屋部村(読み)やぶむら

日本歴史地名大系 「屋部村」の解説

屋部村
やぶむら

[現在地名]名護屋部やぶ旭川あさひかわ中山なかやま

名護なぐ間切の西寄りに位置し、東は宇茂佐うんさ村。名護なご岳に源を発する東屋部ひがしやぶ川と北の山地からの西屋部川が合流して屋部川となり、名護なご湾に注ぐ。集落は二つの川が造る沖積低地と浜堤に立地し、大島ぷすまー久護ふぐが古く、海岸寄りの兼久かにくぱまが新しい。上原ういばるは明治以降に士族が移住して形成された屋取集落である。「おもろさうし」巻一七の六に「又 まはねしの たれしけち きよもの(真羽地の作り酒が来たもの)/又 あわ やふのせにたまり きよもの(安和 屋部のぜにたまり〔神酒〕来たもの)」とあり、豊穣を予祝した際に当地の酒が寄せられている。絵図郷村帳に名護間切「屋ぶ村」とみえる。琉球国高究帳では同間切「屋ふ村」と記され、高頭四二石余、うち田三二石余・畠九石余。「琉球国由来記」は屋部村と表記する。「球陽」附巻に載る尚貞王三一年(一六九九)条によると、竜福寺の住僧凌雲(諱名宗憲)は「屋部邑」に草庵を作って移住した。大旱魃の年に七日間雨乞の念経呪法を行って雨を降らせ、火事の多い当村に壇を設けて経を念じ、火災を止めた。その当時も凌雲の草庵があり、人々は一月・五月・九月にここを拝む。現在は屋部やぶ寺とよばれ、地元の人々の信仰があつい。屋部ウェーキ(久護家)は北山系の崎山按司家を祖先とすると伝える(「元祖歴代日記」久護家文書)。近世中期以降、仕明地の開発で農地を集積し、近世末には屋敷一千五〇〇坪・仕明地四万八千坪を所有していた(名護六百年史)。屋部ウェーキの墓は乾隆二〇年(一七五五)に建造され、沖縄島北部では初期のものとされる墓碑が建てられた。


屋部村
やべむら

[現在地名]吉井町屋部

延寿寺えんじゆじ村の東、耳納みのう山地北麓から巨瀬こせ川中流左岸にかけての扇状地を占める。南山中には天台宗の古刹満願まんがん寺があったと伝え、中世には同寺の後背の山上に満願寺城などが築かれたという(吉井町誌)。「吾妻鏡」寛元二年(一二四四)七月一六日条によると、生葉いくは庄内得安名をめぐって御家人吉井四郎長広と争った矢部十郎直澄がおり、矢部氏は当地を名字の地とする在地領主であったと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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