改訂新版 世界大百科事典 「淡島信仰」の意味・わかりやすい解説
淡島信仰 (あわしましんこう)
淡島様という神は婦人病に効験があるとされ,少彦名(すくなびこな)命をまつる加太(かだ)神社(和歌山市)を淡島明神と称し各地に勧請してまつるという。一説に淡島様は住吉明神の妻神であったが帯下(たいげ)の病にかかり,熊野の淡島に流され,女の守り神になったともいう。江戸中期からは淡島願人(がんにん)と称する乞食坊主が,神棚を背負い祭文を唱えながら縁起や功徳を説いて各地をまわり,この信仰を広めた。淡島様には婦人病や花柳病の者が腰巻や布きれを奉納して平癒を祈願するが,安産や縁結びの神として信仰したり,人形や凹形の石を奉納する所もある。3月3日が祭日で,流し雛は淡島様の所にとどくといったり,この日に女性たちが淡島講を催す地方もある。またこの神を頗梨采女(はりさいによ)ともいい,針供養と結びつき,2月8日には折れ針や古針を豆腐やこんにゃくにさして供える所も多い。東京浅草寺境内の淡島堂はこの日,参詣客でにぎわう。
執筆者:蛸島 直
淡島物
淡島信仰の普及に伴い,淡島願人の風俗が歌舞伎舞踊の中にとりいれられて成立した一群の作品をいう。
その最初とされるのは《近世邦楽年表》の中に記されている1759年(宝暦9)閏7月江戸市村座上演の《粟島園生竹(あわしまそのうのたけ)》で,市村亀蔵の関東小六が淡島願人となって廓へ入り込み,初世中村富十郎の遊女大岸と恋の所作をするというのが内容らしい。続いては70年(明和7)秋市村座で上演された《関東小六後雛形(かんとうころくのちのひながた)》で,市村亀蔵の丹波屋七郎兵衛(丹七)が淡島願人となって廓へ入り込み,中村喜代三郎の扮する音羽と恋を語るという形で上演された。丹波屋九郎兵衛と兵庫屋の遊女音羽が心中を謀って失敗し,心中禁止の令にふれ日本橋で3日間晒し者にされたという1731年(享保16)7月の事件に基づいて脚色されたのが〈音羽丹七〉の作品である。そして丹七は関東小六と同様に淡島願人となる設定が一般的となった。1859年(安政6)4月市村座の富本浄瑠璃《種々薩埵誓掛額(しゆじゆさつたちかいのかけがく)》は河竹黙阿弥作で,河原崎権十郎の丹七,岩井粂三郎の音羽で演ぜられている。他には1807年(文化4)5月江戸中村座初演,2世瀬川如皐(じよこう)作詞の常磐津《禿紋日雛形(さとそだちもんびのひながた)》は淡島の修行者を3世坂東三津五郎,禿(かむろ)を5世岩井半四郎で,五節句の所作事のうち弥生の部として演ぜられ好評であった。この曲は今も伝えられている。
執筆者:林 京平
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報