1286年(弘安9)7月,モンゴル襲来後の九州社会情勢の変化に対処するため,鎌倉幕府が博多に設置した九州の訴訟審理機関。当初は武藤経資,大友頼泰,宇都宮通房,渋谷重郷(しげさと)の4人頭人(とうにん)で構成されたが,のちに前2者がそれぞれ子息の盛経,親時にかわった。幕府からは九州における裁断権をゆだねられていた。しかし,裁断を行った裁許状は残っておらず,実際には問状(といじよう)・召文(めしぶみ)発給などの訴訟審理手続および幕府への執進・注進にあたっており,訴訟準備機関的性格が強かった。訴訟の審理対象は原則的には所務沙汰(しよむざた)だけで,雑務(ざつむ)・検断(けんだん)両沙汰は守護が行った。ただし肥前国は例外で,談議所が守護とともに検断沙汰を行っている。4人頭人中の武藤・大友両氏は,鎮西東方・西方奉行として,聴訴のみならず蒙古合戦の勲功賞の配分をも行っている。談議所は北条兼時・時家の九州下向後も存続し,鎮西探題北条実政が来任し,その下に評定衆,引付衆が設置されるまでつづいた。
→鎮西探題 →鎮西奉行
執筆者:佐伯 弘次
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
モンゴル襲来後の1286年(弘安9)、鎌倉幕府が筑前国博多に鎮西統治及び鎮西御家人の訴訟処理のため設置した機関。その頭人(とうにん)の大友頼泰(おおともよりやす)、少弐経資(しょうにつねすけ)、宇都宮通房(うつのみやみちふさ)、渋谷重郷(しぶやしげさと)の4人の合議によって決定がなされていたが、のちには頼泰、経資の権限が強くなり、1291年(正応4)には、それぞれの子である大友親時(ちかとき)、少弐盛資(もりすけ)に権限が引き継がれている。北条兼時(ほうじょうかねとき)、北条時家が鎮西に下向して権限を行使していた時期も機能していたが、1296年(永仁4)、北条実政(さねまさ)が鎮西探題に就任すると、頭人は鎮西引付衆(ひきつけしゅう)に補任(ぶにん)されたことによって、その機能は吸収され消滅した。
[瀬野精一郎]
『川添昭二著『鎮西談議所』(『九州文化史研究所紀要18』所収・1973)』▽『瀬野精一郎著『鎮西御家人の研究』(1975・古川弘文館)』
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