山上郷(読み)やまがみごう

日本歴史地名大系 「山上郷」の解説

山上郷
やまがみごう

古代能美郡山上郷(和名抄)を継承する。領域については、長禄四年(一四六〇)七月二四日の神主職寄進状(東大寺文書)に「山上郷清水惣社」とあり、また天文一五年(一五四六)六月一八日の西泉等公用算用状(石清水文書)にいずれも山上郷を冠して「山田新右衛門尉」「出口村九郎右衛門尉」「北市五郎右衛門尉」「長山八郎右衛門尉子」などとみえることから、手取川左岸平地、現辰口町北西部の山田やまだ出口でぐち北市きたいち上清水かみしみず・下清水を中心とした一帯に比定される。中世には能美庄に属した。なお一向一揆下においては能美郡に山上組・板津組・南組・山内組の四組の一揆中が存在したが、山上組は辰口町北西部のほか、和気わけ八里やさと中野田なかのだ(現小松市)などを含む手取川とかけはし川に挟まれた能美郡北部地域が範囲とされている。

尊卑分脈」には加賀斎藤氏(藤原時長孫)系武士団林氏の庶流に「山上六郎光隆」を祖とする山上氏がみえる。同氏は当郷を開発して土着、在地領主となったと思われるが、「辰口町史」は光隆の子弥太左衛門尉忠光・同孫右衛門尉朝忠は一三世紀前半頃の人物で、承久の乱に際しては上皇方にくみしたのではないかと推定している。


山上郷
やまかみごう

摂関家(のち近衛家)かき御園の一郷。郷内の地名として熊原くまはら村がみえ(康安二年九月二日「崇永寄進状」永源寺文書)、また高野たかの永源寺はしばしば山上と称されるから、郷域は愛知えち川を挟む相谷あいだに・高野をも含んでいたと考えられる。

年月日欠の延暦寺西塔僧湛禅解(京都大学所蔵兵範記保元二年冬巻裏文書)に山上郷とみえ、一二世紀半ば小椋おぐら庄から当郷に下ろされた延暦寺釈迦堂後戸の閼伽棚修理用の榑をめぐり、小椋庄柿御園の間で争いがあった(八日市市の→柿御園。南北朝・室町期には用水の帰属をめぐり南方市原いちはら庄と争い、応永二二年(一四一五)四月に至り柿御園側の勝訴となって決着した(「満済准后日記」同年四月二八日条など)


山上郷
やまがみごう

和名抄所載の郷。高山寺本に「夜末加美」、東急本に「也万加美」と訓ずる。郷域は手取川扇状地の扇頂部南側で、能美丘陵北麓にあたる現辰口たつのくち町北部と考えられている(「日本地理志料」「加賀志徴」など)。推定郷域内には岩本いわもと古墳群・来丸らいまる古墳群・茶臼山ちやうすやま古墳群などが分布する。郷名の由来について従来は山上の「山」は辰口丘陵や能美五丘および扇状地に島状に残った微高地をさすものとみなされてきた。ところが延暦八年(七八九)七月一五日の年紀をもつ「山上郷戸主山□□(足米カ)戸米五斗」の木簡が長岡京跡から出土した。


山上郷
やまかみごう

「和名抄」東急本・高山寺本ともに訓を欠く。同書の加賀国能美郡山上郷には「也万加美」「夜末加美」の訓が付されているので、これに準じて訓じておく。「日本地理志料」は現矢板市片岡かたおかと同市中央部の塩那えんな丘陵周辺に当郷を比定するが、この説は片岡郷の位置を誤定したうえでの推測であり採用しがたい。


山上郷
やまのべごう

「和名抄」所載の郷で、同書高山寺本など諸本とも訓を欠く。ヤマノウヘ、転じてヤマヘであろうか。比定地は未詳であるが、「新撰姓氏録」右京皇別下にみえる山上朝臣に関連するとして八辺やつべに比定する説がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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