孤児や非行少年など社会から見捨てられた少年の保護と救済のためにつくられた町で、1918年アメリカの神父フラナガンE. J. Flanagan(1886―1948)によって合衆国ネブラスカ州オマハにつくられたのが最初である。この町はすべて少年たちの自治的な組織(少年町長1、議員5、理事25)によって町の行政・財政・教育機関が運営されており、36年以後には正式の地方自治体の町Boys Townとして認められている。
わが国では1947年(昭和22)フラナガンの来日や同名の映画公開によって、この構想に対する共感が高まり、新潟市、瀬戸内海因島(いんのしま)、神戸市、仙台市などでこれに見倣った事業がおこされたが、現在では消滅したものもあり、初期の形態は残されていない。
[上野文枝]
…第2次世界大戦直後の荒廃只中の日本を訪れ,その得意とする青少年補導の独特の手法をもって,戦災孤児・浮浪児対策に貢献した。アイルランドに生まれ,渡米してカトリック司祭となり,ネブラスカ州オマハに伝道中,浮浪児の非行対策として1917年,少年たちの自治精神による共同体生活を中心とする〈少年の町Boys Town〉を創設した。日本においても,この独自の施設運営をもって,非行少年対策に新機軸を導入しようと努め,社会事業界の注目するところとなった。…
…初め聖職者を志したが,学生芝居で主役を演じてから俳優を志し,ハリウッドのトップスターの一人となった。1935年にMGMへ移ってから芸域の広さを示す作品に恵まれ,とくにビクター・フレミング監督の《我は海の子》(1937)とノーマン・タウログ監督の《少年の町》(1938)でアカデミー賞の歴史で最初にして唯一の2年連続アカデミー主演男優賞の受賞者となり,その後も《桑港》(1936),《花嫁の父》(1950),《日本人の勲章》(1955),《老人と海》(1958),《ニュールンベルグ裁判》(1961),《招かれざる客》(1967)でノミネートされた。 第2次世界大戦前は,飲酒によるトラブルや女優のロレッタ・ヤングとの関係をめぐって好ましからざる風評もあったが,42年のジョージ・スティーブンス監督《女性No.1》をはじめとする9本の作品で共演することになったキャサリン・ヘプバーンとの公私にわたる親交がハリウッドの〈伝説〉になると,トレーシーには別居中の妻がいたにもかかわらず,ゴシップ種にされることもなく,2人で共演した《アダム氏とマダム》(1949)の監督でもある劇作家ガースン・ケニンによる伝記《トレーシーとヘプバーン》(1970)は,良書としてベストセラーにもなった。…
※「少年の町」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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