誌料」)、前掲領知高書上には、同七年当村の内一五六石余が大関氏領となり、大関寄騎浄法寺休太郎に宛行われたとある。慶安郷帳によれば上小貫村は黒羽藩領、田一〇〇石・畑五〇石、中小貫村は幕府領、田一八六石余・畑九二石余、下小貫村は旗本福原領、田四三三石余・畑二一六石余。なお同郷帳の上小貫村と下小貫村の間に、福原領の高橋たかはし村が記されている。後代の上小貫村の高から判断して慶安以降、上小貫村に含まれた可能性があるが、つまびらかでない。寛文元年岡本領分が幕府領となり、同四年には黒羽藩領分も幕府領となる。同一二年福原氏知行地で検地が行われ、高一千八〇石余。延宝五年(一六七七)幕府領で検地が行われ、高六九六石余(茂木の歴史)。元禄四年(一六九一)福原氏分が福原本家と同分家の二つに分れる。幕府領の一部一九四石余が元禄一一年旗本岩瀬領となる(前掲村鑑、「芳香誌料」)元禄郷帳では上小貫村は幕府領で四八六石余、中小貫村は旗本岩瀬領で一九四石余、下小貫村は旗本福原領で六五〇石。

小貫村
こつなぎむら

[現在地名]栃尾市小貫・山田やまだ・山田町

つち村の北、北は神保しんぼ(現見附市)集落の西側に稚児清水ちごしみず川が流れる。長岡道が通り、栃尾の表玄関の位置にある。明応年間(一四九二―一五〇一)の国衙之日記(「古文書集」所収文書)に「二貫文 こつなき」とみえ、高波たかなみ保に属する。同六年七月五日の大関政憲外三名連署役銭注文(上杉家文書)には「本田二百卅苅六百九拾文 種田本給小綱木 只見給分」「八百文 小綱木 神兵衛」とあり、栃尾郷東山一帯を給分として与えられていた只見氏のほか神兵衛の知行地。なお同史料に久川くかわ庭月にわつき(現南蒲原郡下田村)うしみね(現見附市)の年貢収納者として現れる和田山修理亮は、天和元年(一六八一)の栃尾組高人別納物帳(稲田理八氏蔵)の小貫村分に「和田山修理守殿屋敷、下原と云所ニ有、兼続御家来之由」とみえる。

小貫村
おぬきむら

[現在地名]北浦村小貫

武田たけだ川の水源地付近にあり、東は次木なみき村。「常陸国風土記」によれば、芸都きつの里に寸津きつひこ寸津きつひめ二人がおり、寸津古は天皇の命に従わず斬殺された。寸津売は白幡をかかげ道に拝み迎えたので許され、「天皇(中略)乗輿を廻らして、小抜野をぬきのの頓宮に幸すに、寸津売、姉妹を引率て(中略)朝夕に供へまつりき。天皇、其の慇懃なるをおむかしみて、恵慈しみたまひき。この所以に、此の野を宇流波斯うるはしの小野と謂ふ」と記される。

戦国期以降は武田郷に属し、武田氏が支配した(新編常陸国誌)。天正一九年(一五九一)同氏滅亡後、佐竹・仁賀保・皆川各氏領を経て、元禄一三年(一七〇〇)守山(松川)藩松平氏領となる(徳川加封録、寛政重修諸家譜)

小貫村
おぬきむら

[現在地名]山方町小貫

久慈川東岸の平坦地の村で、久慈川は当村の南でS字形に大きく湾曲する。東北に山を負い、西は野上のがみ村。「新編常陸国誌」の建置沿革の天正四年(一五七六)の項に、「六月、陸奥朝川城主朝川二郎左衛門、初佐竹ノ麾下ニ属シ、義親ノ為ニ攻ラル、二郎左衛門之ヲ敗ル、義重、小貫、太田、加染三村千石ノ地ヲ賜テ之ヲ賞ス、〔仙道記、会津四家合考附録〕」と記される。寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「四百六拾弐石四斗五升 小貫村」とあり、元禄郷帳にも「小貫村」とみえる。「水府志料」によると村の東西一九町ほど、南北三〇町余、戸数およそ一〇七、水戸まで八里ほどであった。村内に小貫堰があった。

小貫村
おぬきむら

[現在地名]浅川町小貫

蛇行しながら北東流するやしろ川の西岸平坦地に位置し、北東は大田輪おおたわ村。貞和二年(一三四六)頃と考えられる新恩所領注文(白河証古文書)に「高野北方内(中略)小貫」とあり、結城顕朝が室町幕府に対して当村などの所領安堵を訴えている。応永一一年(一四〇四)頃と推定される国人一揆傘連判断簡(秋田藩家蔵白川文書)に小貫の修理亮光顕が名を連ねている。応永―永享(一三九四―一四四一)頃と推定される一〇月八日の足利満直判物(伊勢結城文書)によると、「石川庄内小貫村」を一両年の間は御料所とするが、その後は結城白川氏の一族小峰七郎(朝親か)に恩賞として与えることが定められ、翌年と思われる一〇月二六日に小貫村が小峰七郎に安堵されている(「足利満兼安堵状」結城小峰文書)

小貫村
おぬきむら

[現在地名]大東町小貫

中方なかほう村の北西、佐束さづか川と支流小貫川流域に位置し、東は西平尾にしひらお(現菊川町)。中世は佐束郷に属したとみられる。古くは高瀬たかせ村・中方村と一村であった(遠淡海地志)。「寛文朱印留」に村名がみえ、横須賀藩領。元禄郷帳では高五二〇石余。同帳国立史料館本によると旗本室賀領。享保郷村高帳でも同領、高三七三石余。旧高旧領取調帳でも同領、高五二〇石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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